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避難民を受けいれたフェネラルの街は、人口が倍に膨れあがってしまった。レズレンだけではなく、フェネラルの東側に位置する集落の人たちも、全て集まってしまったからだ。元々人口のわりには広く造ってあった街だが、さすがに倍ともなれば無理が出てしまう。
春先の3月。昼間はそれなりに温かく、外で過ごすのも問題はない。しかし夜間も屋根がない場所で過ごすには、フェネラルではまだ厳しい季節だ。必死に避難してきた人々は、ただでさえ疲れきっている。老人や子どもなど、弱い者から体調を崩していく。家も財産も全て放棄して逃げなければならなかったことに、多くの人が肩を落として気力を失っていく。
国も協会も東からの危機には対応を始めている。大きな商団なども国の指示で動き、食糧などを西から運ぼうとはしていた。しかしまだ春先だというのに竜の数が多く、移動にも危険が伴ってしまう。フェネラル近辺では大街道ですら、安全とはいえない状況だ。そのため食糧も他の物資も、どうしても供給が間に合わない。
緊急事態ということで、フェネラルの街では基本的に食糧の売買が禁止されていた。一時的にだが、全て役人が管理した上での配給制となっていいる。火を起こすための薪も油も不足気味で、個々の家で料理することもままならない。そのため食事は、作ったものを配る形が取られていた。しかし配られる量は、子どもでも腹を満たせないほどに少なかった。毎日なにかしら口にはできる。飢えて死ぬことはない。しかしそれがずっと続けば、いつか体も心も弱りきってしまう。そんな貧しい食事だった。
南から駆けつけた狩竜人たちの奮闘もあり、竜はしっかりと排除されている。周囲には常に誰かしら見張りが立ち、街の中なら竜に食われる心配はない。しかしそれでも、街全体に漂う息苦しい雰囲気はどうしようもなかった。
早朝から夕方まで狩竜を続け、ようやく街に戻ってきたエルは、いつもと違って1人で食堂へと足を運ぶ。個々に強い白緋の女神の団員は、それぞれ違う場所に配置されて街を守っていた。レイダークすら単独で狩れる人材を、固めておく余裕はない。光球使いにしてもそうだ。数だけ揃っていても相手にならない竜が、時折出てしまうようになっている。それらにできるだけ広範囲で対処するため、強者は別行動を取る必要があった。
途中、腹を空かせてうずくまっている子どもたちが、幾人もエルの目に入ってくる。つい足を止めそうになるが、今のエルにできることはない。足早に通りすぎるしかなかった。
「あ、あの……僕だけこんなにはもらえません」
自分の前に差し出された食事の量を見て、エルはとっさに遠慮してしまう。食堂は臨時に狩竜人専用とされた場所だ。認可を受けている狩竜人たちは、普通の人とは違う待遇を受けている。住民に配られている最低限飢えをしのげる食事ではなく、腹を満たせるだけの食事を提供された。だから周りに腹を空かせた者はいない。しかしうつむいていた子どもたちを思い浮かべてしまい、自分だけが腹いっぱいに食べるわけにはいかない。そうエルは思ってしまう。
「お前、白緋の女神のエルだろ? レイダークでもなで斬りにぶっ倒す、すげえ狩竜人らしいじゃねえか。噂じゃかなりの大食らいだって聞いたぜ。気持ちは分からんでもないがな、その遠慮に意味なんかねえ。むしろ無責任だ」
食堂で働いている中年の男性は、エルを叱るように諭す。エルは考えなしな自分の言葉を後悔し、礼を言って食事を受け取った。
複数の竜種が群れをなして襲ってくる事態は、幸いにも1度だけで済んでいる。しかし東からやって来る竜の数は、普段と桁違いだ。元々はレズレンで食い止められていた竜が、今では全てフェネラル近辺まで来てしまうので、それも当然だった。この状況で狩竜人が空腹のままでいられたら、誰もが困る。
エルもそれは分かっていた。自分が他の人と比べ、強者だということも分かっていた。役に立たなければならないことも、分かっていた。しかし狩竜人だけが口にできる豪華な食事が、この状況では美味く感じられない。いつもはなんだって美味そうに食べるエルが、ただその行為が必要だからといった感じで、食事を口に運びはじめる。
