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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

徒花のメメント

作者: 秋野京

 

 三年目の春。一年前より少し高くなった視界から見る新しい教室に投げ込まれたのは一つの爆弾だった。

「人殺しの娘」

 どこからか紛れ込んだ桜の花びらと新しい生活の始まりを期待する柔らかな表情たちを吹き飛ばすのにそれの威力は十分すぎた。鬼の形相で睨む整った顔立ちの女子とそれを受け止める私に集まる視線、次々と投下される罵声、興味本位に覗きに来る顔のないその他大勢。春風が私の最後の高校生活に運んできたのはそんな光景だった。



 日常の強度は思っているよりも高いと思っていたのだけれど、いとも容易く私のそれは壊れてしまった。いや、この場合は使われた道具が余りにも強すぎたせいなのかな? まあ、そんなことはどうでも良い。兎に角、壊れてしまった。

 いやあ、例の件が白日の下に晒されてから一ヶ月が経った訳ですが、正直参りましたね。あの手この手で来る嫌がらせの数々と来たらもう。今時上履きに画鋲を入れられる、とか教科書に悪戯書きをされる、なんて憂き目に遭うとは夢にも思いませんでした。衝撃だったのはホンモノかどうか知りませんが何やら白くてベトベトした物が私の体操着に付いていた事ですかね。参った参った。終いには仲の良い友達……違うな、私が仲の良いと思い込んでいた方たちに一斉に距離を置かれましたしね。女子同士の友情が脆いというのは本当だったんですよ、悲しいなあ。まるでオセロの白が黒にひっくり返されていくように、それはもうひと息に、鮮やかに、私の味方らしきものは夢幻の如く消えたわけですよ。そうなると流石の私も昼休みの教室に居座る、なんてことは出来ない。見栄を張って用意した小さ目のお弁当箱に入った可愛らしいオカズを突っつきながら、やれ昨日見たドラマが面白かった、何処其処の誰々が付き合い始めた、だとかそんな糞不味いスナック菓子みたいなお喋りも出来なくなってしまったのです。哀れだなあ。そんな訳で憫然な私を更に痛めつけようとする連中から逃れるには女子を捨てたフォームで全力疾走して屋上に逃げ込み、唯一の侵入口である扉の鍵を掛けてやるぐらいしかないのよね。惨めだなあ。

 無事に屋上に辿り着いた私は乱れた呼吸を整えながら、茶色に染まった痛々しい肌触りの髪を撫で付ける。白の柵に囲まれた長方形の空間を見渡すように前を向くと、先客らしき男子生徒が柵に背中を預け、足を投げ出すようにして座り、本を読んでいる姿が右側に見えた。春とはいえまだ肌寒いことに変わりはない、変わった奴だなあ。きっと屋上で本を読むという行為に酔っている気持ち悪い輩なのだろうと失礼な感想を抱きながら目立たない所に移動しようとするが、その時にちらと見えてしまったボロボロの本のジャケット、それが良くなかった。不意に飛び込んできたそれに私は「あ」、と間の抜けた声を上げてしまう。

 先客がびくりと身体を震わせるとこちらに顔を向けた。ああ! ツイていない。振り向いたその顔は見覚えがあるどころか以前同じクラスだった男子であった。

「二重の意味でびっくりした」

「は?」

「人が居たのとそれが夜野さんだったこと」

 私は偶然とは思わない。こいつは一年の時からかなりの頻度で私のことを観察していたのだ。バレてないと思っているのかもしれないが、病的なまでにしつこく視線を送られれば嫌でも自覚させられる。今思い出しても肌に粟が立つ。

「そう。私はそっちのことなんて知らないけど」

「話したこと無いしね。カワセだよ。去年同じクラスだった」

 川瀬はわざわざ漢字はこういう字を書くんだと心底どうでも良い情報を糞のように垂流していたが、聞き捨てた。

「で、何か用? あんたも私に何かするの」

「しないよ。騒がしくなったなって思っただけ」

「読書の邪魔だから出てけ、と」

 私がうんざりした様子でそう言うと川瀬はとんでもないと首を振って、「ただ、大変そうだなって」と言った。その返答を聞いて私は余計に気分が悪くなった。クラスにいじめられている子が居ても特に何もしない中立派のような言葉だったからだ。大変なのは普段の私の様子を見れば同じ学年ならば分かるだろうに。馬鹿にしているとしか思えない。

