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ドラゴン・イェーガー ~狩竜人賛歌~  作者: 井藤 きく
11章 上に向かって
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11-5

 

 泣いているソフィアに気づき、エルが血相を変えて駆け寄った。


「ソフィア!?」


「だめっ、来ないでエル!」


 はっきりとした拒絶に、エルは驚いて止まってしまう。しかし、心配する気持ちが勝った。怪我をしている様子はないが、ソフィアが泣いていて放っておけるわけがない。


「ソフィア、いったいどうしたんだ。なんで泣いてるの?」


 ソフィアの手を、エルの大きな手が包む。


「来ないでって、言ったのに……だって私……臭いもん」


 その言葉に安堵して、エルは表情を崩す。


「なんだ、そんなの僕だって一緒だよ。大丈夫、ソフィアの匂いなら全部好きだよ」


 そういう問題ではない、とソフィアは思う。女としては、臭い自分など知られたくない。それが想い人なら、なおさらだ。しかしエルの優しい表情に、ソフィアは甘えたくなってしまう。


「臭くても……好き?」


「うん、好き」


 エルの胸に、ソフィアはそっと頭をあずける。直後、彼女を大きな後悔が襲った。確かに自分も臭いが、エルはそれ以上に臭い。甘えている場合などではなかった。ずっと我慢していたものが、とうとう抑えられなくなる。


「おふっ……おえええ」


 ソフィアの鋭い反射神経のおかげで、エルの体にぶちまけることは回避した。しかしやはり、そういう問題ではない。


「まだ吐くもの残ってたの? 吐いちゃったほうが楽だよ」


 よしよしと背中をさすられながら、ソフィアは吐いた。すっきりと、吐ききってしまった。絶対に見られたくない姿を、よりによって絶対に見てほしくない人の目の前で晒した。女として、なにかを失った瞬間だった。また、涙があふれてきてしまう。


「えぐっ、ひっく……こんな汚くても、好き?」


「なに言ってるの、好きに決まってるじゃない」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 ソフィアとエルのくだらない茶番に、冷ややかな視線が注がれていた。狩竜人たちの仕事は、まだ終わっていないのだ。


「ガイツ君、あの2人をなんとかしなさい。彼らにはもう少し、常識とか場の雰囲気を読む力を学ばせたほうがいい」


「はい、本当にすみません。あとできつく叱っておきますので、どうかご勘弁を」


 ウィクラスからありがたいお言葉をいただき、ガイツは恐縮しきりだった。


「お前ら、馬鹿やってんじゃねえ。まだ仕事は終わってねえぞ!」





「ウィクラス、犬笛頼むわ。フェネラルの運び屋連中にも、このくっせえ竜を拝んでもらおうぜ」


「そうだな、せっかくの機会だ。解体も手伝ってもらおうか」


 ディジャイールは、普段ハイウェスラル以南にしか現れない。フェネラルで仕事をしているかぎりは、出会えない竜だ。運び屋からすればありがた迷惑なダンビスの提案に、ウィクラスも同意して笛が吹かれた。合図の種類は、できるだけ多くの運び屋が集まってほしいという、滅多に吹かれることのないものだ。


 ディジャイールと遭遇した場所よりも少し東へ移動したとはいえ、街からはそんなに離れていない。すぐにガラガラと竜運車を引く音が聞こえ、運び屋たちがやってくる。臭いに顔をしかめながらも、笛の音には逆らえなかった。1番迷惑だったのは、人よりも鼻が利く運び屋の相棒だっただろう。


 そしてその先頭を来るのは運び屋ではなく、学者だった。


「ん、あれはチャビレット……先生?」


 見慣れているはずの顔なのに、一瞬誰なのかエルはわからなかった。それは距離が遠くて見えなかったわけでも、雨で視界が悪かったからでもない。チャビレットの顔が、短期間であまりにも変わっていたからだった。


「ど、どうしちゃったんですか、チャビレット先生! なんでそんなにやせてるんですか!?」


 いつも異常に血色の良かった肌つやが、日焼けとは違う不健康な黒ずんだ肌色になっていた。げっそりと頬がこけ、よく年齢不詳と言われるチャビレットが、今は不健康な老人に見えた。いつも精力に満ちあふれていた学者の姿は、そこにはない。