食堂から出たエルは協会へと向かう。今はそこで寝泊りしていた。屋根のある場所がとにかく足りない。責任者が医師のモンバルトということもあり、竜災孤児院は重傷を負った狩竜人や妊婦など、落ち着いて休む必要がある人たちが使っていた。ただソフィアだけは以前のように、ヴィスタの部屋を一緒に使わせてもらっていたので、エルは久々に1人での行動が多くなっている。
協会に向かう途中、避難民であふれかえった場所を横切る。それなりに話し声も多く、うるさいと感じる程度には物音も多い。しかしそのどこにも、明るさはなかった。そんな中、エルの耳にひと際大きな声が届いてくる。
「皆さんは見たはずです、あの東の惨状を! 今回の事態は、人の欲望が生みだした結果だ。竜を敵とみなし、竜を殺し続けた結果だ。守る守るといいながら、国も協会も自分たちの利益が優先する。死ぬのはまず弱き者たち、私たちなんだ! 皆さんも気づかなければならない。国も協会もゆがんでいることに。成果の出ないことを、何百年も繰り返しているだけだということに」
人竜会が街頭で行う、大げさな演説だった。避難民の集まっている場所に立って大声で叫んでいる。今のような現状から脱却するには、今の国と協会では駄目だということを、人々の不安を煽るような言葉を並べて説いていた。
「竜は確かに恐ろしいかもしれない。しかし人が竜に抵抗すればするほど、結局被害は大きくなるだけなんです! レズレンに住んでいたなら分かるはずだ。今こうやって私たちが苦しんでいるのが、国と協会のやり方が間違っていたなによりの証拠なんです!」
人と竜が共存すべきだと唱える人竜会は、王都周辺や以前のレズレンなど、非常に安全か逆に非常に危険が大きい場所に姿を現す。フェネラルで演説を行っているのは、現状最も竜の脅威を人々が感じているからだ。エルが手をかけた血の繋がらない父親も、その人竜会に入っていた。聴きたくもない演説を耳にして、エルは不快で顔を歪める。
「竜に悪意はないんです。ただこのイリシアを支配する国と協会に敵意を向けられ、それに対抗しているだけなんです! その竜の力が向かう先が、我々の弱い者たちになってしまうんです!」
そんな馬鹿らしい詭弁に賛同する者などいるわけがない。エルがそう思っていると、演説者に対して避難民の中から反応があった。
「そうだ! やっぱりおかしいぞ、なんで俺たちがこんなに飢えなきゃならないんだ。結局国も協会も、守ってくれてねえじゃねえか!」
賛同の声は1つだけではなかった。数は少ないが、2つ3つと同じような声が上がる。エルは自分の耳を疑った。なにが起こったのかと。
演説など無視していた人たちが、わずかでも賛同の声が上がると耳を傾けるようになってしまう。馬鹿な演説だと聞き流していた人たちが、もしかしたら自分が間違っているのではと思いはじめてしまう。避難民の人々に、わずかだが動揺が走った。
「全ての竜を殺そうなどと考えるから、おかしくなってしまうんです! 人は人だけで生きているわけではありません。様々な家畜だって、元は野生の獣だった。牛も豚も羊も、鶏だってそうです。元々人は、野生の獣たちと共存する力を備えています。私たちはできるはずなんです!」
その演説者の言葉に、再び賛同の声が上がる。それに煽られ、避難民たちが次々と演説者に視線を向けるようになっていく。そこでエルは気づいた。賛同の意見は徐々に多くなっているように聞こえるが、実際に声を上げているのは3人しかいない。あたかも何人かが賛同しているように見せるため、移動しながら大声を出している。群衆の中でも、耳のいいエルは賛同者の声を聞き分られた。
そしてエルの父親がそうだったから、それに気づけた。賛同者は人竜会の仕込みだ。詭弁でしかない演説でも1人が賛同の声を上げると、そうなのかと思ってしまう人が出てくる。なんとも単純で馬鹿らしいやり方だが、大きな不安を抱える避難民を煽るには、充分な効果があった。
エルは迷った。自分なら演説者を腕力で黙らせることができる。怪我を負わせることもない。ただ強引に連れ去ってしまえばいいだけだ。