「あのさ、何で夜野は急にこんなことされるようになったの。去年までは周りから凄い好かれてたでしょ」

 無神経ここに極まれり。この方はどうしても私を怒らせたいのかしらん。大体、普段は地味なくせに何だってこうも絡んでくるのか。

「人殺しの娘だから。あいつらもそう言ってるでしょ」

「本当とは思えない」

 私はその飾り物みたいな耳にもよく聞こえるように舌打ちすると怒気をはらませながら言う。「本当だ」、と。

 そう、残念ながら真実なのだ、嘘偽りのない。目を閉じると父の日記に書かれていた文字が浮かび上がる。そこから見える父の心が私を揺さぶる。揺れた心が当時の姿を映し出す。

 私の父は銀行員だった。父は銀行の数ある融資先の一つであるネジ工場を担当していたが、上司からその工場との関係を断ち切れと命令された。所謂貸し渋りという奴だ。工場長との個人的な付き合いもあった父は当然、反発した。先輩にも相談した。しかし、望む答えは返ってこない。当然だ、銀行も慈善事業でカネを貸しているわけではないのだ。故に融資先からのリターンがこれから先望めそうにないのなら傷が深くなる前に切る。ありふれたビジネス。父は融資を切ることを告げるその日に謝罪した。何度も、何度も。

 数日後、その工場長が自殺したとの知らせを受ける。同僚や上司からの形だけの慰め。君は良くやった、仕方のない事だ、融資を得るだけの力を持たなかった工場が悪い、様々な言葉を掛けられた。だが、そんな言葉で心に負った傷が癒えるはずがない。ましてや父のような責任感のある人間は抑え込めない。

 そして私は父と共に工場長のお通夜に参列した。一人でこの場に向かわせるのは余りにも酷だと思ったから。無論、反対されたが強引に食い下がり付いていった。だが、そこで工場長の娘から投げられた言葉がどうしようもなかった。

「出てけこの人殺し」

 父はその時無様に土下座した。あんなに哀れな姿は後にも先にも見たことがなかった。娘を止めながらも冷め切った目で見る奥さん、娘の泣きはらし、怒りに燃える瞳。物も投げつけられ線香の一本も上げる暇なく追い出された。強くも弱くもなく、執拗に肌を打つ雨。それに濡れた父の今にも壊れそうな背中を今も思い出せる。そしてその娘こそが二日前に私の世界を壊した鷹野恵だった。

 川瀬は黙りこくった私を暫く見つめると読書に戻り始めた。何度も読み返したのだろう、ボロボロになって色褪せて、タイトルすら消えかけた絵本――よだかの星。私は川瀬に聞こえないように舌打ちした。



 一日経ち、今日も私は教室の扉の前に立っている。軽く息を吸うと扉に手を掛ける。なんだかいつもより重い気がした。

 私が教室に入ると水を打ったような静けさが出迎える。次いでひそひそと何がしかを話す声。そのトーンと時折聞こえてくる私の名前のお陰で何をごちゃごちゃと言っているのか分からなくても、大変不愉快な気分にさせることを言っているのは伝わる。朝から素敵な歓迎の仕方に思わず涙が出そうになりますわ。嫌な顔をしそうになる自分を叱咤し、席に着く。クスクスと聞こえる笑い声には耳を傾けない。こういう場で重要なのは毅然とした態度を取ることだ。弱みなど見せてはいけない。かのオスカー・ワイルドは普通の富は盗まれるが、真の富は盗まれないと言った。今の私に必要なのは正にそれだろう。私の魂は何者にも汚せない永遠に貴いものなのだ。偏見、卑怯、臆病の亡者共に汚されて堪るものか。

 数時間が経つとノイズに塗れた授業時間が終わりを告げ昼になる。窓を見やると朝の快晴が嘘のように雨が降り始めていた。これでは屋上に行けない。図書室は司書さんが出張らしく閉まっている。他の場については誰かしら複数人が私に付き纏ってくる……つまり、この昼休みという時間において私には逃げ場がないのだ。ノイズは相変わらず響いている。本でも読もう、そう思った。

