11-2
避難民受け入れから7日。協会職員と役人は、事態の対応に追われていた。
状況は良くも悪くも停滞している。街に近づく竜の数は例年に比べて尋常ではないが、それに関してはハイウェスラルから来た狩竜人の活躍もあって対応できていた。ただ予想外に物資の運搬が滞り、貧しい食事が続いている。
夕方。協会の会議室では、多くの職員と役人が集まって話し合いの場が設けられた。会議には主要な狩竜人も参加している。ダンビスやウィクラス、ハイウェスラルから駆けつけた銀の鍵団長バズラックなど。そしてそこには、エルとガイツの顔もある。いまや白緋の女神は、間違いなくこの街における主要な戦団となっていた。
「食糧の消費については予定通りです。街にある備蓄だけで、まだ1ヶ月は持つ計算です。まあかなり我慢してもらってますからね。今の量で1ヶ月も耐えられるかは分かりませんが」
穀物を西の大陸からの輸入に頼っているイリシアで、運搬が滞るのは致命的だ。加えて時期も悪い。冬が終わったばかりで、収穫できる物も少なかった。
「今のところ、食糧より薪と竜油が問題ですね。食事を作る場所を限定して節約していますが、まだ夜になると火が欲しい時期です。衣類も毛布も足りないので、どうしても暖を取るために薪を使ってしまいます。病人も出はじめていますので、これを止めろとは言えません。大雨にでも降られたら……正直お手上げです。屋根のある場所を全員に用意するまで、もう少し時間がかかります」
普段なら雨は降ってもらわないと困る。しかし今雨に降られてしまうと、ただでさえ貧しい食事と窮屈な生活で弱っている避難民たちが、病に倒れることが容易に想像できた。今だけは晴れが続いてくれと、誰もが願っていた。
「仮住まいの建築は進んでないのか? 街を南側に広げて、急場しのぎでもいいから屋根の下で過ごしてもらえるように準備を進めてただろう」
「はい、避難民の大半は今そっちで仕事をしてます。腹が減ってるはずなのに、皆しっかりと働いてくれています。仕事をしていたほうが気が楽なんでしょうね。ただやはり、築材が足りません。竜骨組みを基本にして作っていますが、木材もある程度必要なんです。人手があっても、中々思うようには進んでいません」
「なるほど……とにかく木だな。しかし分かっていてもこの状況じゃ難しい」
フェネラルの街から東に行けば、木などいくらでも生えている。以前なら低段位の狩竜人が護衛について人手をかければ、木材調達は問題なく行えていた。しかし今はレズレンの村がない。これまでなら炎竜の村で仕留められていたレイダークが、今はフェネラルの東まで来てしまう。おかげで木を1本切ってくるだけでも命がけとなり、とても供給が間に合わなかった。
「ただ良い知らせもあります。ワイス商団をはじめ4つの大きな商団が、北からヨックラル経由で物資の運搬を開始したと先ほど連絡が届きました。順調ならあと5日ほどでこちらに着くそうです」
「本当か! しかし5日とは随分と早いな」
「商団が自腹で、狩竜人や元運び屋などを雇ってくれたそうです。速さと安全は間違いないかと」
「そうか、助かるな。さすがにでかい商団は頼りになる」
南の異変に起因する、東からの危機。それは予想できなかったことだが、かといって竜の危険に常に脅かされている人々が、なんの備えもしていなかったわけではない。こういった緊急事態が起きたとき、物資が滞りなく届けられる仕組みは作ってあった。大きな商団が国の指示ですぐに動いてくれるのも、事前にそういう取り決めがなされていたからだ。
「明日から食糧の備蓄を使いはじめませんか? 食事にはかなり不満も出てます。元々2ヶ月もたせるために節約していましたが、物資が届くなら我慢しすぎるのも問題かと」
この職員の意見には、賛成の声とまだ慎重にという声の両方が上がる。どちらが正しいとは誰も断言できない状況だ。会議室の意見は半々に分かれ、収集がつかなくなった。