ただそれを、自分がやっていいのか分からなかった。そこまでする必要があるのかも分からなかった。しかし不安を煽るだけの演説が、良いものであるわけがない。これくらいのことで国や協会の信頼が揺らぐとは思っていないが、不安になることは避けられない。そう思ってエルが足踏みしていると、1人の老人が人混みをぬって演説者に近づいていった。
「若いの、ちょっと黙ろうか。普段なら誰も耳を貸さないだろうが、今は非常に耳障りじゃ」
その老人の顔にエルは見覚えがあった。かなり高齢のようだが、体が大きく威圧感がある。人々より1段高い場所に上がっていた演説者の前を、塞ぐように堂々と立った。
「ご老人、しかしこれはとても大事なことなんです。私は不安を煽りたいわけではない。ただ真実を述べているだけなんです。どうかお分かりいただきたい」
演説者は丁寧な口調で応対した。役人や協会職員以外だと、人竜会の者は絶対にそうする。
「よく聞け若いの。わしはジッカートという狩竜人でな、といっても引退しとるようなもんじゃが、しかし自分では今でも狩竜人だと思っとる。だからこそ言えるんじゃが、竜と人は相容れない存在。これは絶対だ。これを分かっていない者などイリシアにはおらんはずじゃ。しかしな、分かっていても心が弱っているときに、お前さんがさっき口にしたような言葉を投げつけられたら、どうしても人は楽なほうへと向かいたくなるもの。たとえそれが、間違っていたとしてもだ」
老人はわざと大きな声で、人々にも聞こえるように話した。狩竜人、という言葉で演説者は逃げ腰になる。それは腕力が恐ろしいからではない。狩竜人という存在は、人竜会にとって都合が悪いからだ。
「おい、ジッカートっていえば……9年前のときに、レズレンまで来てくれた狩竜人じゃねえか?」
「あ、そうよ。大竜災のときの」
その老人は、避難民のあいだでも名前の知られた人物だった。ジッカートは9年前のレズレン大竜災で、フェネラルから応援に駆けつけて活躍した狩竜人だ。レズレンから来た避難民だからこそ、知っている者も多い。
「そうですか……それでは、ちょっと失礼して」
演説者はあっけなく引き下がり、その場から急いで離れていく。人竜会は国と協会を批判しても、狩竜人は絶対に批判しない。際立った活躍をした狩竜人は、その名が広まる。イリシア中で名前が知られ、人気のある狩竜人という存在もいる。狩竜人を批判してしまうと、人々の話題に上る人気のある者まで批判することになってしまう。それを人竜会は露骨に避けていた。
エルはその老人と演説者のやり取りを見て、自分がいかに馬鹿だったかを思い知らされる。人竜会のやり口は知っていた。国と協会だけしか批判できないことも知っていた。自分も狩竜人なのだから、その言葉を使えば腕力など必要なかったことに気づかされる。
人竜会が立ち去ると、ジッカートは避難民に囲まれはじめた。皆が9年前のことを忘れていない。そして感謝も忘れていない。あのときは助けられた。9年経った今になっても、感謝の言葉はジッカートに向けられて尽きなかった。老狩竜人は大勢の人に囲まれながらも、決して避難民を邪険にせず、励ましの言葉をかけていた。
フェネラルに避難民が来て4日。しかしレズレンの村を追われたのはもっと前で、そこから何日もかけてフェネラルまで逃げてきた。疲れと不安が、皆の表情ににじみ出ている。街が暗くなるのも仕方のないことだった。ジッカートはその顔を少しでも和らげるため、自身の勇名を惜しみなく使った。ジッカートに声をかけられた人の顔が、ほんの少しだけ晴れていく。
それを遠くから眺めていたエルは、老狩竜人の行動に感心しきりだった。不安だけを煽っていた演説が、ジッカートの登場でひっくり返っていた。ふと、エルとジッカートの目が合う。エルの存在に気づいた老狩竜人が、にんまりと笑った。
「ほれ、あっちにわしより若い狩竜人がおるぞ。おいおい、あの若いのはもしかして……白緋の女神のエルじゃないか!?」
ジッカートはわざとらしく、エルの名前を大声で口にした。避難民たちの目が、一斉にエルに向く。そしてジッカートを囲んでいた人だかりが、今度はエルのほうへとやってきた。
なにが起きたのか、エルには理解できなかった。ジッカート以上に、エルに向かって称賛の声が飛びはじめる。