 暫くすると、何やら複数の生徒が先生に何事かを言い、連れ去っていった。嫌な予感がした。今度は四名の男子がハンドボールを持ちだして教室内で投げ合いを始める。何をしようとしているのかは予想が付く。先生を引き剥がしてまでやるにしては随分と幼稚だなあ。逃げるが勝ちなのだろうが、私のプライドがそれを許さなかった。昼休みを女子トイレ当たりまで逃げ込んで惨めに過ごすなど真平御免だ。頭のなかでごたごたと考えている内に衝撃が顔を襲った。

 ストレートに悪意の塊をぶつけてきたらしい。鉄臭い臭いがした。鼻血でも出ているのだろう。周りで見ていた女子たちがケラケラと笑う。不愉快だ。流石に顔を当て続けると先生にバレると考えたのか、今度は執拗に身体を狙ってくる。ハンドボールなのでバスケやサッカーのそれに比べるとマシだが、それでも勢いが乗ると痛い。私は本を読み続けた。

 次の日美術室に呼び出された。拉致されたと言った方が正しいだろうか。自慢ではないが、これでも歳相応の乙女なのだ。暴力になど屈しないが、敵う訳ではない。選択肢はなかった。男子が三人に女子が五人。随分と多い。切れ長の目に見下しの色を湛えた鷹野が近づくと私に言った。

「ねえ夜野さん。自分が何故こんなことをされているのか理解している?」

「さっぱり分からないよ」

 平手を打たれた。どうやらお気に召す回答ではなかったらしい。繰り返し、彼女は問うてきたが私はやはり分からないと返す。平手。頬が熱を持つのを感じた。

「お前の父親のせいで人が死んでるの。娘のあんたは何も思わないの? 土下座するなりなんなりして誠意を見せるとかそういうのないの?」

「土下座なんかじゃ足りないよー。誠意って言うならお詫びに死んでくれるぐらいはしてくれないと」

 周りがそれ名案、とでも言うように死んでよと声をぶつけてくる。謝る必要性なんて感じられないし、そもそもそんな筋合いもないのだが、人にネガティブな意思をぶつけられるというのは中々に来るものがある。気にしないようにしても、其処此処に傷が出来始め、それが増えると耐え難いものになっている。それに彼女たちも私も同じ人間。姿形は多少違えど似たような育て方を受けて、そして数年、同じ窓を眺めてきた者たちなのだ。なのに何故ここまで出来るのだろうか。唇を噛んだ。涙が出そうになったからだ。心から血が出ている気がする。深く被ったはずの仮面が取れそうになっている。

「いつもはあんなに強気で明るかったのに少し社会の厳しさに触れただけで無口になっちゃうんだから。そんなことなら最初から調子に乗らなきゃいいの。こんな奴と同じ字が名前に入ってるのも耐えられない、鷹子って名前も捨ててよ」

 不愉快そうに言った鷹野の言葉に「私は最初から夜野さん嫌いだったけどね」、「私も私も。男子に気に入られてるからって何人も振ってたりしてたし、漫画かっての。厭味ったらしい」その他諸々。本当に私が住んでいた場には友達やクラスメートなど居なかったのだという事実に気付かされる。

「そうだ。今迄散々男子を足蹴にしてきたんだから少しお詫びをしてあげたら」

「意味が分からないんだけど」

「こうするの」

 数人に取り押さえられ、カッターを喉元に突きつけられる。服を脱がされ、下着姿を晒し、何やら芸をさせられた。このまま犯されたりしてしまうのだろうか。ぼんやりと他人事のように考える。もう嫌だった。何もかもが。涙を浮かべそうになったその時、美術室の扉がを叩きつけるような音と共に「開けろ」と大声が聞こえた。それはまるでトースターにセットしたパンが焼きあがった時のような予定され、待ちわびた瞬間。そんな絶妙なタイミングであった。



「なんで助けたの」

「助けられてない。熱なんて出してる場合じゃなかった」

「答えになってない」

「一年の時からずっと見ていた。夜野さんを守るために」

「くさいね。なにそのストーカー染みた台詞。やっぱり答えになってないし」

 あの川瀬に助けだされ、服を身につけた私は彼を詰った。恩人に対して酷い対応であったが、こうすることでしか涙を堪えられそうになかったのだ。何かに対して怒りをぶつけていないと、色々なものが崩れてしまいそうだった。

