10-1
「うわ、真っ黒じゃない。なんでこんなになるまで洗わないのよ、もう!」
服は清潔に、髭を毎日剃るように、などなど。エルの身だしなみには、普段からソフィアが口を出していた。おかげで最近は山育ちなどとは感じさせず、垢抜けた雰囲気すら出ている。それはそれで他の女が寄ってくる心配が増えるが、身なりに気を遣えるようになるのは、エル自身にとって良いことだとソフィアは喜んでいた。まだ足りないところもあるが、それはそれで嬉しい。そんなことを思いながら、ソフィアは楽しそうにエルの服を洗う。
この日の白緋の女神は、陽の高いうちに狩竜から帰ってきていた。そしてガイツがエルだけに話があるからといって、1人ソフィアだけ除け者にされてしまったのだ。暇を持て余したソフィアは、最近役に立ってないからと仲間の服まで進んで洗濯を引き受けていた。
通常の戦団だと、こういうことは若手狩竜人の仕事だ。しかし白緋の女神は3人が対等という立場を取っているので、普段の雑用は3人が平等に行っている。そして狩竜については、団長と副団長が唯一の平団員に指示と指導を受けるという、他の戦団から見たら少しいびつに見える関係だ。ただその関係が、それぞれ不満を感じることなく狩竜に集中できるかたちでもあった。
「おお、ガイツさんの服は全然汚れてないや。というかこれ、綺麗すぎて洗わなくていいんじゃないかなあ……几帳面すぎる男ってのはどうなんだか。ヴィスタもかなり潔癖だったから、ちょうどいいのかな」
勝手な批評をガイツに下しながら、最後に自分の服を洗う。
「あれ、うそ? 私の服もすごい汚い……なんでこんなに泥だらけなんだろ」
細かい泥まみれの2着が、前日の雨でずぶ濡れになった自分とエルの服だとソフィアは気づいた。ハイウェスラルの大通りは石畳で舗装されているので、大雨が降っても泥が跳ね返ってくるような場所は少ない。ソフィアは不思議に思いながらも、丁寧に服の泥を落としていった。
戦団、紫炎の槍に同行するイーラを見送ったあと、チャビレットは早朝からハイウェスラルの街を歩き回っていた。苦手な船旅から一夜明け、その顔は元の精力的な表情を取り戻している。ずっとうつむき加減で歩いているが、まだ気分が悪くてそうしているわけではない。前日の雨が残した水溜まりを確かめるため、下を向いていたのだ。時折立ち止まり、水が多く残った石畳に触れる。そして指先に付いた細かい泥を見つめると、今度は晴れ渡った空を見上げる。それを繰り返したチャビレットは眉間にしわを寄せ、昼下がりの協会へと足を向けた。
「さすがイリシアで1番脚が速いと言われる学者ですね、チャビレット先生。まさかこんなに早く来られるとは思っていませんでした」
チャビレットより頭半分背の高いノウィールは、いつもより腰を低くして小さな学者を迎え入れる。居丈高で横柄で地位や権力に対して膝をつかない、などと言われているノウィールだが、尊敬できる学者に対して礼儀を忘れたりするほど非常識ではなかった。
「さすがに慌てましたのでね、今回は船を使いました。苦手だのなんだのと言ってられませんから。そういえばイーラ君を紫炎の槍に同行させてもらえるよう、ノウィールさんが手配してくれたそうで。その件については心より感謝いたします。彼女はまだ若いですが有望な学者です。名高い戦団に同行できることは、竜学者として間違いなく良い経験になるはずです」
一通りの挨拶を済ませたチャビレットとイーラは腰を下ろす。両者ともにその表情は暗かった。
「さっきまで街を見て回っていました。灰色の細かい土、それが水溜まりにかぎって多い。ノウィールさんからいただいた報告は、正しい可能性が高そうです」
「やはりそうですか……杞憂に終わってほしいものですが」
「もちろん、まだ確信があるわけではありません。なにしろ前例が200年も前のことです。確信できるとしたらそれは、残念ながら事態が起こってからの話になってしまいます。ノウィールさんが事前に推測できただけでも、素晴らしい成果だと思いますよ」
元々ハイウェスラルにはイーラ1人が来る予定だった。それにチャビレットも付いてきたのは、良くない兆候をノウィールが発見し、それを王立研究所に報告したからだった。