「うそ、エルってあのエル? ハイウェスラルから駆けつけてくれて助けてくれたんでしょ? 私たちと同じでレズレン出身なのよね」
「すげえ若いな! あんたのおかげで俺らはここまで来れたんだ。ありがとな」
「あんた、レイダークでも一撃でぶった切るってほんとかよ!?」
「もしエルって狩竜人とソフィアって狩竜人が来てくれなかったら、俺たち生きてなかったそうだぜ」
「ハイウェスラルから寝ずに走ってきて、私たちを助けてくれたんでしょ。黒藍剣の使い手で、すっごい格好良いって噂よね」
レズレンの人々のあいだで白緋の女神の名前は、今最も話題に上る戦団となっている。いくつも嘘に近い誇張が混ざっているが、人はいつだって英雄譚を好むもの。遠くハイウェスラルから、先頭を切って駆けつけてくれた。そのことだけでも、避難民たちが笑顔を向けるには充分だった。
予想外のできごとに、エルはどうしたらいいか分からなくなってしまう。ジッカートのように上手く対応することなど、エルにはとてもできなかった。次々飛んでくる称賛の声に、まごまごと戸惑うばかり。ソフィアと出会う前の、人見知りで情けない表情が顔を出す。ついには耐えきれなくなったエルは、その場から走って逃げだした。
いい加減大丈夫だろう思って立ち止まり、エルは自分が協会とは逆の方向に来ていたことに気づく。せっかく大勢の人が声をかけてくれたのに、自分はなぜ礼も言わず逃げたんだと後悔しながら、再び協会に足を向けた。しかしさっきの通りは、また人に囲まれてしまいそうだと避けてしまう。あの老狩竜人のようには、到底なれそうにないとエルは思った。
さっきの通りはまずい、人の気配もなるべく少ない道を選ぼう。そんなことを考えている自分に気づき、エルは自嘲気味に笑った。いつも通りソフィアがいたら、こんなことにはなっていなかった。きっと大勢の人の前でも、もっと堂々としていられたはずだ。ソフィアが横にいたら格好つけるし、強がることもできる。久々に1人になってみると、ソフィアに頼りきっていることをエルは自覚させられた。
避難民で埋め尽くされた今のフェネラルに、人が少ない場所などない。エルはそれでも人混みを避け、大きく遠回りして街の北側に向かう。そして協会の手前まで来て、エルは老狩竜人の姿を再び目にした。少し迷ったが、エルはジッカートに声をかける。
「あ、あの。さっきはすみませんでした」
「おう、来たか。はっはっはっ、大人しそうな奴じゃとは思っとったが、どうやら見た目通りじゃな。狩竜人らしくないのお」
ジッカートとエルは偶然会ったわけではなかった。フェネラル出身ではない狩竜人は、今ほとんどが協会で寝泊りしている。それでエルが帰る場所も協会だろうと踏んで、ジッカートはここで待っていたのだ。
「まさかあそこで逃げだすほど、大人しいとは思ってなくてな。余計なことをしたようじゃ」
「いえ、そんな……ああいうのに慣れてなくて、本当に情けないです。あの、実はジッカートさんと前にお会いしたことがあるんです。すれ違っただけなんですが」
「おうおう、覚えとるとも。去年の夏じゃな。あのときは白緋の女神のことなんぞ知らなかったし、こんな若いので大丈夫かと思ったがの。今にして思えば、なんとも無駄な心配だったのお」
初めてガイツと組んで3人でレイダークに挑んだ際、その狩竜に向かう道中で、ジッカートとエルは顔を合わせていた。老狩竜人はその経験と手際の良さで、鉱山で働いていた人々を誘導し避難させていた。ジッカートがいなければ、間違いなく犠牲が出ていた。3人が相対したレイダークが人食いになっていなかったのも、ジッカートのおかげだった。
「そう思われても仕方ありません。あのときは僕もソフィアも、全然人と関わってこないまま狩竜をしていましたから」
「はっはっ。栄誉と名声を求めてこそ狩竜人と思っとるわしとは、全く逆じゃな」
「いえ、そういうわけでもないんですが……でもさっきのジッカートさんは、本当にすごかったです。その、こういう言い方は失礼かもしれませんが、上手く名前を使ったというか……あの演説を見かけて、僕も止めさせたほうがいいとは思ってたんですが、どうすれば上手く止められるか分からなくて」