「言ってもいいけど、信じて貰えそうにない」

「良いよ別に」

「姉弟だから。ヤノさんは俺の生き別れの姉だから」

「確かに面白い」

「真面目な話なんだ。血でも調べてくれれば父親が同じだって分かる」

「異母姉弟って事? お前私の父親が不倫するようなクズだって言いたいの?」

「事実だからしょうがない。何ならこれも見てくれていい」

 鞄から出されたのは一冊のぼろぼろの絵本。屋上で見た、忌まわしい、しかし大切な――

「よだかの星」

「もう絶版になって随分経つけど、俺達の父親が書いた本。これは父が二冊持っていた内の一つ。俺に譲ってくれた本。見たことあるだろ」

 幼い頃、父は兼業として絵本作家も務めていた。それなりに仕事は来たようだが、安定せず、銀行員としての仕事が忙しくなるに連れて筆を折った。「これは母さんや鷹子と同じぐらいに愛を、いや想いを込め続けてきた物語で大切な本なんだ」。一羽の鳥の物語を語り終えた父が、宮沢賢治の名と並んで刻まれた自分の名を感慨深げになぞる姿が浮かぶ。


「姉弟、今再になってなんだそれ。なにしてんだよお父さん」

 真相を問いたださねば、その一心で家へと帰ってきた私は父の部屋の扉を叩いて呼んだが一向に返事が帰ってこない。焦れた私はマナー違反と思いつつもドアノブに手を掛けた。

 扉の先には首を吊った父の姿。だらりと垂れ下がった腕と足とが、生々しく、顔は見るに耐えない表情を浮かべていた。

「なにこれ」

 誰も彼もが悪意に目を背けて逃げていく。あの日語り聞かせてくれたよだかのように世界から否定されたとしても、自分の力を振り絞り、不幸な世界から幸せな世界へと飛び立つ羽根を、この世界で一番大切なものを捨ててしまうのか。屈してしまうのか。

「ふざけるな」



 それから一週間が明けると私は再び学校へと向かった。母は無理をしなくて良いと止めたが、冗談ではなかった。腹の底に冷えて固まったようにして鎮座しているこの怒りを、ぶつけるべき相手にぶつけなければ気が済まない。成すべきことを成す。報いるべき相手に報いる。私は当たり前のことをやるのだ。晴れた空が私を見下ろしている。射す陽が学校への道を照らす。それはこれからの私を祝福しているかの様。今ほど自分のやるべきことが分かっているという感覚は経験したことがない。私の思考は澄み切っていた。

 学校に着くと私の机に花瓶が置かれていていつものように虐められた。人の家族が死のうとお構いなしだった。鷹野と同じ目に合ったのにも拘わらず。だが、今はそんなことは気にならなかった。

 放課後、川瀬と共に屋上に呼び出された。川瀬はあの日、私を助けだしたせいでいじめの対象にされてしまったようだ。元々力が強いわけでもない、腕っ節のある男子数名に囲まれてしまえば無力だったのだろう。

「じゃあ今日は久しぶりだし、前にやってもらったアレの続きしてもらおうかな……とその前に」

 今度は妨害が入らないようにと内側からわざわざ用意したのであろう南京錠を掛け、下卑た笑みを浮かべた鷹野が近付いて言う。「これ、何か分かる?」

 よだかの星。川瀬が持っていた。何故。

「これさあ、川瀬がいつも大事そうに持ってるからそこの頼れる男子に頼んで奪ったんだけど、作者名見てびっくりしちゃったんだよね。夜野晴彦ってあんたの父親でしょ? 同姓同名なのかなあとも思ったんだけど、今のあんたの反応見て確信しちゃった」。そうしてにんまりと笑うと鷹野はそれを見せつけるようにして破き始めた。びりびりびりびり、想いが破られていく。こいつはお父さんが、どれだけの想いを込めてそれを、その物語に、絵を、自分の色を加えたのか、知っているのか? 知っていて尚それを壊すのか。

 何が何だか分からなかった。それはせめてもの抵抗にと、そういった盾として持ってきたはずだった。だが、今それは盾ではなく剣となって、鷹野の腹に思い切り突き立てていた。