「やや、エル君ではないですか。いやあ、例の薬なんですが、副作用がありましてね……どうやら毎日使うのは、駄目みたいです。しかし私の話はあとです。フェネラルに着いたらちょうどディジャイールが来ていると聞いて、すっ飛んできましたよ」


 しかし声だけは、いつもどおりの甲高く大きなものだった。チャビレットは興奮した様子で、命尽きたディジャイールに近づいていく。


「完璧だ、素晴らしい臭いです! まさかこっちにディジャイールが来てくれるとは……なんたる幸運、なんたる好機!」


 ディジャイールの死体を見たチャビレットは叫んだ。


「チャビレット先生、この臭い大丈夫なんですか?」


「もちろん不快ですよ。ですが毒ではありませんからね。臭いが強く残っているディジャイールは、なかなかお目にかかる機会がないのでね、興奮してしまいました。この臭い、死んでから天日にさらされると、すぐに薄れてしまうのです。大変貴重なことですので、目一杯嗅いでおこうと思いまして」


 チャビレットはそう言うと、自分の指をのどに突っ込んだ。なんのためらいもなく、豪快に胃の中を空にする。


「これでもう安心です。吐くものがなければ、臭いなど恐れることはありません」


 チャビレットはそう言って、嬉しそうにディジャイールの死体に突進していく。そして臭いなどまるで意に介さず、巨体に埋もれるようにあちこちを調べてまわった。


「おい、エル。あの変なおっさんの知り合いか?」


 ダンビスはチャビレットの奇行に呆れ、エルに尋ねた。


「はい。王立研究所の竜学者の方で、チャビレット先生です」


「ああ、あれがそうなのか。有名な学者ってのは、やっぱりどっかぶっ飛んでんな」


 死んで多少弱まったとはいえ、まだ悪臭は漂っている。狩竜人たちはいい加減、嗅覚も疲れきって臭いにも慣れていたが、運び屋たちは吐き気に襲われて涙目だった。それに比べてチャビレットは、ふんふんと鼻を鳴らして臭いを真剣に嗅いでいる。エルも、変な、というところは否定できなかった。


「先生、すごいですね……さすがに僕は、この臭いを嗅いで幸運だとは思えないです」


 嬉しそうなチャビレットの姿に、さすがのエルも感心半分呆れ半分の表情だった。


「ああ、いや。確かに臭いの残ったディジャイールに出会えたのは、個人的に幸運なことですがね。それ以上にフェネラルにとっても、運の良いことなのです」


「フェネラルにとって、ですか?」


「はい。こいつを使えば、付近の竜を一掃できるかもしれません。以前から考えとしてはあったのですが、なかなか条件が揃わなくて実行できなかった狩竜のやり方です」


 チャビレットはそう言って、嬉しそうに笑みをこぼす。


 ディジャイールの臭いは、死後しばらく天日に晒されると消えてしまう。だから解体作業は、時間を置いてから行えば、臭いに悩まされることもない。しかし今は大雨で、陽の光はどこにもなかった。おかげで臭いも薄れていない。それが幸運だった。


「フェネラルを守る狩竜人の皆さん、私は王立研究所で竜の研究をしている、チャビレットと申します。このディジャイールを使えば、フェネラルの街は早く安全を取り戻せるはずなんです。少しだけ、私の話を聞いてください」


 チャビレットが狩竜人たちに呼びかける。狩竜人たちは怪訝な顔をしながらも、学者の言葉を聞いた。


「ディジャイールが空腹時に放つ臭いは、前肢の両脇にある器官が生みだしています。臭腺器官、と学者たちが呼んでいる箇所です。当然死後は、その器官も動きを止めてしまい、臭いが外に出なくなります。しかし体内には、充分に臭いが残ったままなのです。そしてその器官は水に浸けておくと、ある程度の時間なら臭いを維持することが可能なんです」


 チャビレットの言葉の意味を、ウィクラスが最初に気づいて問いかけた。


「それはもしかして、竜を酔わせることもできるんですか!?」


「はい、仰るとおりです。酔った竜なら、狩竜人の皆さんの敵ではないはずです。狩竜人が集まった場所に竜をおびき寄せ、一気に減らしてしまいましょう。大型竜が集まってしまうと危険ですが、幸いレイダークだけは臭いに寄ってきません。大変好都合です。小型と中型の竜が減れば、それだけ竜同士の縄張り争いも減ります。そうなれば、人里に近づく竜はぐっと減るはずです」


