11-8
多忙なチャビレットは、なにも酒の席に水を差しに来たわけではなかった。白緋の女神に用事があり、酒場に顔を出したのだ。しかし夢を砕かれた男たちに捕まり、こんこんと説教を食らっていたチャビレットは、なかなか目的を果せずにいた。
そろそろ遅い時間なので、まだ飲むというガイツを残してソフィアとエルは席を立つ。それを見て、チャビレットが慌てて追いかけてきた。
「やや、待ってください2人とも。君たちにこれを差し上げようと思って、ここに来たのです」
エルは、大きな羊皮紙をチャビレットから受けとる。
「先生、これはなんでしょうか?」
「南の地図です。まあ地図といっても正確なものではありませんし、空白も多いんですがね。そろそろ君たちには、勉強してもらおうかと思いまして」
「うそ……私たちがもらっちゃっていいんですか!?」
「はい、大丈夫です。ただし、他の人には見せないようにしてくださいね。ああソフィアさん、こんな場所で広げるのもだめですよ。もちろんガイツ君には、見せてあげてください」
ソフィアは興奮して地図をこの場で広げようとする。それをチャビレットに、とがめられてしまった。
ハイウェスラル以南の土地は、基本的に立ち入りが禁止されている。勝手に入られ、勝手に食われ、想定外の人食い竜を生み出されては困るからだ。そのため地図も、一般には出回っていない。閲覧や所持ができるのは立場のある役人や学者、そして南方遠征団に選ばれる狩竜人だ。
ソフィアの祖父、リータフほどの立場であれば、手に入れられるものではある。ソフィアは幼い頃、南の地図をリータフにせがんだことがあった。しかし、いくら孫には甘めのリータフでも、立場を利用してまで甘やかしたりはしない。地図を見たいのならば勉強して学者になり、南方遠征団に入るようにと言われただけだった。
「でも、僕たちは希望しているだけで、まだなにも決まってないんですが……」
南方遠征団に参加する狩竜人は、基本的に希望した者の中から選ばれる。しかしまだ、次回遠征団の募集すら始まっていない時期だった。
「実はですね、私は遠征団の選抜にも関わっているのですよ。次の遠征団は、とても重要な意味を持ちます。少し早いですが、すでに水面下では希望しそうな狩竜人を下調べしているのです。それで現在のところ、白緋の女神を選ばない理由はありません。特にエル君とガイツ君は、確実に選ばれると断言できます」
1年前までは、遠い夢だと思っていた場所。そこに早くもたどり着けたことを、チャビレットは教えてくれた。結局勉強はしなかったが、狩竜人という道を通って地図を見られる場所まで来たことを、ソフィアは喜んだ。しかし、満面の笑顔になったソフィアと違い、エルはまったく喜んでいなかった。
「僕とガイツさんが確実で、ソフィアはそうじゃないんですか? 僕が選ばれるなら、ソフィアだって選ばれるはずです」
少し怒っているようなエルの口調。それをソフィアは、嬉しさと恥ずかしさを感じながら笑って聞いた。エルの袖を少し引っ張り、チャビレットに文句を言うところではないからと、ソフィアは横に首を振る。
「エル、私は女だもん。そこはしょうがないよ。あとは勝手なお願いだけど、イーラさんに頑張ってもらわないと。先生、そういうことですよね?」
「はい、そういうことです。やはり遠征団の候補は、狩竜人でも学者でも男性が多い。男性ばかりの中に、1人だけ女性を入れるわけにはいきません。どうしても、気を遣ってしまいますから。しかしイーラさんが遠征団に加わることになれば、ソフィアさんも自動的に選ばれることになります。女性で遠征団に入る実力者となると、それこそかぎられています。イーラさんさえ加われば、ソフィアさんが1番確実でしょうね」
ガイツは光球理力の使い手であり、治癒理力の使い手でもある。あらゆる場面で活躍できるので、遠征団にも選ばれやすいだろうとエルは思っていた。
そして、常に油断ができない南の大地では、ソフィアこそ最も選ばれるべき狩竜人だとエルは思っていた。長く緊張が続く中、長く戦えるソフィアは絶対に有利だ。
その2人に比べ、自分は不利ではないかと思っていた。単純に武器を振るだけなら、エルは自信がある。しかし、それだけだ。ボウガンの練習に励んでいるのも、それに気づいたからだった。ただ実際は、ソフィアだけが女という理由で不利だった。
