ハンカチ革命
「今日のこの時間はまずハンカチ落としをやります。じゃあみんな輪になってー」
ある小学校のあるクラス。
今年で初めてクラスを受け持つようになった教員、笹本早希は、張りのある声で告げる。
生徒たちもきっと楽しむだろう。
そんな何気ない期待は、彼らの反応によって破られた。
ざわ……と不穏な騒ぎがその場を包む。
笹本は、倫理に反する問題発言をしたような気分になった。
「みんな、ハンカチ落としだよ? もしかして嫌?」
「……そ、そんなことないですよ!」
「そうそう! 別に嫌なことなんかっ」
「だ、だよなー!」
明らかに無理して装っている。
だが彼らは学級委員の「みんな輪になって下さい」の一言で、すすすと素早く配置についた。まるで訓練された軍隊のような、速やかな動きである。
「おっ、みんな速いね。前の避難訓練のときもそのくらい速くできたらなー」
しん、と辺りが静まり返る。
葬式のような雰囲気だ。
「ち、ちょっとみんな、どうしたの? やけに静かだけど」
「……集まる度に、静かになるまで何秒掛かったか測られ、あまつさえその時間を告げられる生徒の気持ち、先生にはわかりますか?」
「え……」
「やめなよアツ。笹本先生に言ってもしょうがないじゃん」
漂う緊張感に、笹本まで生唾を飲み込む。
何なんだ、この空気は。
「あ、じゃあハンカチ落とししようか。えーと、今日は25日だから……出席番号25番の根岸さんが鬼!」
「え……っ、でも」
少女はスカートの端をぎゅっと握り込み、俯いた。
やだ、そんなに鬼が嫌なの?
困惑する笹本に、根岸が告げる。
「今日のハンカチは床に置きたくありません……おばあちゃんの形見なんです……」
生徒たちの視線が一斉に笹本へ集まった。
それは、祖母の形見をぞんざいに扱うよう命じる冷酷な教師と非難するようなものにも見えた。
「ご、ごめんねっ。じゃあ先生のハンカチ使って! 汚しても構わないから」
「ありがとうございます……」
根岸がハンカチを受け取る。
その瞬間、静かなる戦いの火蓋が切られた。
子どもたちは体育座りの姿勢で、背後を歩く根岸の気配に集中する。
響くのは根岸の足音のみ。
そんな中、男子生徒の一人、土田がそっと後ろに手を伸ばした。
……ハンカチだ!
柔らかな布を握り締めた土田は、そっと立ち上がると、足音を殺し駆けた。
「タッチ」
土田は、ぽんと根岸の肩を叩いた。
このゲームは、鬼がハンカチを落とした者にタッチされれば負けとなる。
これで根岸の負け。
……その筈だった。
しかし振り返った根岸は──笑っていた。
それは、捕らわれた敗北者の表情ではなく、勝利を確信した者にのみ許された黒い笑みだった。
「くっくっくっ、引っ掛かったね」
「……何?」
「手に持ったハンカチよく見たら? それはね」
根岸の指が、すっと土田の持つハンカチを指し示す。
「偽物。ダミーだよ、ツッチー」
「な……っ!」
馬鹿な。いつの間に。
はっと先程のやり取りを思い出す。
根岸は、祖母の形見であるハンカチを使いたくないと言っていた。……そこから既に彼女の罠だったのだ。
全てこのときのために。
「そう。本物のハンカチはここ。──ほうら捕まえた、武井くん」
笹本のハンカチを置かれた真の獲物を、彼女はタッチした。
途端、他の者たちもざわつく。
「根岸の野朗……小ずるい手使いやがって」
「あんなん古典的だろ? 引っ掛かる土田と武井が悪いんだよ」
「ネギちゃんサイコー」
ごくりと武井は生唾を飲み込んだ。
戦慄する彼に対し、根岸は柔らかく微笑む。そこからは勝者の確固たる余裕が感じ取れた。
「では武井、そこへ直れ」
すっと立ち上がった学級委員長が、「便所行き」となった武井に命じた。