「え」

 何が起きたか分からないというような表情を鷹野が浮かべる。思ったよりも手応えが重い。何よりも肉を裂く感触が予想以上に生々しく、気持ちが悪かった。

「お前なんかがお父さんの想いを踏みにじるな、どれだけの、どれだけっ」

 自分が何を言っているのか分からない。ただ涙は溢れているらしく、鷹野を滅多刺しにしている手に雫が落ちていく。悲しかった、苦しかった、耐え難かった、許せなかった、止められなかった、止めたくはなかった、やるべきだと思った。

 一頻り泣き喚いた私が鷹野を刺したカッターについた血を払うと堰を切ったように悲鳴が上がりかけるが、それを私は調整の利かない喉から出した声で制した。

「声を出す奴は殺す」

 啜り泣く声が聞こえた。大部分が腰を抜かしていた。人に死ねなどと言っていた者達が、人の心を踏みにじり続けた者たちがこの有り様。私は笑った。

「こ、こんなことして」

「うるさい黙れ」

 私は腰を抜かした内の一人を刺した。喉が一番良さそうだったが、精神的な負担が大きそうだったので腹だ。男なら胸だったが女の場合は膨らんでいるので効果がイマイチかもしれないからね。血に濡れた私の手とカッターを見て弾かれたように一人が出口へと飛んでいくが、南京錠が掛かっているため開かない。狂ったようにドアノブを弄っても物言わぬ鷹野の死体から鍵を取り出さない限りは逃げられない。そして鷹野の傍には私が居る。残るは二人。

「何やってんだ」

 我に返った川瀬が私を止めに抱きついてきた。

「離して」

「嫌だ。自分が、何をやっているのか分かっているのか」

「分かってるよそんなこと。私はね、この世界で一番大切なものを守るためにやっているの。私は、正しい。それよりあんたも手伝えよ、私を守ってくれるんじゃなかったの、私の弟なんじゃないの、お父さんの子じゃないの。あんたの大切な物も、壊されてるんだよ? 見てよ、あの破かれた本を、お父さんの想いを、あいつらは全部全部ぶち壊したんだ」

「落ち着け、それで殺したらあいつらと同じだぞ」

「よだかはね、いじめだとか差別をしては駄目だとか、その悲惨さを書いた話じゃないの。そんな生きるものとして当たり前の道徳をわざわざ説いた話じゃないの。世界から見放されたよだかが、たった一つの、この世で一番大切なものを心に抱いて、不幸な世界から幸せな世界へと飛び立って、そこに辿り着いたお話なの」

「何、言ってるんだよお前……何言ってるんだよ姉さん」

 私は呆然として力が緩んだ川瀬を振り切り、もう一人を刺した。

 最後に残った男がどさりと崩れ落ち、「許してくれ」と壊れたラジオのように繰り返した。残念ながら私は仏ではないのでそんな念仏を聴いても何とも思わなかった。

「やめてくれよ姉さん」

 川瀬が再び止めに掛かった衝撃で赤く染まったカッターが落ちる。よく見るとそこら中に赤い花が咲いていて、鼻にこびりついてくるような生の臭い、手には固まり始めた血が付いている。

「今更やめても何も変わらないよ。それにこれは必要なことなの」

「そんな訳の分からない事で自分を正当化しても何も軽くはならないだろ。目を覚ませよ」

「じゃあどうすれば良かったの、あのまま大人しく嬲られていれば良かったの? あんたも見て、当事者になったのなら分かるだろ、誰も助けてなんてくれないってそれどころか周りの奴らは見世物として楽しんでるようなフシすらある。先生だって薄々気付いているはずなのに面倒事に巻き込まれたくない、私達が何も言わないからって黙殺してる。だったら自分で戦うしかないじゃないか、ねえ私は間違ってる? 間違ってなんかいないだろ、正しいだろ?」

 私は間違っていないんだ……ふと周りを見るとあれだけ泣きじゃくっていた一人が、目敏くも私が落としたカッターを拾っていた。殺しておかないからこうなる。彼はカッターを握り締めると私達に突っ込んできた。捨てればいいのに、これではお前も犯罪者の仲間入りだぞと思ったが人間何かが切れると今の私みたいに何でもやっちゃうからしょうがないか。

「姉さん」

 吹っ切れたと思ったのだが、危険が迫ると反射的に目を閉じてしまう。身体を滅茶苦茶な方向に動かす。すると次の瞬間には上から何かがぶつかったような衝撃と背中が叩きつけられた衝撃とに挟まれた。うっすらと開く目に映るのは私の身体に覆い被さった男。その後ろに落ちたカッターが見えた。血に滑って転んだのだろうか。だとしたら随分と間抜けだな、そんな考えが頭を掠めていると首に何かがまとわりついてきた。