エルの言葉に、ジッカートはニヤリと笑う。
「そりゃ買い被りってもんだな。わしは目立ちたがりなだけじゃ。いくら年を食っても人に称賛されたいと思ってしまう。ああいううのは気持ちの良いもんじゃぞ」
それも本音かもしれない。ただ自分の想像も間違っていないだろうとエルは思う。人竜会に不安を煽られた避難民たちを、ジッカートは自分が名乗ることで落ち着かせた。それはジッカート自身が、自分の名前がどういう効果を発揮するのか知っていて取った行動だ。
「狩竜人なんぞ目立ってこそよ。大金がもらえて、その上大勢の人に褒め称えてもらえる。お前さんのように若けりゃ、女だって向こうから勝手に寄ってくるじゃろ。お前さんもその喜びが分かるといいんじゃがな」
物腰の柔らかい老人が、欲望を微塵も隠そうとしない。
「そういうのが、全くないわけではないと思うんですが……どうも苦手で」
「らしいな。白緋の女神と言えば、今この街じゃ1番話題に上る戦団だというのに、もったいないのお。お前さんはなにが望みで狩竜人なんて危険なことをやっとるんじゃ」
本当にもったいないと思っているらしく、ジッカートは呆れたような顔をする。その率直な物言いがおかしくて、エルは思わず笑ってしまう。
「望みは……南に行ってみたいってことでしょうか」
今ではそれ以上に大きな理由があるのだが、それは恥ずかしくて口にはしない。
「なるほど、南方遠征団か。それなら今が好機じゃな。恐らくここ数年で、南に行く者が増えるじゃろう。そうじゃな、わしもちょっと南には行ってみたかったかの。うむ、そう思うと悔しいなあ。あれもこれも、まだまだやり足りん」
エルは好機だという言葉に驚いた。
「しかしこの状況だと……遠征団なんて作る余裕なんてあるんでしょうか? 南に行くとなると、強い狩竜人だけで行かないと駄目ですし、でもそういう人は皆、手が塞がってしまうような状況で……」
レズレンが堕ち、ハイウェスラルから狩竜人が来なければならない状況だ。フェネラルの街が好きで、フェネラルの人々が好きなエルは、この街の危機に自分が駆けつけられたことを、良かったと思っている。しかしこの状況では、南方遠征団は難しそうだとも思っていた。目の前の危機に狩竜人たちは手一杯で、遠征団を送りこむ余裕はなさそうだと考えていた。
「なんじゃ、知らんのか? お前さんは今までに1番南まで踏破し、無事に帰ってきた狩竜人は誰か知っておるか?」
「あ、はい。えっと200年も前の狩竜人で、南の大地の冒険を書いたラノヴィートっていう人ですよね。200年経った今でも、その狩竜人以上に南に進めた者はいないって、そう聞いたことがあります」
「そうじゃ、知っとるんじゃないか。この200年のあいだに幾度となく遠征団は派遣されたが、未だラノヴィートの到達した線は越えられない。越えられないどころか、どうやらその近くまでも行けてないらしいの。だがその200年前の前例があるからこそ、今が好機と分かるんじゃ」
エルは少し考え、200年という数字で、もしかしたらと思いつく。
「200年前に南の奥まで行けたのは……もしかして火山の影響なんですか? 今回のような事態が、200年前にも起こったんですよね? 」
「お前さんも、今回の事態がどこに起因するかは知っとるようじゃな。200年前、ラノヴィートが南へ深く入っていけたのは、火山の灰が舞った直後だから。そう考えられておるそうじゃ。まあわしは学者じゃないから、詳しいことは知らんがの。チャビレットとかいう変わった学者の受け売りじゃ」
「そうだったんだ……あ、僕チャビレット先生とは知り合いなんです。色々教えてもらってて、今度しっかり話を聞いてみます」
「なんじゃ、あのへんてこりんと知り合いか。まあしかしなんだ、南行きが夢だとは、ちと地味じゃのお。わしがお前さんじゃったら、もっとやりたい放題するというのに。こう女どもをはべらせてじゃな、協会にだって偉そうな顔ができるじゃろうて。最近の若いもんは欲がなくていかん」
エルはその言葉を冗談半分で受け取る。ジッカートは自分の勇名を効果的に使い、どこも暗かった避難民の一角に笑顔を与えたのだ。口ではそう言いながら、この老狩竜人は人々のためを思って行動している。