「賛成だ、街中がどうにも殺伐としてやがる。腹が減ってちゃ機嫌も悪くなるってもんだ」
「しかし足りなくなったら、それこそ取り返しがつかない。もう少し落ち着くまで我慢すべきだと思う」
「まずその2ヶ月という数字は、本当に信用できるのかね。どうにも楽観した数字としか思えん。物資の運搬に目処がついたとしても、2ヶ月以上長引くことを想定しておくべきではないだろうか」
まだ届いていない物資をあてにした食糧配給を、不安視する声も大きい。それも当然だった。北回りならまだ竜が少ないとはいえ、確実に安全とは言えない状況だ。万が一物資が届かなかった場合も考えなければならない。そんな中、いつもは大人しいエルが口を開いた。
「2ヶ月という数字は、竜学者のチャビレット先生が言っていたものです。200年前にも同じような事態が起こって、その結果から推測できる数字だそうです。2ヶ月経ったら竜の数はぐっと減るそうなので、物資もそこに合わせて使いきってしまえばいいと」
先が見えない戦いが続くとなれば、まず心が折れてしまう。しかし2ヶ月と期間を限定し、それを耐え抜けばいいと思えれば、緊張の連続でも下を向かずに戦える。エルはフェネラルに向かう前、様々な状況を想定した対処法をチャビレットに教わってきていた。それは竜に対してものもだけではなく、困難に直面した人々がどう動くかまで予想したものだった。
「しかし確実とは言えないのだろ? 予想が外れたら大問題じゃないか。少し慎重になってもいいと思うがな」
「この状況が続けば、どちらにしても長くは持ちません。食べるものを我慢しすぎて病人が多くなれば、それだけ余分に人手も物も必要になってしまいます。それに期間を決めて、そこまで耐えてくれと住民にも伝えたほうが、我慢もしやすいはずです。今のところは皆が助けあってくれていますが、飢えが続けば人の心にも余裕がなくなります。フェネラルの住民と避難民のあいだに、いさかいが生まれないともかぎりません。飢えは人心を容易に狂わせます。それを考えたら、僕は早めに食事だけでも改善すべきだと思います」
竜は確かに人を食らう恐ろしい生物だが、それより恐怖に心が屈してしまうことのほうが恐ろしかった。街に漂う重い空気も、それが続かないと分かっていれば耐えられる。
「ふむ、まあ最もな意見だな。しかし当のチャビレット氏は、ここに来てないじゃないか。実際なにが起きているのか見もせずに、憶測だけで物を言われても困る。普段の何倍も竜がいるというのに、たかが2ヶ月で減るのかね」
「信頼の置ける学者だと思っています。それにチャビレット先生も今、こっちに向かっているはずです。1度王都に寄ってから来るので少し時間がかかっていますが、そろそろこっちに着く頃だとは思います」
「待て待て、元々ハイウェスラルにいたんだろ? そこから王都に寄ってフェネラルまでって……そんな道のり、一流の狩竜人でも20日以上かかるはずだ。学者の足でどうやってそんな短期間で来れるというんだ」
「ちょっと説明しづらいんですが、狩竜人に負けないどころかそれ以上の脚力を得られる薬があるんです。間違いなく、もうすぐ来てくれるはずです」
いつもは大人しく口数も少ないエルが、この場では堂々と自分の意見を述べていた。チャビレットの知識と考えを皆に伝える役目もあったが、それ以上にエル自身が変わった証拠でもあった。
結局エルの強い賛成もあり、食事は多少改善されることになった。確かに配られる食事はあまりに量が少なく、狩竜人以外は体力が落ちてしまっている。会議に出ている職員も役人も、揃ってやつれた顔をしていた。このままではエルの言うとおり不満が抑えきれなくなるか、もしくは倒れてしまうかのどちらかになりそうだった。