エルは馬鹿ではない。女だから、ということも理解している。しかしわかっていても、もやもやした気持ちがエルに残った。身勝手な願いだとわかっていても、ソフィアと同じようにイーラに期待するしかなかった。
狩竜に関わる者の朝は早い。2人が酒場から孤児院に帰ってきたのは、いつもなら寝ている時間だった。しかし、もらった地図に興奮していた2人は、とても眠れそうになかった。2人はエルの部屋に入ると、もう節約の必要がなくなった竜油をたっぷりと使って明かりを灯す。
「せーのでいくわよ!」
「うん!」
まるで儀式のように、互いに両端を持ってゆっくりと羊皮紙を広げる。横並びに狭いベッドに寝転ぶと、2人は顔をくっつけた。互いの視線は、いつものように合わない。2人の視線は、目指す大地の地図に釘付けになっていた。
チャビレットの言うとおり、地図は正確なものではなかった。線で描かれた地形よりも、補足する文字の書き込みが目立っている。勉強が苦手なソフィアには、少し理解しづらいものだった。それでもソフィアは、食い入るように地図を眺める。興味があることならば、いくらでもそうしていられた。
「ここ、ラノヴィートの谷って書いてある」
「うん、ここが今のところ、人が進んだ南の最奥だ」
地図には便宜上、目印となりそうな場所に名前が付けられていた。その名称は、そこにたどり着いた遠征団の代表者の名前から取られている。その中で最も南に位置するのが、ラノヴィートの名を付けられた谷だった。
「ラノヴィートって、結局最後は南から帰ってこなかったのよね。どこまで行けたのかな?」
「どこだろうね。もしかしたら、この谷よりもずっと奥まで行って、それで帰ってこれなくなったのかもしれない」
ラノヴィートが南の探索に向かったのは、1回だけではない。3回も南の奥深くまで踏破し、無事に帰ってきたからこそ英雄と呼ばれていた。しかし4回目の挑戦から、英雄は帰ってこなかった。彼が命尽きるまでに、どこまで進んだのか。それは誰にもわからない。
「エルは、どこまで行きたい?」
「どこだろう……ラノヴィートの谷は、見てみたいかな。でも、どこまででも行ってみたい。全部、見てみたい」
「うん、私も。全部見てみたい。でも、実際行ってみないと、どうなのかはわからないわね。そういえばチャビレット先生、次の遠征団は大きな意味を持つとか言ってたわね。どういうことだろ?」
「ああ、それはなんとなくわかる。今話す?」
話す前にエルがそう訊いたのは、ソフィアが地図に夢中だったからだ。
「あ、待って。それは今度にする。今は地図が見たい」
予想通りの答えが、ソフィアから返ってくる。
「じゃあそれは、また今度ね」
線と文字だけで構成されたそれから、目一杯に想像を働かせて南の大地を思い浮かべる。2人は地図と、南の大地の冒険にある記述を頭の中で照らし合わせながら、目指す大地に思いを馳せた。
フェネラルの竜災孤児院は、やはり急な子どもの増加が問題になっていた。ヴィスタにかかる負担は大きく、彼女の顔色は日に日に悪くなっていく。
ガイツはもちろん、ソフィアやエルもなるべく手伝おうとはする。しかしヴィスタは、手伝いにあまりいい顔をしなかった。狩竜人は狩竜人の仕事をすべきだと、余計に頑張ってしまう。顔色が優れないまま、いつも以上に働くヴィスタを、3人とも心配した。
孤児院の責任者モンバルトは、子どもの面倒を直接見ることは少ない。孤児院の責任者は無償で引き受けている仕事であり、昼間は本来の医師の仕事が忙しいからだ。
近隣の主婦たちが手伝ってくれることもあるが、それも無償の善意なので手伝ってもらうにも限界がある。やはり倍以上になった子どもたちを、ヴィスタ1人で見るのは無理があった。
モンバルトはヴィスタの様子を見て、急いで人を雇うことに決める。
ただ、孤児院の仕事は誰にでも勤まるものではない。子ども好きであることはもちろん、大勢の食事を1度に作る必要もある。結構な体力を使う仕事だ。そして孤児院には、当然女の子もいる。男は駄目だという規則はないが、女性か夫婦で勤めてくれることが好ましい。