そして地味と言われてしまった夢だが、エル自身は地味どころか、傲慢すぎる欲望を持っていることに気づかされた。
「ジッカートさん。僕が南に行きたいのは……多分地味どころか、大それた夢を持ってるからだと思うんです。僕は、竜に勝ちたい。竜に効く毒が欲しい。それを見つけて、イリシア全部を救いたいって……自分なら見つけられるとか、そうは思えないんですが……でも、そうしたいんです」
エルは恥ずかしそうに言う。最近エルは、個の強さの限界を感じていた。エルは自分が強いと思っている。最近は30段を越える狩竜人と並ぶことも多いが、自分が負けている気はしていない。しかしそれを、誇る気にはなれなかった。
1人がどんなに強くても、1人がどんなに走っても、守れるのは微々たる範囲でしかない。それがエルは嫌だった。自分の腕をどんなに磨こうが、根本的に解決しなければ無意味だと思ってしまった。皆が強いと褒めてくれる。でもそれは、他人と比べて多少は強いという程度だ。竜の大群の前では、自分は小さな存在でしかない。それが許せなかった。
腹を空かせて座りこんでいる子どもを、見たくなかった。家族を失って悲しんでいる人を、見たくなかった。仲間を失って嘆いてる狩竜人も、もう見たくはなかった。
ジッカートは大人しそうな若者の言葉に一瞬驚く。そしてすぐに、嬉しそうに笑いだした。
「かっはっはっ、いいぞ。そうじゃ、そうでなければいかん。でかいことを言ってこそ狩竜人じゃ。全部を救いたい。いいじゃないか。わしが若い頃もそう思っておった。いや、今だって思っとる。悔しいのお……もうちょっと若かったら、お前さんなんぞに負けはしないのに」
本気で悔しがっているようで、エルも驚いた。老いてなお本気でそう思っている狩竜人がいることが、なぜか嬉しかった。
「さて、今は死ぬほど忙しいだろうに邪魔したの。ああそう、お前さんに言いたいことがあったんじゃが……狩竜人は多くの人に希望を与えられる存在じゃて、ちょっとくらい愛想良く振舞えと。たったそれだけのことで、人が活気づくこともある。まあ話してみれば、それも必要なさそうじゃったな。お前さんは愛想なんかより、もっとでかいことで希望を与えればいい。年寄りの冷や水と思って、聞き流してくれ」
ジッカートはエルに背を向ける。エルは老狩竜人と話せたことに感謝して、無言で頭を下げた。
陽はとっくに落ちている。街は真っ黒に染められていた。以前なら夜でも、ところどころに明かりがあったフェネラルだが、今は薪も油も不足している。火の温かさと明るさは、ごくわずかな場所にあるだけだった。早く協会に帰って体を休めなければと思いつつ、エルは少しだけ闇夜の中を歩くことにした。
夜に明かりがないのは、エルにを少し懐かしい気持ちにさせる。師匠と呼んだタシネートと2人暮らしていた頃は、ずっとそれが当たり前だったからだ。エルは昔を思いだしながら、人の気配を避けて歩きはじめる。
ソフィアに出会ってからは、ずっと離れず一緒にいた。そのおかげでエルは、昔のことをあまり思いださなくなっていた。思いだす必要もなく、ソフィアはそんな暇を与えてくれない。それがエルの心を軽くさせてくれた。良い思い出は少ない。考えたくないことのほうが多い。ただ、ソフィアはもう充分にエルの心をほぐしてくれた。昔を思いだしても、つらくならないほどに。
自分が師匠と呼んだタシネートのことを、今になって少しだけ理解できたかもしれない。エルはそんなことを考えている。出合った頃から、幼いながらに変わった人だと思っていた。口数が少なく、口を開くときでも大抵は、子どもに理解できないような難しい話ばかり。ただそれは、エルにとって無駄なことではなかったのだと気づいた。
何年も人と関わらずに暮らしていたせいで、普通の会話すら難しくなっていた。ただそれだけだ。幼い頃から何年も人里から離れていたが、おかしなことにそれだけで済んでしまっている。勇気を持って話してみれば、問題はなにもなかった。それをソフィアが気づかせてくれた。それをガイツが、シロノが、ヴィスタが、クライオンが、皆が気づかせてくれた。