「チャビレット先生の予想だと、竜の大群が東からもう1度か2度は来る可能性があるそうです。今度は避難途中で襲ってきたものより、強い個体であることが考えられます」
「それは根拠があっての話なのかね?」
「はい、あります。以前の大群は、元々レズレン山脈の東に棲息していた竜たちなんです。それが南から来た竜に押し出されるかたちで、群れを成したと推測できます。つまり縄張り争いに負けた竜たちです。ただしばらくは、東回りで北上してくる竜の数は減りません。今度は元々南に棲息していた竜たちが山を越えて、こっちまで範囲を広げて餌を求めてくることが考えられます。南にいた竜は、北イリシアにいる同じ竜種より強い個体が多いんです」
「なるほどね……厄介な話だ。備えるといっても、いつ来るのかは分からないんだろ? どうしたものか」
「召集合図をいつもより細かく決めておきましょう。大きな群れが見つかり次第、狩竜人が迅速に行動できるように、専用の鐘の合図を決めておくべきです。今は僕を含めて、20段以上の狩竜人が大勢この街にいます。レズレンから生き残ってくれた狩竜人たちもいます。群れを全滅させるのではなく、街に近づく竜だけを倒すと考えれば、これまで通り対処できるはずです」
常に行動をともにしてきたガイツは、エルの成長を知っていた。堂々とした態度にも驚きはしない。
ただ以前のエルしか知らないシロノは、目を見開いて驚いていた。成長した姿を見られたことが、もちろん嬉しくもある。しかし手のかかる子どものような姿はもう見られないのだと知り、それが少し寂しくもあった。
内向的で人付き合いが苦手だった少年の姿は、もうそこにはない。強者としての自信と責任を持った、狩竜人らしい姿だった。
会議が終わると、エルは協会内に確保している自分の寝床に向かう。大勢の前で話すなどという慣れないことをしたせいで、いつもより大きな疲労感を覚えていた。連日、狩竜に出ている疲れも当然ある。倒れこむように横になると、あっという間に睡魔に負けてまぶたを閉じた。
「ヴィスタ姉さん、薪割り終わったよ。けど多分あれだけじゃ何日も持たない。倉庫に古いベッドが3つあるからさ、あれ壊して薪にしちゃわない? あれなら充分に乾いてるし」
「やっぱり足りないよね……うん、そうしてサピン。壊すの大変だったら、ソフィアが帰ってから頼んでみて」
サピン呼ばれたのは、孤児院で暮らす12歳の少年だ。その瞳には聡明な光を宿している。サピンは孤児院の中で、特別に賢い少年でもあった。
「分かった、でも大丈夫。あれくらいソフィアさんの手を借りるまでもないよ」
サピンは早速倉庫からベッドを引っ張りだす。硬い木でできたベッドは小柄な少年にとっては頑丈で、簡単に壊れるものではない。ただ賢い少年は無理に腕力だけで壊そうとはせず、木目にそって切り込みを入れながら、要領よく薪に使える大きさにしていく。サピンより小さな子どもたちは、賢い兄の姿に尊敬の眼差しを向けた。
そこに狩竜から帰ってきたソフィアが通りかかった。
「なになにサピン、楽しそうなことやってるわね。そのベッド、ばらばらにするの?」
子どもたちがやっていたことは立派な仕事だが、大きな物を壊すことは楽しそうだとソフィアには映ったらしい。
「お帰りソフィアさん。うん、薪が足りないからね。まだ使えるベッドだしもったいないけど」
「ようし、じゃあお姉さんに任せなさい! 皆、ちょっと離れてて」
ソフィアは背中のハルバードを手にすると、ベッドを瞬く間に細切れにしていく。狩竜人が豪快に武器を振る姿を見て、子どもたちは歓声を上げた。調子に乗ったソフィアは必要以上に力を込めてハルバードを振り、さらに子どもたちは盛り上がる。どんなに頭を使っても、頭を使わない腕力に負けてしまう。サピンは若干の理不尽さを覚えた。
