第103話:帽子の思い出(前編)
[星暦998年9月5日]
軍本部、とりわけ中心となる事務所はまだ、幹部たちが個室を持てる状況ではなかった。まあ、学生気分の抜けきれない彼らには逆に集中できる環境なのかもしれない。ワンフロアぶちぬきの作戦立案室に、バラク以下の幹部たちはたいていそこで執務している。今日は尊も顔を出していた。
「あれ、……どう思う?」
エリカたちがひそひそと話している。
「寡黙な男」を自称するラザロが顔に絆創膏を貼って出勤してきたのである。顔も少し腫れている。
「ね、猫……じゃないですかね?」
シモンのかまととぶりにジョシュアが
「バカだなあ、そんなにナイスバディな子猫ちゃんがいると思うか?」
とツッコミをいれ、エリカの鉄拳制裁をくらっていた。
ラザロはゴバイタス委員とダタンの件で動いていて、恐らく、今ラザロの下で動かされているチームがそのまま軍の情報部(諜報部と)なるのではないか、と噂されていた。
何か、手違いによってダタンと接触(鉢合わせ)でもしてしまったのだろうか?
ラザロが突如立ち上がる。彼は尊のデスクの上にディスクを置いた。
「士師、報告書です。自分はこれからまた、潜りますんで失礼いたします。」
敬礼して素っ気なく立ち去るラザロに、
「ありがとうラザロ、お疲れ様。気をつけてお願いしますね。」
尊の答えもこれまた素っ気なかった。ラザロは、今さっき入室してきたバラクにすれ違い様に敬礼を交わすと作戦立案室を退出しようとした。
「ラザロ、皆にはその(傷の)理由を話したのかね?」
バラクの問いに
「いえ。」
と短く答えるとそのまま退出した。
「司令はラザロのこと、何かご存知なのですか?」
エリカはラザロの姿が見えなくなると事情に通じていそうなバラクに尋ねる。
「聞きたいのか?」
と応じたバラクは。、皆が真顔で力強く頷いたので一つ咳払いする。にわかに注目を浴びて思わず緊張したバラクの姿に、後ろに控えるニックがクスクス笑った。
「いや、考えてみればラザロが話したくないのも理解できるが……」
ラザロが担当している職域は広く、諜報・情報収集の他に要人警護にも及んでいる。捕虜交換によって一気に人口が増え、しかもスパイの潜入もある今の状況においてどちらも抱える案件が増えているのだ。
さらにはエンデヴェール家のこともある。現在は誰か有能なものに、要人警護部門全般を任せようという方針には変更がないのだが、いかんせん、尊の警護を任せられる人材が出て来ないのだ。まあ、尊の副官は「ベリアル」がいるので間に合ってはいる。
そのため、ラザロにしわ寄せが来ているのだ。基本的に目立つことが嫌いなラザロにとって要人警護の目立つ任務は特に苦手であった。まあ、誰もラザロに注目するわけではないが。
それで昨日はファーストレディのアーニャの公務に付き添ったのである。アーニャは高校の授業の視察で学校を訪れていた。アーニャは校庭で全校生徒に挨拶をしていた。ラザロもアーニャの背後に立って周囲を警戒していた。初秋に差し掛かった朝はまだ陽射しが強いが、吹き抜ける風が気温を押さえていた。
アーニャは時折強く吹く風に帽子を飛ばされぬよう気にしながら学生たちに語りかけている。
その後ろ姿を眺めながらラザロはふと自分の幼い頃を思い出していた。ラザロが生まれたのは工場勤務の奴隷の夫婦の家庭だった。工場街に近接する"マンモス"団地の小さな部屋に両親と3人の弟妹と住んでいた。彼は利発な子供として知られており、噂を聞き付けたスカウトを通して"奴隷養子"として引き取りたい、という照会も何件か来ていた。ラザロの両親はビスコンティ家にラザロを引き渡すことを選んだ。そこが一番支度金が高かったからである。
ラザロの生活は一変した。食うに困らない生活。勉強に集中できる環境。彼は一心に学び、身体を鍛え、養父母の期待に応えようと努め、その期待を超える進歩を示した。彼は総領娘にあたるジョアンナにつけられ、いずれは執事として補佐をすることが期待されていた。ジョアンナはラザロより3歳年少であり、ラザロを兄のように慕い、ラザロもジョアンナを可愛がった。ジョアンナは一人っ子だったのである。
さーっと強い風が吹いて校庭の木々を揺らした。アーニャの帽子が広いつばが風をはらみ、上へと舞い上がった。ラザロは無意識にスタートを切り、跳躍すると片手で帽子をキャッチする。おお、と聴衆からどよめきがおこる。
ラザロはジョアンナの12歳の誕生日に帽子をプレゼントした。つばの大きな、控えめな大きさの白いレースのリボンのついた帽子だった。彼女は大層喜び、ドレスを選ぶときも、帽子に合うかどうかで決めるほどのお気に入りだった。
ある時、その帽子が飛ばされ、崖っぷちにある木に引っかかってしまった。取りに行く、と言って聞かないジョアンナをラザロは叱った。しかし、車に戻った時、息を切らせて走って来たのはジョアンナのトイレにつきそったはずのメイドであった。
お嬢様がいない。という報告にラザロは反射的に崖っぷちに走った。無茶をしてくれるな、と祈るような気持ちで向かう。しかし、彼女の姿も帽子もそこにはなかった。
崖下を確認したラザロは心臓が潰れるような思いをする。ジョアンナが墜ちていたのだ。ただ、途中の木に引っかかって事なきを得たようだった。
今思えばジョアンナにとってこの帽子はラザロとの絆の象徴だったのかもしれない。リボンが破れ、恐らく彼女の体重を支え切れなかったのだろう。帽子は大きく裂けていた。ただ、そのワンクッションが彼女の身を護ったとも言える。
「ごめんなさい……」
破れた帽子を抱きしめ、嗚咽しながら謝罪の言葉を繰り返すジョアンナの頭を撫でながらラザロは
「ありがとうございます。お嬢様。」
そう礼を述べた。ジョアンナは意外な言葉に泣き腫らして真っ赤になった眼を上げた。
「ご無事でいてくださって。帽子もお嬢様を御守りできて喜んでおりましょう。私も嬉しいですよ。」
「でも、私……」
ジョアンナは責められるものと思っていたのにそうされなかったことに、不安な顔を見せる。
「勿論、お叱りは受けていただきます。ただし、私にではなく、お父上にです。」
ホッとしたような顔を見せたのは、ラザロに見限られるかもしれない、という不安が消えたからだろう。ただラザロも罰を受けねばならないことを彼女は理解していなかった。