さらに女性でも、条件があった。自分で産んだ子を、育てていないことだ。どんなに子どもが好きでも、自分で産んだ子と他人の子では違う。自分の子がいるのなら、そちらに愛情を注ぐべきだと考えられていた。
今のフェネラルには、レズレンから避難してきて仕事を失った者が大勢いる。とはいえ、条件に合う者を見つけるのは難しいかと思われた。しかし意外に早く、その条件に合致した夫婦が見つかった。
「ネイファさん!」
「あら、エルにソフィアちゃん!? なんでここに」
モンバルトが連れてきた夫婦は、偶然にも白緋の女神の知り合いだった。レズレンで宿を営んでいた寡黙な元狩竜人の夫と、その妻であり元は娼婦だったネイファだ。
「なんだ、お前らの知り合いかね?」
大勢の食事を作ることに慣れている料理上手な夫と、狩竜人相手に宿を切り盛りしていたネイファなら、仕事を覚えてもらう手間も省ける。モンバルトはそう考え、何人かの候補から夫婦を雇うことにしたのだ。モンバルトはある理由で、ヴィスタの代わりになるくらい働ける者をなるべく早くと考えていた。
「はい、レズレンの宿でお世話になった人たちで、ネイファさんは僕が小さい頃に面倒を見てくれた、恩人でもあります」
「ほう、そうか。それなら安心そうだな。よし、早速ヴィスタに聞いて仕事を覚えてくれるか」
子どもたちを任せるのに、信用は大きいほど良い。普通の宿より高い孤児院に住みついた、物好きな若い狩竜人の知り合いだとわかり、モンバルトも安心できた。
「はい、わかりました。でも……本当に私でいいんでしょうか? その、前の仕事も仕事ですし……」
元娼婦という点で、ネイファ自身は孤児院の仕事を引き受けることをためらっていた。
「それは問題ない。むしろ、長く勤めてもらうのには都合が良いくらいだ。不躾な質問で悪いが、そういう仕事をしていたということは、子どもができない体なんだろう?」
モンバルトの問いに、ネイファはうなずく。イリシアで娼婦をやっている者は、その多くが子を成せない体だ。娼婦をやっていてそうなった者より、それが理由で娼婦になった者のほうが多い。
竜の侵攻によって減った人口を増やすため、国は子どもを多く産むことを推奨してきた。その政策が長く続いているせいで、子を産めない女性をひどく厭う家もある。イリシアでは夫婦が別れる理由として、妻が子を産めない体だったから、というものが1番多い。そういった女性は、もう1度夫を持つことが難しい。嫁いだ家から追いだされたあと、生活のために娼館に出向く女性は少なくなかった。
ネイファも娼婦になる前に、若くして1度目の結婚をしている。しかし子を成せないことに苦しみ、当時の夫とは別れて娼婦になった。娼婦たちがエルのような子どもに優しいのは、自分たちが望んでも子を産めない体であることを、知っているからだった。
「それですまんが、少し急いで仕事を覚えてほしい。ヴィスタは近々辞めさせる予定だ。なに、宿をやっていたなら、きっと大丈夫だろう」
そしてモンバルトが告げた言葉に、ソフィアもエルも、そして誰よりもガイツが驚いた。
「な、なんでですか先生! 辞めさせるって……ヴィスタがなにかしたんですか!?」
「ガイツ、お前やっぱり気づいてなかったのか。知識も治癒理力も1人前になったが、お前は医者に向いてないな」
「どういうことなんですか!? 話がさっぱりわかりません」
突然のことに驚いたガイツは、モンバルトに食ってかかろうとする。しかしそれを、ヴィスタが止めた。
「兄さん、やめて……先生、私から話します。兄さんと、2人にしてもらえますか?」
「ああ、そうしろ。まずは2人でゆっくり話せ。ソフィア、エル。この夫婦と知り合いなら話が早い。子どもたちに、これから世話をしてくれる人たちだって、紹介しておいてくれるか」
事態が飲み込めないまま、ソフィアとエルはモンバルトの言葉に従う。深刻そうなヴィスタの顔に、自分たちは口を出さないほうがいいと感じた。そしてヴィスタはガイツを引っ張り、自室へ連れていく。
ガイツの治癒理力は、モンバルトに教わったものだ。孤児院の責任者としても医師としても、ガイツは尊敬していた。しかし急なヴィスタの解雇宣告に、師と仰ぐモンバルトでも怒りを覚えていた。