白緋の女神でただ1人会議に参加していなかったソフィアは、狩竜から帰ると休むこともせず孤児院で元気に働いていた。会議に呼ばれなかったのは、頭が悪そうとか役に立ちそうにないとか、そんな理由ではない。主に子どもや女性の怪我人、妊婦などを受け入れている孤児院では男手が足りず、力仕事なら活躍できるソフィアが役に立つからだ。会議中に寝そうだとか参加する意味がなさそうだとか、決してそんなことを思われたわけではない。
「ソフィア、毎日あんなに手伝ってくれて大丈夫? すごい助かるけど、狩竜人の仕事だって大変なのに」
ソフィアとヴィスタが仕事を終えて部屋に戻るのは、ここのところは陽も落ちて暗くなってからだった。空き部屋だらけだった孤児院も今はぎゅうぎゅう詰めの満室で、仕事も多くなっている。
「大丈夫、私は皆と違って食べてるもん。ごめんね、1人だけ」
いくら理力が外に出ない特異体質でも、食事を取らなければ理力は減っていき体力も落ちていく。子どもたちが腹を空かせている中、ソフィアは狩竜人ということで量のある食事を取っていた。それが必要なことだと分かっていても、やはり気を遣ってしまう。
「そこは気にしちゃ駄目よ。だって狩竜人が倒れちゃったら、街自体が危ないんですもの」
そう言われてもソフィアの顔は晴れなかった。心配しているヴィスタのほうこそ、少し痩せてきている。ヴィスタは小柄で、理力も体力も人並み以下でしかない。それでも毎日懸命に働く友人の姿に、ソフィアは感心していた。
「お金ならたくさん持ってるのに、なんにも買えないってのがつらいわね。本当なら皆がお腹いっぱいになるくらい、食べ物だって買えるのに」
白緋の女神がハイウェスラルで稼いだ金額は、すでにかなりのものだ。戦団の財布も1人1人の財布も、充分に重たくなっている。金なんて使ってこそだと思っているソフィアは、子どもたちが腹を空かせている姿を見て、金で解決できないことが悔しかった。
「気持ちはありがたいけど……もし食べ物の売り買いができるようになっても、それは駄目だからね。ちゃんと規則は守らないと」
「うん、わかってる。わかってるけど、それも納得いかないのよね。理屈は知ってるけど、もうちょっと自由でいいんじゃんと思っちゃう」
竜災孤児院は宿屋の真似事をしたり、子どもたちが簡単な仕事を手伝ったりして多少の収入も得ることもある。ただ資金のほとんどは国の税と、そして寄付金で成り立っていた。
その寄付には規則がある。寄付金は1度必ず、国の役人を通さなければならない。集まった金は子どもの数に合わせ、平等に各孤児院に振り分けられる仕組みだ。個人であれ団体であれ、1つの孤児院に寄付することは法で禁じられている。近くに孤児院があり、そこの子どもたちに情が移ったからといって、特定の孤児院にだけ寄付することはできない。
ただ役人も、人の子であり親でもある。孤児院近隣の優しい人々が多少の寄付するくらいなら、見て見ぬふりをしているのが実状だ。物を差し入れることも禁止されていたが、それはもう完全に有名無実の法となってしまっている。
しかし狩竜人は別だった。役人も狩竜人の寄付金だけは、見過ごさないように気をつけている。狩竜人が特定の孤児院への寄付をすることは、法だけではなく協会規則にも反する。破った場合は協会認可取り消しまである、軽くない罪だ。
狩竜人だけに厳しいのは理由がある。寄付のほとんどが、狩竜人から集まるからだ。もし各孤児院ごとの寄付を許してしまうと、稼ぎの良い狩竜人が多い街とそうでない街とで、集まる額にとてつもなく大きな差が出てしまう。実際にそういう時代もあり、資金が集まらず孤児たちが飢えることもあった。竜の少ない地域でも、竜災孤児は出る。イリシア中の孤児たちを無事に育てるために、この法は必要だった。
「そうだヴィスタ。はいこれ、ハイウェスラルのお土産。これは友達としての贈り物で、寄付じゃないからね」