 竜は人よりも圧倒的に数が多い。そしてどこになんの種がいるのかわからない。だからいつも、人側が後手に回ってしまう。しかし集まってくる場所が事前にわかっていれば、準備もできる。竜の大群が自分たちに向かってこられるのはまずいが、向かう先が臭いの発生源ならば、やりようはいくらでもあった。確かに、幸運であり好機だった。


 狩竜人と運び屋たちは、学者の言葉に色めきだつ。忌み嫌われる竜の存在が、見方を変えれば役立つ存在だと理解した。


「そりゃいい! 誰かひとっ走り協会に行って、学者先生の言ってることを伝えてこい」


 フェネラルを愛する狩竜人たち。特に鋼の扉の団長と副団長は興奮していた。街の安全を守れるのなら、誰も労を惜しまなかった。熱の入った男たちが、チャビレットの指示に従って準備に取りかかった。


 大きな竜皮製の天幕を何重にも張り合わせ、水を溜めても破れないように補強した容れ物が作られる。そこにディジャイールから切りだされた、臭腺器官が放りこまれた。それは水に入る前に恐ろしい悪臭が漂わせ、まだ臭いに慣れていない運び屋たちが一斉に吐きだす。ただ1度吐いてしまえば、そのあとは楽だ。チャビレットのように自分で吐くほうが、確かに正しい。


「では明日、夜明けとともに作戦開始です。水から臭腺器官を取りだして、竜たちをおびき寄せます。臭いが持つのは、長くて丸一日程度。そのあいだに、できるだけ多くの竜を狩ってしまいましょう」


 取りだされた臭いの発生源は2つ。作戦は2方面に分かれて行われることになった。1つは、フェネラルの人々に臭いが届かないように大きく迂回し、街の西側に運ばれる。水に浸けたままでないと大事な臭いが薄れてしまうので、揺らさないよう慎重に運び屋が移動させる。


 もう1つは、そのまま街の東側で使われることになった。竜たちを一網打尽にできそうな、高い崖に囲まれて一方通行になる場所を選んで運ばれていく。


 協会職員も運び屋も、そして住民や避難民も、フェネラルにいる者すべてが夜明けの前にできるだけの準備を行った。狩竜人が野外でも休める場所を確保し、食糧や麻痺矢などを事前に運んでおく。そして狩竜人たちは翌日に備え、できるだけ体を休めることが仕事だった。




 翌早朝。まだ肌寒い夜明け前に、狩竜人たちが集まってくる。念のため、街にも何人か狩竜人を残しているが、現在フェネラルにいるほぼすべての戦力だった。


 水から出されたディジャイールの臓物が、とんでもない悪臭を放つ。その臭いが、作戦開始の合図だった。


 竜たちが臭いに酔い、ふらふらと無防備に集まってくる。リグトンにシュブイールにテリバトンにアングイール。普段なら、人を見つけたら襲ってくる竜たちが、人より臭いの元へ向かっていく。


 人がどんなに防具と理力で身を守っても、無防備ならばリグトン相手でもあっけなく殺される。だから狩竜はいつだって油断はできず、心を長く強く保つ必要がある。体力と理力に優れているだけでは、狩竜人は務まらない。


 そしてこの日、その逆もそうなのだと判明した。無防備な竜たちは、狩竜人の繰り出す刃にあっけなく殺されていく。一方的に攻撃を加えるだけ。段位も経験も関係なかった。時折、臭いに気づいて近づいてきても、酔いきらずに正気を保ったままの竜もいた。しかしそれは、高段位の狩竜人が対処していけばよかった。


 最も活躍したのはソフィアだった。雨で流れるよりも早く返り血を浴びつづけ、まだ早朝のうちから彼女は真っ赤に染まっていた。尽きない理力で、1人だけ1日中休むことなくハルバードを振る。


 いくら切れ味に優れた白緋鉱でも、血を拭う暇もなく切り続ければ、脂がこびりついて引っかかるようになってしまう。それでも雨が降り続いていたので、晴れよりは多少ましだったかもしれない。