冷ややかな声で委員長は続ける。
「此度、貴様は、便所行きという男にあるまじき恥を大衆に晒した。これは我がクラスの者の名誉を傷つけたとして、大変重い罪である。──よって、罰として切腹を申し付ける」
うあああ、と悲痛な咆哮が、武井の口から溢れ出た。
「介錯人、土田、前へ」
名指しを受けた土田は、50cm定規──いや、刀を抜き、かすれた声で一言漏らした。
「武井……すまない……っ」
そして、武井の首目掛け、刀が振り下ろされた。
無慈悲な光景だった。
その様子を見ていた者たちも、ひそひそと声を漏らす。
「武井の奴、便所行きになんかなるから……」
「あいつ、自分のところにはハンカチは落とされないって、たか括ってたんだよ……馬鹿だよな」
その声に含まれるのは、憐れみというより、嘲笑に近かった。
どうして、こんなことに。
笹本の呟きに反応する者は誰一人としていない。
異様な空気の中、第二試合が始まった。
そわそわと動き出したのは、男子生徒の原口だ。弄る手にある感触は、確かに布のそれだ。
原口はハンカチを手に取って、鬼の元へ駆け出した。
「タッチ!」
原口の快活な声が全員の耳に届く。
「原口くん……」
「な、何だよ」
人形のような温もりのない笑みを浮かべた鬼は、そっと原口の手元を指差した。
「それ、ハンカチじゃないよ?」
はっと、原口は手元を確認する。
彼が握りしめていたのは──雑巾だった。
「な……っ」
確かにハンカチの感触だと思ったのに。
恐怖と緊張が、判断を誤らせたのか。絶望のあまり原口は膝をついた。
「もう騙されねえ。真の狙いは──俺、なんだろ?」
そう言って立ち上がったのは、クラス一太ましい体型の男児、山中だった。
「俺のところに落ちてたぞ、ハンカチ」
山中はひらひらと四角いそれを見せた。
「あはは、山中くん、よく見てみなよ。それ──」
にやりと鬼が口元を歪めた。
「ハンカチじゃなくて、食パン」
山中の手にあったのは、赤い調味料がたっぷり塗られた食パンだった。
「な、にぃ……!?」
クラス中が騒然となった。
──あの赤いのは何だ。
──ケチャップだ。
──なんでケチャップ?
「こ、こら! 食べ物を粗末にしない!」
慌てて我に返った笹本が叱りつける。
だが返ってきたのは、謝罪でも言い訳でもない、想定外の言葉だった。
「先生! 俺は食べ物を粗末になんかしません!」
そう言って山中は、真っ赤な食パンを頬張る。
その様子に、教室が驚き声で満たされた。
「あ、あいつ三秒ルールもなしに床に置いたもの食ったぞ……!」
「すげえ山中! 俺にはできねえ!」
「あいつの食欲どうなってんだ!? まるでモンスターだよ!」
口々に交わされるそれは、山中という勇者に対する称賛とも取れた。
だが話はそれだけでは終わらなかった。
「ぐ……っ!?」
山中は手からパンを落とし、咀嚼していた口を押さえた。
「なっ何だ!?」
「どうした山中!」
悶え出した山中に、生徒らが目を見張る。
山中は苦痛に喘ぎながらも、その理由を口にした。
「こ、これ、ケチャップじゃねえ……」
「ケチャップじゃない……? ま、まさか……!」
「そうだ。……タバスコ……だよ」
その言葉を最後に、山中はがくりと力なく倒れ込んだ。
「や、山中ぁぁぁ!!」
涙混じりの悲鳴がつんざく。
そして悲劇はまだ続く。
「う……っ!」
今度は、山中より先に罠に引っかかった原口に異変が起きた。
「こっ、この雑巾、牛乳臭え……っ」
その強烈な臭いは、原口の鼻を通り、脳すらも刺激した。
強すぎるそれは雑巾だけでなく、雑巾に触れた者の手にもこびりつく。
わずかに残されていた原口の気力と体力が、根こそぎ振り落とされた。
「……ぐは……っ」