ソフィアは急に鞄から取り出したものを、ヴィスタに手渡そうとする。竜油を節約せねばならず、陽が落ちてから部屋は暗いままだ。ソフィアが手にしたものは見えないが、ただヴィスタはそれがどういったものか知っていた。ヴィスタの稼ぎではとても手が出ない、高価な女性物の飾りだ。
「あのねソフィア、もう大丈夫。充分とは言えないけど、生活費と塾に通うお金はなんとか目処が立ったから。サピンね、王都に行かせてあげられそうなの」
「ほんとに!」
「今はこんなだから、落ち着いてからだけどね。それに受かるとも決まってないから。いくらサピンが頭良くても、王立学院に集まる子なんて皆同じようなものなんでしょ?」
「大丈夫よサピンなら。うちの弟でも受かったんだし、絶対大丈夫。そっかあ、良かった」
「だからもう、こういうのは大丈夫。本当にありがとね」
孤児院の子どもたちは食べるのに困ることはない。それくらいの寄付は毎年必ず集まる。しかし食べる以上のこと、例えば金をかけて勉強したいとなると難しかった。勉強するには時間がいる。時間があるのは金がある者だけだ。王立学院自体は学費も安く、入ってしまえば支援も受けられる。ただしそこに入るためには、勉強するための時間と金が必要だった。それは孤児院の子どもたちに与えられていない。
他の子どもの手前、賢いからといって1人だけに金をつぎこむことはできなかった。それでもヴィスタは、皆が賢いと褒めてくれる血の繋がらない弟のために、なんとかしてやりたいと考えていた。サピン本人は物分りの良すぎる子で、勉強したいと口にはしない。しかしヴィスタには、サピンが時折王都のことや王立学院のことを調べているのを知っていた。
孤児院の給金は仕事の大変さの割りに安く、ヴィスタは余分な金など持っていない。他に稼ぐ方法も知らず、そんな才も力もなかった。王立学院に入るためには王都の塾に通う必要もある。物価の高い都での生活費も合わせると、ヴィスタにとっては目の眩みそうな金額だった。
そこにソフィアという友人ができた。ヴィスタが特になにか言ったわけでもないのに、ソフィアはサピンくらい賢ければ勉強させてあげるべきだと言いだした。
金持ちの家に育ったから、そんなことを言える。ヴィスタはそう思って、新しくできた友人に少し嫉妬した。普通かそれ以下のでしかないヴィスタにとって、同じ歳同じ女性で活躍するソフィアは眩しすぎた。ただソフィアは口だけでは終わらせなかった。狩竜人が金を直接寄付することはできないなら、友人としてヴィスタに金を渡すからそれを使ってほしいと言いだした。
それは法的に完全な黒とは言えないが、灰色程度には怪しい。せっかくの厚意でもそれは受け取れないと、ヴィスタは初め断った。協会認可を取り消されるようなことを、させるわけにはいかなかった。
しかしソフィアは断られたことに気を悪くするわけでもなく、ならば友人として贈り物をするから、それを金に換えてほしいと言いだした。結局ヴィスタは根負けし、単純で優しい申し出を受け取ることにした。明るく素直すぎる性格は好ましいが、こんなに色々と綺麗では、女の友人が少なそうだともヴィスタは思った。
それからというもの、ソフィアはやたらとヴィスタに物を買い与え、ヴィスタも開き直ってそれをねだるようになった。それに周りの者、特にガイツなどは、その不自然なやり取りに気づかないわけがない。ただ若い2人の浅知恵に共感するところもあったので、やはり見て見ぬふりをしていた。できるだけ多くの人を助けたい。そう理屈では思っていても、人は身近な者から手を差し伸べたくなる。
ヴィスタのへそくりが充分に貯まり、不自然なやり取りもようやく終わった。
避難民受け入れから8日目。少し改善された食事に、フェネラルは少しだけ活気を取り戻した。食べるものが人の心に与える影響は、安心にしても不安にしても絶大なものだ。