 うずたかく、うずたかく、竜の屍が積み上げられていく。運び屋が総出でそれを片付けていくが、大きな竜運車で運ばれる竜よりも、殺されていく竜のほうが多い異様な光景だった。


 ただ武器を振るだけで緊張感がない狩竜に、油断する者も出てきてしまう。そのせいで未熟な何人かは、しなくていい怪我を負ってしまった。それでも疲れた者と交代で狩竜を行うようにし、なんとか死者を出さないまま陽が傾いていく。


 500年前に狩竜という仕事が生まれてから、後世名を残して英雄と呼ばれるようになった狩竜人が、幾人も存在する。その中には、たった1人の狩竜人が、1日で竜を100頭狩ったという言い伝えもある。そしてこの日、その昔話の価値が薄れてしまった。


 体力のあるダンビスやバズラック、エルなどの何人かは、100頭以上はゆうに狩っていた。ソフィアにいたっては、100の束を指折り数える必要があるほどだった。


 まだ臭いは残っている。しかし陽が完全に落ちると、寄ってくる竜はいなくなっていた。暗闇では活動しなくなる竜の性質のせいなのか、それとも、もう近辺の竜を狩り尽くしたのか。それはチャビレットでもわからなかった。しかし、いくら南から来る竜が増えたとはいえ、誰もが後者だと信じたかった。そして積みあがった竜の屍を見れば、そう信じることができた。 


 狩竜人も運び屋も、皆下を向いていた。まだ止みそうにない大粒の雨の中、それぞれが無言で帰路に着く。しかしそれは、上を向く体力も喋る気力も残ってないせいで、うつむいた顔にはやりきったという満足感が浮かんでいた。





 翌朝。丸2日近く降り続いた雨がようやく止み、東の方角には雲の切れ目も見えていた。


 ディジャイール狩竜に直接参加していた狩竜人と、解体に参加した運び屋は、1人1人が異臭騒ぎを起こしかねないほど臭い。そのため、前日の大狩竜で疲れきっていたのに、街中に帰ることは許されなかった。街の近くに張られた天幕の中、水気をたっぷり含んだ冷たい地面が寝床だった。街を守った功労者に対してひどい仕打ちだが、我慢できる臭いではないので仕方がない。


 天幕の数も足りず、1つの幕に何人も押しこめられた。その中はディジャイールと男たちの汗が混ざった、おぞましい臭いが充満していた。しかし、他人が嗅いだら意識が遠のくような悪臭だが、意外と本人たちは気にならないものだ。皆前日の大狩竜で、疲れきっている。普段は早起きの狩竜人たちも、いつもより遅くまですやすやと眠っていた。


 しかし雑に扱われる狩竜人と運び屋の中で1人、ソフィアだけは特別扱いだ。1人優雅に大きな天幕を使い、頼みこんで簡素なベッドまで作ってもらっている。久々に、お嬢様気質のわがままっぷりを発揮していた。


 ディジャイール狩竜でも次の日の大狩竜でも、ソフィアの活躍は1番目立っていたので、それでも文句は言われなかった。また、女として失ったものもある。いくら狩竜人は男女の別なく扱われるのが慣習とはいえ、多少は同情もされていた。


 その特別待遇でも、ソフィアの寝覚めは最悪だった。自分が臭いという事実が、彼女の心に重くのしかかる。エルに見張りに立ってもらい、前日のうちに震えながら雨水で体を洗ったが、それでも臭いは残っている。街に戻ったら、金にものを言わせて高価な香水と石けんを買い占めよう。彼女はそう、固く決意していた。


 ソフィアの心に深い傷を残したディジャイール狩竜だが、その恩恵はとてつもなく大きかった。


 協会職員と狩竜人が、早朝から街の周辺を見回っている。その結果、増えに増えていた竜の姿が、噴火の起こる以前と同じか、それ以上に少なくなっていることが確認された。大狩竜は、東から来た数以上に竜を減らしたのだ。


 いつかまた、東から竜がやってきて狩竜の必要が出てきてしまう。それを止める術はなく、どうしようもないことだ。しかし今だけは、心穏やかに暮らせる日々が来た。それだけでも充分だった。