「なんでお前は、辞めろなんて言われて驚かないんだ。ガキどもの世話をずっと頑張ってきたじゃないか。いくら自分が育った場所でも、嫌でやれる仕事じゃないだろ。最近だって、ちょっと頑張りすぎなくらい頑張ってただろ」
「うん、皆可愛いしね。ずっとここにいるつもりだったんだけど……でも、先生の言うとおり、私は孤児院を辞めなくちゃいけないの」
「だからなんでだ? 辞めたいんならまだしも、辞めなきゃならん理由なんて……」
ガイツの言葉に、ヴィスタは泣き笑いのような顔をする、そして自分の体の真ん中を、両手でそっと押さえた。ガイツはその仕草を見て、初めて理由に思いあたった。
体調が悪いのは、忙しくなったせいばかりではなかった。そして心配されるほど頑張っていたのは、子どもたちと過ごせる時間が残り少ないことを、ヴィスタ自身が知っていたからだった。
「まさか……もしかして」
「うん……赤ちゃん、できちゃったみたいなの。ごめんね兄さん。忙しかったし、なかなか言いだせなくて」
孤児院で働く条件は、女性なら自分の子どもを育てていないこと。もうすぐヴィスタは、その条件から外れてしまう。
「いつの……いや、待て……いや違う、待たなくていい。そう……だったのか」
「産んでも、いいよね?」
いつもの冷静な顔が崩れて慌てだすガイツに、ヴィスタはおそるおそる訊く。
「な、なに言ってんだ、当たり前だろ! いや……すまん、俺が悪かった。気づいてやれなくて、本当にすまん」
まだ動揺したままに、ガイツはヴィスタをそっと抱き寄せる。
「一緒に、ハイウェスラルに行こう。知らない土地で子どもを育てるのは大変かもしれんが、ついてきてくれ。こうなったら、もうお前と離れられん」
「私も、ハイウェスラルに?」
それを考えていなかったわけではない。しかし、1人で育てていくこともヴィスタは覚悟していた。
「そうだ。ハイウェスラルに着いたら、家は借りるんじゃなくて買ってしまおう。金はある……が、さすがにちょっと苦しいかもしれんな。仕方がない。不本意だが、あいつらに借りるか」
金を貸してくれそうなあいつらといえば、ソフィアとエルに決まっていた。
「ふふっ、あの2人ってお金に無頓着すぎだから、いくらでも平気で貸してくれそうだから怖いわね」
「ああ……自分がそれに甘えようとしといてなんだが、あの2人の金遣いは相変わらず恐ろしいな。ソフィアもそうだが、エルも大概おかしい。馬鹿だ馬鹿だと思ってたが、あいつら大物すぎるんじゃないかと思えてきた」
「そう、大物よね。普通の人じゃ考えられないことでも、平気な顔してやっちゃうんだから。でもおかげで、サピンも王都に行かせてあげられるわ」
子どもでありながら頼りになり、よくヴィスタを助けてくれた賢いサピンも、王都に発つ日が決まっていた。フェネラルから王都までは、大街道だけを通っていく比較的安全な道のりだ。しかしそれでも、子ども1人で旅をさせるわけにはいかない。今ならフェネラルに、多くの商団が来ている。そのうちに1つに、王都まで同行させてもらえることになったのだ。
「そうだな、感謝せんとな。それでサピンを見送ったら、次は俺たちが出ていく番だぞ。ちゃんと覚悟しとけよ」
孤児院の子どもたちと離れることに、ヴィスタは抵抗がある。ガイツについてきてほしいと言われても、簡単にはうなずけなかった。自分1人でフェネラルに残る選択肢を、捨てられていない。
「ところで兄さん……私をハイウェスラルに連れてってくれるのは、こうなったからなの? 赤ちゃんできてなかったら、考えてなかった?」
しかし、すでにヴィスタの顔には母親の色が濃く出ている。一緒に行きたいという気持ちにも、嘘はつけなかった。ヴィスタは覚悟を決めるため、そして今までの恨みも少し込め、意地悪をすることにした。
まだ20歳だった頃のガイツが、自分など振り返りもせずに夢を追ってハイウェスラルに向かったこと。そして帰ってきて落ち着いたかと思ったら、再びフェネラルを出ていってしまったこと。口には出さなかったが、ヴィスタはそれらをずっと我慢していた。
ガイツの夢を後押ししたのは、ヴィスタだ。かといって長く自分を放っておかれたことに、不満がなかったわけではない。