 呻き声が漏れる。ぎりぎりと首を締め付けられているらしい。零れた涙と辺りの血と何かが混ざり鼻を擽る。苦しい。目の前にある恐怖と怒りで黒くなった顔はその全てを持って脅威である私を殺そうとしている。腕を掴んで解こうとするが、女と男の差は到底埋められない。ましてやこっちは力が入らないのだ。やっとの事で羽を広げたのに辿りつけないのだろうか。そんなのは嫌だ。嫌だ。薄れる意識の中、何かが見えた気がした。



 あれから二年が経った。あの事件の後、私は凶悪な殺人犯として報道され、お尋ね者とされた。報道を見るといじめについて触れられる物の普段から危険な思想を持っている気はあったとかなんとか言われている。部屋からバトルロワイアルだとか死のロングウォークとかその辺の小説が見つかったためのようだ。フィクションと現実を結びつけて的外れなバッシングを受けるのはいざやられると不愉快だった。まあ、この二年、お金を稼ぐために川瀬と一緒に後ろめたいことはしたし、事実追われる理由となったことについてはいかな理由があろうと言い逃れは出来ない。追われ、批難されるべきだ。何より母に合わせる顔がなかった。この一点だけはどうしようもない。これからも向き合って、苦しめられ、罪という水で満たされた海を泳ぐしかないのだろう。だけど、私は正しいことをやったのだという確信だけはあった。

「ね、この世界で一番大切なものって何だと思う?」

 窓を開けた狭いアパートの一室。外からは秋風と無機質な女性の声による廃品回収車の宣伝が流れている。

「愛じゃないの」

 横目で外を見ながら投げた私の質問を畳の臭いを満喫するようにうつ伏せで読書している川瀬が実に惚けた口調で答えを投げ返した。

「適当に言っただろそれ」

「いや、割りと真面目だよ。他人を理解することって絶対に出来ないから分かり合えたと誤解することが大事だと思うんだよね。あの人はこういう事情であんなことをした、自分のためを思ってこうしてくれた。そういう風に誤解して理解し合えたと思い込むことってきっと愛とかそういうものだと思うよ。みんなが優しく誤解すれば世界は愛と幸せでいっぱいでしょ」

「くっさ」

「訊いといてそりゃないよ。だったら姉さんにとってのそれは何さ」

 一蹴ならぬ一臭すると不満げに川瀬は鼻を鳴らして強めの直球を投げてくる。

「恋と革命」

「二つだし太宰嫌いだろ姉さん。自分の言葉で言ってよ」

「秘密」

「そういうの一番汚いし面白くないよ」

「女の子は人差し指を口に当てて、これを言っとけば全ての男の追求を退けられるってくさい女性誌に書いてあった」

「とんでもない本だ。そんなこと言う奴も書く奴も不当に落とされている現代男性の地位のために俺が引っ叩くよ」

 何でもない軽口。平穏そのもの。でも実際にはいつ自分たちの本当の姿が表に引きずり出されるかどうかという上でのものだ。砂の城のように崩れる時は一瞬でそうでない時は絶えず不安定。だからこそ、私はいつもこう言うのだ。

「必ず、必ず幸せになろうね」

「またそれ? 姉さんは何かに影響を受けると暫くはそればかりになる」

 誰かの言葉ではなく、私の言葉。そう言おうと思ったが呑み込んだ。

 二人で檻から飛び出しても青い鳥はきっと見つからないだろうし、弟を道連れにした自分勝手な私はロクな死に方をしないだろう。それでも、夏への扉を探し続ける猫のように幸せへの扉を見つけなければならない。それこそが愛溢れる世界へ投げつける針となるのだから。

エピローグのようなものを別枠の短編として書くかもしれません。気に入って頂けた方が居るのならば、その際はどうかお付き合いください。

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[一言] 銀行が融資を渋ったり断ったりするのは、あくまで企業としての銀行の判断であって、担当者にはほとんど権限がないだろうに、「人殺しの娘」とはこれ如何に(-公-;) ましてそれを理由に理不尽に罵倒し…
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