「飯が届いたぞ、全員集まれ!」


 街から届けられた朝食が、遅くに起きてきた狩竜人たちに振る舞われる。特別に用意された食事は、まだ温かいままに運ばれてきて、美味そうな匂いが立ちこめているはずだった。しかし悲しいことに、その匂いがディジャイールの臭いに負けている。狩竜人の鼻には残念ながら届かなかった。そして恐ろしいことに味までも臭いに負けて、まるでディジャイールを食べているような感覚に襲われた。


「うわ……まじゅい、これ」


 ソフィアは育ちが良すぎるせいで、食事の味にはうるさい。しかし普段なら、出された食事にけちをつけるような真似はしない。そういう思いやりは行儀作法などは、祖母から厳しくしつけられて育ってきた。山育ちのエルには、よく食事中の行儀の悪さを注意しているほどだ。そのソフィアが、行儀悪く口に食べ物を入れたままにつぶやいた。それほどに、不味かった。


「なんてこと……なんてことなんだ。こんなに美味そうなのに、なんで味がわからないんだ」


 いつもなら食事の時間というだけで喜ぶエルが、心から悲しんでいた。しかし不味い食事でも、エルの食欲は止められない。エルは泣きそうになりながら口を動かした。ソフィアと違い、別にディジャイールに恨みはなかったエルだが、ここにきて初めて強い恨みを抱いた。


 誰もが不味い不味いと言いながらの食事。臭いが消えるまで、その文句が出るのは避けられなかった。それでも、皆の顔は明るかった。


 狩られた竜の数が尋常ではなく、街の周辺は解体前の竜が山となっている。普段なら解体は協会職員の仕事だが、それだけではとても手が足りない。そこで時間を持て余していた避難民や、街の外が危険なせいで仕事が強制的に休みになっていた者たちが集められ、竜の素材の確保に忙しく働いていた。


 まだ貧しい食事が改善されてから日が経っておらず、決して体力が万全の状態ではない。しかし、誰もが明るい顔で働いていた。忙しい忙しいと文句を言いながらも、安全が守られた場所で働ける喜びを、多くの人が噛み締めていた。


 重苦しかったフェネラルの街の空気が、ようやく変わりはじめていた。





 竜の屍を積みあがってから2日が経ち、臭かった者たちも街に入る許可を与えられた。まだ近くに寄ると嫌な顔をされる程度には臭いが、それでも異臭騒ぎを起こすほどでない。


「エル、買い物に行きましょ。香水と石けんを買い占めに行くのよ! あと服、服も。臭いがついた服なんて、2度と着ないんだから!」


 ソフィアの決意は揺らいでいなかった。


 露天が立ち並んでいた大通りは、以前よりも店が少ない。しかし買い物客は多かった。竜が一気に減ったことを受け、食料の売買が解禁されたのだ。街周辺の竜が減れば、物資の運搬も安全になる。そうなれば、もう我慢する必要はなかった。もっと長く我慢を強いられると覚悟していた人々は、少ないながらも並べられた品々に殺到していた。


 買い占める、というほど品物はたくさん売っていない。ソフィアの買い物欲は満たされなかったが、1人で使うには充分な香水と石けんが買えたので、とりあえず我慢することにした。それに明るい街の中を、久々にエルと歩けただけでも満足だった。


 そしてなにより、多くの子どもが外で遊んでいる姿がある。人があふれていたのに静かだったフェネラルは、どこか不気味だった。しかし少しずつでも日常を取り戻している街の姿に、ソフィアもエルも心が軽くなった。


 しかし、明るい気分を吹き飛ばすような大声が、2人の耳に入ってくる。最近フェネラルで活発に活動している、人竜会の演説だった。


「皆さん、知っていますか? ディジャイールという竜は、別に人を襲ったりはしないのです。それを協会は、わざわざ殺すようにって指示を出した。ディジャイールは肉食竜を食べる竜です。それを殺したということが、協会は私たちを守る気などなかったという、なによりの証明なんです!」


 以前ジッカートに追い払われた青年ではなく、今回は中年の男が買い物客で賑わう通りに向かって叫んでいた。


「エル、大丈夫?」


 ソフィアがエルの顔を、心配そうにのぞきこむ。


 人竜会という存在を、ソフィアも心の底から嫌っていた。主義や主張などはどうでもいい。なにが正しいとか間違っているとか、そんなこともソフィアにとってはどうでもよかった。ただ、いつも優しいエルの顔を、人竜会という存在は憎しみに満ちた表情に変えてしまう。彼女が嫌悪する理由は、それだけで充分だった。