ただその明るさは長続きせず、すぐに失われてしまう。南東の空が、黒く分厚い雲で覆われはじめたのだ。天気もまた、人の心を簡単に左右してしまう。
緊急事態において狩竜人が最も危険なのは間違いないが、運び屋はそれ以上に疲労を抱える仕事かもしれない。雨が降りだす前に、なるべく屋根の下に人も荷物も押しこむため、運び屋たちは街の外も中も大忙しで走り回った。
運び屋は竜の解体においても活躍する。狩られる竜の数が尋常ではない今、全ての素材を利用することは難しいが、取れる油だけは火にするために確保する必要があった。空が泣きだす前に少しでも多くと、運び屋が油を集めていく。
北イリシアまで来る竜種は、大きな川を何本も越えてくるので水を恐れることはない。しかし竜は基本的に、雨も水も好みはしない。蛇竜ネスアルドと炎竜レイダークだけは水に入ることを厭わないが、他は大型になるほど水を嫌う傾向にある。
狩竜人も運び屋も休みたくなると、雨が降れと願うものだ。しかし今だけは降るなと願っていた。しかしどんなに願っても、人に天気は変えられない。降れと願っても降るなと願っても、結果は変わらない。昼前にポツリポツリと降りだした雨は、徐々に粒を大きくしていった。
街の東で木を切っていた狩竜人や運び屋たちも、ここまでだと引き上げようとしたときだった。運び屋の相棒たちが、東の森に向かって一斉に吠えだした。犬笛の音を聞き分ける相棒たちは、必ず無駄吠えしないようにしつけられている。吠えるようになったら年を取ったと判断され、運び屋の相棒は引退しなければならない。
明らかな異常に、その場にいた全員が顔をしかめた。
「運び屋たちは荷物優先で街に戻るように。木を濡らさないよう、できるだけ早く帰ってください。それと手の空いた狩竜人は、こっちに回るように協会に伝えてください。狩竜人は全員、一旦ここで待機。雨だからと気を抜かず、動けるよう準備を整えるように。エルは私と一緒に森の中へ。どうも嫌な予感がします……慎重に進みますよ」
その場にいた最上段位のウィクラスが指示を飛ばす。エルはうなずき、運び屋たちは竜運車を引いて一斉に街へと駆けだした。大雨の中で姿を現す竜は、大体ネスアルドかレイダークと決まっている。ウィクラスとエル以外は中段位未満の狩竜人だ。ネスアルドならまだしも、レイダークでは逃げだすしかない。皆が緊張を高めて、顔をこわばらせた。
しかしウィクラスは、もっと緊張していた。レイダーク相手ならいい。ただ犬が言うことを聞かず吠えだす危険な相手は、レイダークですらないとウィクラスは思っていた。慎重に警戒しつつ、エルとともに東へと向かう。
「ウィクラスさん、なんか変な匂いがしませんか?」
東の森の中。大雨の中では音も視界も奪われる。かといって鼻で探せるような嗅覚など、人は持っていない。しかしエルもウィクラスも、雨と森以外の臭いを嗅ぎとっていた。
「ええ……確信はありませんが、嫌な予感は当たってそうです」
そのとき、エルはリグトンの群れを見つける。すぐさま黒藍剣を手を伸ばすが、その必要はなかった。群れはウィクラスとエルを無視して、東に向かってしまう。雨を嫌う竜は、こんな天気だと襲ってこないこともある。エルはそれを知っていたので、別に不思議に思うことはなかった。しかしウィクラスは、リグトンの挙動に表情を険しくする。
森を進むと2人の鼻を、不快な臭いが襲いだす。そして森が大きな音を立て、大地が揺れた。
「え……な、なんですかあれは!?」
「ディジャイール……苦土竜ディジャイールです。南の竜がこんなところに来てしまうとは」
背の高い木よりも、さらに背の高い竜。まだ遠くから見ているはずなのに、近くにいるのかと錯覚するほどの大きさ。苦土竜ディジャイールは、エルの遠近を狂わせるほどに巨大だった。