「い、いや、そうじゃない! いずれはと、ずっと考えてた。本当だぞ」
「でも、行かないでって私が泣きついても、5年前はあっさりハイウェスラルに行っちゃったじゃない」
「そ、それは昔のことで……いや、悪かった」
「兄さんが狩竜に出るたびに、どれだけ私が心配してるか知ってるの? 毎日なのよ、ずっとなのよ。それが離れてる場所なら、なおさらなのよ。それもハイウェスラルとかレズレンとか、危ないとこばっかり行っちゃって……」
「えっとな、ハイウェスラルって実は結構安全なんだぞ。なんせ強い狩竜人が大勢いるからな。普通の人は、危険を感じることも少ないはずだ」
的外れなガイツの言葉に、ヴィスタは大きくため息をついた。
「私が安全でも、兄さんは狩竜人なんだから危ないじゃない!」
「う、すまん」
「本当はね、狩竜人なんて辞めてほしい」
ガイツには絶対に言わないと決めていた言葉を、ヴィスタはつい口にしてしまった。そしてガイツの困った顔を見て、すぐに後悔した。
「それは……」
「あ、ごめん、これは嘘……嘘だから、大丈夫。狩竜人がどれくらい大事な仕事かって、私は兄さんを見てわかってる。それに兄さんの夢も知ってるから、そんなこと本当に思ってない」
嘘だと言っても、それが本音であることは充分ガイツに伝わってしまった。ガイツは少しお腹の子に気遣いながら、謝る代わりに強くヴィスタを抱きしめた。
「でも……絶対に死なないで。どこに行ってもいいけど、私と、この子のところに帰ってくるって約束して。お願い」
「ああ、約束する」
「絶対に、絶対だよ?」
「ああ、絶対だ。お前とお腹にいるその子を、絶対に悲しませたりはせん」
狩竜人の命に、絶対の保証などあるわけがない。しかしヴィスタは、その言葉に満足して涙をこぼした。それくらいの言葉がなければ、狩竜人など待っていられない。それがただの、口約束だとしてもだ。
「私も……ハイウェスラルに行く」
「ああ、一緒に行こう。これからは、ずっと一緒だ」
ヴィスタの妊娠が、ソフィアとエルに告げられた。そして一緒にハイウェスラルへ行くこと。向こうで家を買うつもりだから、金を借りるかもしれないことも、ガイツは同時に告げる。
「ガイツさん、おめでとうございます」
「おう、ありがとう」
エルは突然のことに戸惑いながらも、ガイツに祝いを述べる。ガイツは恥ずかしそうに、その言葉を受けとった。
そしてソフィアは、狂喜乱舞した。
「うっひょおお! おめでとう、おめでとうヴィスタ! 良かった……良かったねえ」
「う、うん……ありがとう。ごめんね、ハイウェスラルに行くのに、足手まといになっちゃうけど」
感極まって泣きながら喜ぶソフィアに、ヴィスタは笑うしかなかった。
「そんなの気にしちゃだめ。そうだガイツさん、車です! ヴィスタを乗せる車を、早く用意しないと!」
「お、そうだな……というか、ハイウェスラルまでどうやって行くかも、考えてなかった。王都まで行って、船のほうがいいのか?」
「だめですよ、ヴィスタは船なんて乗りなれてないでしょ。王都からハイウェスラルの船旅は、結構長いんです。体調が悪くなっても、逃げ場がないですから不安ですよ。それなら、私たちで車を引いたほうが絶対安心ですって!」
「な、なるほど。じゃあそうしようか」
ガイツはいつも通りの涼やかな顔に戻っていたが、内心はいろいろと焦っている。エルも祝福の言葉を述べたあとは、戸惑っているだけだった。男たちは妊娠と言われても、なにをしていいのかわからない。その点ソフィアは、やはり女だった。
「借りるってのは、もどかしいわね。ハイウェスラルに行っちゃったら、どうやって返していいのかわからないし……よし、買おう。エル、私たち2人で、お祝いにヴィスタを乗せる車を買うわよ!」
「わ、わかった」
「ヴィスタはネイファさんたちに、仕事を引き継ぐことだけ専念して。準備は私たちに任せてくれれば大丈夫!」
ソフィアは基本的に迷わない。戸惑っている男たちを差し置き、さっさと決めてすぐに行動した。早速車を買うために、持てるだけの金を持って孤児院を飛びだす。それに慌ててエルがついていった。