 以前のエルなら、人竜会という言葉を聞いただけでも険しい顔になっていた。それは自分が手をかけた、血の繋がらない父親のことを思いだすせいだった。しかしもう、そんな顔はしなくてよかった。多少怒りは浮かんでいても、暗い憎しみに染まるようなことはない。


「うん、大丈夫。ちょっと注意してくるよ」


「え、注意って……」


「止めるように言ってくる。あんなの、迷惑でしかないから」


 ソフィアは少し心配だった。しかし、以前とは違って人竜会の演説を見ても、穏やかな顔のエルを信じることにする。出会った頃のエルは心配になるほど大人しかったのに、今はいろんなことに積極的になっている。大人しすぎるエルも悪くはなかったが、自信を持って堂々としているほうが、やはり格好良い。そんなことを思って、ソフィアは嬉しくなる。


 今度こそ迷わないと、エルは意気込んで中年男のほうへ向かう。やり方は、ジッカートが教えてくれた。


 ところが、エルはまたもや他の者に先を越されてしまった。やせこけて様変わりしてしまった学者が、エルより先に男に話しかけたのだ。


「はいはい、そこの怪しいあなた。あんまり変なことを吹聴するのは、止めてくださいね。大きな声でうるさいですよ」


 演説者は身なりも恰幅も良く、見た目には間違いなくチャビレットのほうが怪しい。しかも臭い。買い物客もどちらかというと、やせた男のほうに怪訝な目を向けてしまう。


「変なこととは失礼だな。私は別に、嘘は言ってない」


 人竜会が避けるのは狩竜人だけだ。風貌から明らかにそうではないとわかる者に、遠慮はしない。


「まあ確かに、嘘は言ってませんね。ディジャイールは直接人を襲いませんし、肉食竜を食べるのも本当です」


「そうだ、わかってるじゃないか。それを協会は殺すように命じたんだ。何百年経っても変わらない、野蛮な組織だよ。もっと他にやり方があるはずなのに」


「そうですかね? 別のやり方があるなら、ぜひ教えてほしいものです。あれだけ大きな竜だと誘導することもできませんし、臭いだけでも充分に人を苦しめます。なにより寄ってきた竜を全部食べるわけではないので、人が住んでいる場所に近寄られると危険なのですよ」


「それは違う。皆そうやって、協会に思いこまされているだけなんだ。竜はただ、餌を求めているにすぎない。たとえば人が餌を用意してやれば、なにも殺す必要はないだろう」


 その言葉に、学者は思わず笑ってしまった。


「はっはっは。餌付けに、捕獲に、飼いならす努力。そんなものはこの何百年のあいだに、幾度となく試されてきました。そしてどれも不可能だという結論が、とうの昔に出ています」


 演説者は臆さずに、平気な顔で反論する。


「それも真実なのか疑うべきだ。国と協会は、竜を西に売って利益を出すことしか考えていない。本当は狩らなくてもいい竜を、殺しているんだ」


「詭弁すぎて笑ってしまいますねえ。竜を西に売って利益を出すことに、全力を尽くすのは当然です。そうしなければ穀物の輸入がなくなって、イリシア中が飢えてしまう。まあそんな当たり前のことはいいのです。あなたと議論する気はありません。ちょっと大人しく、牢にでも入っていただきましょうか」


 チャビレットの言葉に、中年男は初めて表情を変えた。人竜会の演説が迷惑だったとしても、特にそれを罰する法はない。また人竜会は、法だけは犯さないように徹底していた。そのため演説者を見つけても、役人は注意するくらいしかできなくて厄介なのだ。


「なにを言っておる! 私はただ、大勢の人に真実を知ってもらいたいだけだ。国と協会がどれだけ身勝手な行いをしているのか、それを知ってもらうことのなにが悪い。無実の者を捕まえるなどと、ふざけたことは言わないほうがいいぞ、役人でもあるまいに。というか、君は誰なんだね?」