タシネートと会う以前、親に頼らず娼婦たちに世話になっていた頃の経験も、もちろん活きている。しかしそれだけで、何年も人里から離れていたのに問題がないわけがない。口数は少なくとも、タシネートは必要なことを自分に与えてくれていた。それに気づけた。
チャビレットの存在も、エルにそう思わせる要因だった。エルが最も尊敬する人物はと聞かれると、今ならチャビレットの名前を答える。
最初にエルがチャビレットと会ったとき、タシネートのことを子どもの命を粗末に扱った罪人だと断言した。それは絶対に許されないと、チャビレットは強い口調で言った。タシネートのしたことを、チャビレットは本当に強く恨んでいる。そしてそれは、元々チャビレットがタシネートを強く尊敬していたことの裏返しだ。そうエルは思っていた。チャビレットにものを教わるとき、言葉の最後にこれはタシネートの発想だ、思想だとつくことがあった。重罪人だと断言したわりに、チャビレットは影響を受けていることを隠していない。
ソフィアの祖父、リータフにしてもそうだ。タシネートと同じ理力学者として、その才どころか人格を否定する言葉も口にしていない。重罪人の育てられたと知っていても、エルを温かく迎えてくれた。大切な孫娘の仲間であることを、まるで心配していなかった。エルはリータフを見て、タシネートが悪人ではなかったことを確信した。
いつだったかエルは、自分の手で父親だった男を手にかけたことを、タシネートに話した記憶がある。なぜそれを話したのかは覚えていないが、タシネートの反応は覚えていた。エルの話や父親の話には一切ふれず、なぜかそこから竜の話になってしまったからだ。自分のことを話したのに、全然関係のない話が急に始まり、やはり変な人だと思った記憶があった。
人を殺したことを、叱るでも同情するでもない。ただ竜がどういった生物で、どういった生態で、どういった特徴を持つのかを教えられた。そしてなぜ人と竜が共存できないのかを教えられ、今のままでは人がいつか竜に負けてしまうと教えられた。
そこから竜だけではなく、ありとあらゆる生物が繋がっていきていることを教えられ、人はその輪の中に生きていると教えられた。幼かったエルはとても全てを理解することはできず、覚えきれるわけもなかった。ただ今にして思えば、それはタシネートなりの人を殺してはいけない理由だったのかもしれない。そんなことをエルは思っていた。
そしてエルはジッカートと話すうちに、あることを確信していた。自分が南を目指すようになったのは、タシネートがそう仕向けたのだと。
南を目指すきっかけとなった本、南の大地の冒険は、タシネートの蔵書にあった。今思えばそれは不自然だ。なにやら難しい理力学の本の中で、南の大地の冒険だけが浮いていた。飾り気のない蔵書の中に、1冊だけ挿絵が描かれた本があれば、子どもが興味を持つのも当然だった。
当時のエルは字がほとんど読めなかった。誰にも教わったことがなく、娼館に出入りして仕事をもらうために、いくつか必要な単語を覚えていただけだ。子どもの喜びそうな挿絵が入っていたその本を、エルは読めもしないのに何度も開くようになる。誰かと話すことも遊ぶこともなくなり、それが唯一の楽しみだった。
そのうちに、本を教材にタシネートが字を少しずつ教えてくれるようになった。娯楽のなかったエルはそれが読みたくて読みたくて、すぐに字を覚えた。
それからのタシネートは、南のことと竜のことを絡めて教えてくれるようになった。時折きまぐれのように話すだけだったが、元々あまり喋らないせいか、教えられたことは印象に残っている。
南なら竜に効く毒が発見できる可能性があること。それがもし見つかれば、人は誰でも竜に対抗できるようになること。南に行くためには、強い狩竜人になる必要があること。
エルは思いだしていくうちに確信を強める。単純なことだ。幼いエルの心に、少ない言葉を刻み込んで煽ったのだ。人は竜と相容れないと教え、竜は倒すべき相手だと教え、竜に勝つためには毒があればいいと教え、その毒は南にあるかもしれないと教えた。全部誘導されてしまっている。人竜会が賛同の声を仕込み、人々の心を煽ったのと変わらないかもしれない。
なぜタシネートが、自分をそう導いたのかは分からない。ただエルは、その誘導に乗ることにした。