ヴィスタは自分が赤ん坊の頃から、孤児院で育ってきた。賃金をもらう仕事にする前から、子育ての経験は豊富だ。ただ、自分で産むのはもちろん初めてのこと。そして、ほとんど外に出たことのない生まれ育った街を離れることに、不安も抱えている。しかしその不安を、突き抜けて明るい友人があっさりと吹き飛ばしてくれた。
ヴィスタはソフィアに感謝して、フェネラルにいる残りの時間をすべてを、孤児院の子どもたちに使おうと決めた。
孤児院を飛びだしたはいいが、エルは疑問に思っていた。
「ソフィア、車なんて当てがあるの? それに人が乗るものなんて、どこで買えばいいのか……竜運車ならまだしも」
車といえば、エルはまず竜運車のことを思い浮かべる。次いで荷物を運ぶ普通の荷車だ。人用の車もあることは知っているが、エルはそんなものに乗ったことがなかった。馬車にしろ人力車にしろ、王都周辺で見たのが初めてだったほどだ。
「大丈夫! ここら辺じゃ見かけないけど、王都なら結構走ってるわよ」
まさか今から王都まで買いに行くつもりなのかとエルは思ったが、ソフィアもそこまで馬鹿ではない。
「でね、今ならフェネラルに、ワイス商団が来てるはずなの。お父さんとお母さんは来てないけど、私でも顔を知ってる商団の人がいるはずだから、頼めば車も買えるはずよ!」
「おお、それなら確かに買えそうだね」
意外にも、ソフィアはしっかりと考えて行動していた。
ソフィアの両親は商団を営んでいる。そのワイス商団は緊急事態に合わせ、フェネラルに来ていることはエルも知っていた。ただ、ソフィアは商売の邪魔になってはいけないと、無用に顔を出したりはしない。そういうところは、両親と祖父母からしっかり躾けられている。しかしそれも、唯一無二の女友達のためなら話は別だ。
ワイス商団の旗を探し、2人はフェネラルの街を駆けぬけた。街中を狩竜人が全力疾走してはいけない。そんな規則はないが、完全に迷惑行為だった。
「おや、ソフィアお嬢様ではないですか」
予想通り、ワイス商団にはソフィアの顔を知っている者もいた。ワイス商団が広げている大きな露店に近づくと、初老の番頭が雇い主の娘の顔に気づく。
「よかった! あの、急なお願いでごめんなさい。私、車が欲しいんです。人が乗るやつで、できるだけ良い車が。お金はいくらでも出しますから、用意してもらえませんか?」
「車ですか? そりゃあ用意できますが、お嬢様から金を受け取るわけには……」
商団はいろいろな大きさの荷車を引き、イリシア中で商売を行っている。車のことなら誰よりも詳しかった。
「あ、そういうのはだめです。うちの商団を見かけても絶対にわがまま言うなって、お母さんからきつく言われてますから。逆に多く払うくらいしないと、お母さんに怒られちゃいます」
ソフィアはそう言うと、エルに財布を見せるようにうながす。
「それに私たち、お金は持ってるんです。これ全部使っていいんで、とにかく良い車が欲しいんです」
「ちょ……ちょっと待ってください。こりゃ多すぎますって! あっしらが普段使ってる荷車なら、軽く10台以上買えちまいますよ」
2人が持ってきたエニィは、人前で気軽に広げていい金額ではなかった。最近の大狩竜で、白緋の女神は多額の報酬を受け取っている。2人の懐は、無駄に温かかった。
無駄と思えるほど大きな金額に、商売なら百選練磨の番頭も慌てた。値切られることには慣れている。しかし余分に払うと言われると、なにか裏があるのではと疑うのが商人だ。しかし相手は雇い主の娘。それも、裏がありそうな賢い顔ではない。疑いはすぐに晴れた。
そしてソフィアは、情熱を持って番頭を説得した。自分の大切な友人を乗せるための車であること、そしてその友人は妊婦であること、乗り心地が最高のものでなければ自分は納得しないこと。だからこそ信頼できる、実家の営む商団に頼みにきたこと。
ソフィアの情熱は、番頭に伝わった。金に糸目はつけずに必ず最高の車を用意すると、2人に約束してくれる。
ソフィアは、いつも優しい家族には感謝している。そしてこのときも、両親が商団を営んでいることを深く感謝した。
そしてガイツとヴィスタも、このときばかりは行動的で迷いのないソフィアに感謝した。ただ、車にかかった金額は、恐ろしくて聞けそうになかった。