「ちょっとした権力者です、名乗るほどの者ではありません」


 冗談めかしたチャビレットの言葉に、中年男は顔を赤くして怒りだす。しかし赤くなった顔が、次の瞬間には青ざめていた。本当に役人がやってきて、男をひっとらえたのだ。


「ば、馬鹿な……横暴だぞ! 私がなにをしたというのだ。都合の悪いことを言われたら、暴力で口を塞ぐ。そんなことをする国が、正しいわけがない!」


「そうですねえ。罪状など、いくらでも出てくると思います。あなたのお名前と出身を聞いてもいいですか?」


「私はヨックラル出身のニックナムだ、それがどうした! くそ、放せっ、放さないか!」


 その言葉を待ってましたという顔で、チャビレットは紙の束を懐から取りだした。


「それ、偽名ですよね。実はですね、演説者の名前って、国は事前に把握してるんですよ。ほら、これが名簿です。ヨックラル生まれのニックナムさん。確かにそのお名前の方は人別帳に乗ってるんですがね、その方、生きていたら今年で105歳なんです。あなたが105歳とは……ちょっと見えませんねえ。慎重さだけはあった組織なのに、少しずさんでしたね。役人の前で嘘の名前と出身を答えることは、立派な罪です。まあ軽いものですがね」


「同じ名前の人違いだ。なにを根拠にそんなことを言うんだ!」


「あとはそうですね、密入国は間違いないでしょう。こっちはそんなに軽い罪ではありません。まあ安心してください。あなたの国に比べれば、イリシアの罰なんて優しいものです」


 密入国という言葉と、あなたの国という言葉に、男は黙りこむ。


「それじゃあ、お願いしますね。おそらく身なりからして幹部の者でしょうから、逃がさないようにしっかり牢に入れておいてください」


 役人たちはチャビレットの指示に従い、男を連れていく。エルはその光景を、呆然と見ているだけだった。


「おや、エル君にソフィアさん。買い物ですか?」


 役人が去って2人に気づいたチャビレットが、笑顔で声をかけてくる。


「はい、今日はお休みなんです。先生、なんかかっこよかったですねえ。ちょっと偉い人って、感じでした」


 まったく偉い人とは思っていない口調で、ソフィアは話しかける。


「はっはっは、そうなんです。私こう見えて、実はちょっと偉い人なのですよ。若い頃は権力を得るために、頑張ったものです」


「へえ、意外。全然そんな感じじゃないのに」


「研究を好き放題するのに、権力があると都合が良かったりするのですよ。持ってたら持ってたで、さっきみたいに少し面倒臭い仕事もありますがね」


 ソフィアとチャビレットが呑気な会話をしているあいだ、エルは頭が混乱していた。


「チャビレット先生! さっきの……えっと、あれはなんですか!? 密入国ってなんですか!? あの男、人竜会じゃないんですか!?」


 そして我に返ると、今度は興奮して矢継ぎ早に質問を浴びせる。


「おや、エル君は人竜会に興味がありますか? まあ狩竜人にとっては目障りな存在かと思いますが、あんな組織、気にする必要はありませんよ。それらしい言葉を並べたてるだけで、内容はひどいものですから」


 自分の父親が人竜会に入っていたというのは、ソフィアにしか話していない。チャビレットのことは信頼していたが、しかしレズレン大竜災の話や、自分が父親を殺したことまで話が及ぶのは、さすがに誰が相手でもためらわれた。


「あの……死んだ父親が、人竜会の者だったので、えっと、できれば詳しく知りたくて」


 言いよどむエルを見て、チャビレットはなにかあるのだろうと察した。


「ほう、お父さんが……それは意外です。そうですね、ちょっと私は仕事が残っていますので、夕食でもご一緒しましょうか。そのときでよければ、詳しくお教えいたしますよ」


「じゃあ先生、孤児院に来てごはん食べませんか? 孤児院のごはんも、結構美味しいんですよ。ヴィスタっていう、私の友達が作ってるんです」


「ほお、孤児院ですか。寄付だけはしていますが、実際に訪ねる機会はなかったので少し興味はありますね。では遠慮なく、お招きにあずかりましょうか」


 相手が偉い人だとわかっていても、ソフィアは平気で呼びつける。多分ソフィアは誰よりも大物だとエルは思った。


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