原口が、呆気なく地面に伏せた。
誰も駆け寄ることはしなかった。それがハンカチ落としのルールだからだ。
しん、と静寂がその場を支配した。
恐怖をまざまざと見せつけられた彼らには、自ら言葉を発する勇気など削ぎ落とされ、無きに等しい。
ただ嵐が過ぎ去るのを震えながら待つしかないのだ。
「……もうみんな、やめようよ!」
堪えきれなくった笹本は腰を上げて、叫んだ。
「こんなっ、こんなの間違ってるっ。ハンカチ落としって楽しいものでしょ? みんなもっと仲良く──」
「甘いんだよォ!」
男子生徒が血走った眼で叫び、笹本の発言を掻き消した。
「このゲームはなあ……ハンカチという爆弾に怯えながら、隣の友人を疑い、正面の人間を嵌めようと企み、真後ろを歩く鬼を憎み、そしてそれを気取られぬようひたすら感情を押し殺す……そういう悪魔の遊びなんだよォ!」
ひどく重苦しい声だった。
「それに加え、永遠かと錯覚するような長い緊張を強いられるこのゲームは、まさに人生の苦痛を集大成させた責め苦だ」
彼らの表情は、絶望に染まり切っていた。
今まで一度も、こんな姿を見たことなかったのに。
「だが俺たちはやらなきゃいけない。人を狂わせるギャンブルのような、この遊びを」
「わかってる。このゲームには欲望と破壊しかないって。……だけど!」
「やらなきゃならないんだ。所詮俺たちは、学校という名の監獄に入れられた哀れな囚人だからな」
そして生徒たちの刺すような視線が笹本に集まった。
「看守の命令は絶対」
「そうして今も、ハンカチを落とし続けるのさ……はは、滑稽だよな。まるで操られたマリオネットだ」
「笑いたきゃ笑えよ! この憐れな俺たちをよぉ!」
あはははははは。
寒々しい空笑いが教室に響き渡る。
もうこれは、楽しいレクレーションの時間ではなかった。地獄だ。
──皆が沈みきった表情で俯いている、そのときだった。
ひとりの男が、静かに立ち上がった。
「……英?」
誰もが訝しげに見つめる中、立ち上がった男──英は、迷いのない動作で、ハンカチを手に掴んだ。
「こんなことは、もう終わりだ」
「は? 何を言って……」
「俺たちはッ!」
英の声が、クラスに蔓延する毒を切り裂く。
まるで、英雄の振りかざす聖剣のように。
「俺たちは、奴隷でも囚人でもない。俺たちはただ一人の……自由を赦された、ただ一人の、人間なんだ!!」
誰もが息を呑んだ。
それは、乾いた砂漠に存在するオアシスのような、瑞々しく輝いた、救いの言葉であった。
皆、心の中でその言葉を求めていた。そしてとうとう、英がそれを口にしたのだ。
「こんな物があるから……っ」
英は、ハンカチを持ったまま、机の中からハサミを取り出した。
「は、英っ!? 何を……っ!」
「こんな物があるから、争いが消えないんだ!!」
ジョキッ。
鋭利な刃が、ハンカチを裂いた。
そのままハサミは、諸悪の根源である憎きハンカチをジョキジョキ切っていく。ハンカチが切られる度に、生徒たちは、自分を縛めていた鎖が外れるような気持ちになっていった。
「今、忌々しいハンカチは消え去った」
英の演説が、彼らの心を洗う。
「この時をもって──俺たちは自由の身となった!」
ワアアアアアアッ!!
歓声が轟く。
皆が涙を流し、ひしと抱きしめ合い、人の温もりを分かち合った。
もう、自分たちを縛るものはない。地獄は終わった。
窓から差し込む光が、未来への確かな希望を表しているようだ。
目の前で繰り広げられる光景に、笹本も感動の涙で頬を濡らした。
──みんな、おめでとう。
生徒たちに祝福の言葉を送る。
そして、もうひとつ、ずっと口にしたかった言葉を、笹本は大きな声で吐き出した。
「てかそれ私のハンカチ!!」
―完―