「報告書にも書きましたが、ここのところハイウェスラルではレイダークの数が多くなっています。加えて先日、あまりこの時期には出ないルヴィリスイールまで確認されました。今のところは猛者たちが問題なく狩竜をしてくれていますがね。そのうち狩竜人の中にも異変に気づく者が出てくると思います」
「経験豊富な狩竜人の中には、すでに気づいている人もいるかもしれませんね。頭でっかちな学者よりも、前線で戦う人のほうが気づくことは多かったりするものです」
「昨年の秋にレズレンでルヴィリスイールが出たそうですが、それも関係している可能性があるのでしょうか?」
「いえ、その可能性は低いと思います。200年前に灰色の土が確認されたのは、南風の強い真夏でした。記録によりますと土が確認されてから2ヶ月も経たないうちに、大規模な竜の北上が始まっています。昨年の秋の段階で南に異変があれば、恐らくもっと以前に影響が出ていたでしょう。ただ油断はできません。最近まではハイウェスラルでも北風の影響が強かった時期です。火山活動はもっと早い時期に始まっており、南風が強くなったこの時期になって灰が飛んできた可能性もあります」
灰色の土がハイウェスラルに舞う。それは南の大地で火山が噴火した証拠だ。そしてそれは竜の大規模な移動が起こる前兆でもあった。
「なるほど……いつ大きな竜災が起きてもおかしくない、ということですね」
「はい。ただハイウェスラルは、恐らく今なら耐えうると思います。200年前とは人の数も街の規模も桁違いに発展していますから、竜もこの地に大量に押し寄せてくるとは考えにくい。もし多数の竜が北上するとしても、ここを避けてでしょうね」
チャビレットの言葉には、多少の願望も含まれていた。それはノウィールにも分かった。もし現在のハイウェスラルで対応できない事態なら、もうそれは誰にもどうしようもできない。イリシアの大地を捨てる以外に、生き延びる方法はなくなってしまう。ハイウェスラルは大丈夫。その前提で話を進めないと、その先はないのだ。
「やはり心配なのは東回りで北に向かう竜ですか……しかし狩竜人は現状でも精一杯やってくれています。今以上、東に範囲を広げて狩竜をするのは難しいかと」
「そうですね。これは昨日今日の話ではありませんので、良い案が浮かべば解決できるという類の問題ではない。国が想像していたようにレズレンは発展してくれなかった。これは9年前のレズレン大竜災の影響もありますが、それが起きたという時点ですでに問題だったのです。もっと人が多くなっていれば、あそこまで被害は拡大していなかったはずですから」
南の果てのハイウェスラルも東の果てのレズレンも、国が竜に対抗するため人を集めようとした場所だ。しかし遠い地にあり元々は誰も住んでいなかったハイウェスラルが発展したのに対し、元から人の住んでいたレズレンは大きな発展には至らなかった。南の暖かさは、人々を惹きつけることができたが、山しかない寒い土地であるレズレンに人は集まらなかったのだ。
人が多く集まれば集まるほど、その場所に近づいてくる竜は減る。竜にとって人は餌でもあるが、同時に縄張り争いをする相手でもあるのだ。敵わないとみれば引き下がることもある。
ただし竜が引き下がってくれるのは、王都周辺やハイウェスラルのように大規模まで発展した街だけだ。その2つにしてもまだ、確実に安全とまでは言えない。もし狩竜をやめてしまえば、増えた竜が自分の縄張りを求め、王都でもハイウェスラルでも侵食されることは目に見えていた。ましてやレズレンの規模であれば、近づいてくる竜も多くなってしまう。それは9年前の時点で証明されてしまっていた。
「ここから東には未だ狩竜の拠点となる場所はできていません。東回りの竜を減らせないとなると今度は出口、レズレンに戦力を集めなければなりませんか。しかしハイウェスラルから人手を多数割いてレズレンに向かわせるというのは、正直気が進みませんね。命に価値や街の価値に違いがあるなどと言うつもりはありませんが、重要度で言えばやはりハイウェスラルが1番です。ここが崩れるようなことがあれば、北イリシア全土がまた600年前の状況まで後戻りしかねない」
「はい、ノウィールさんの仰るとおりです。レズレンで暮らす方々には申し訳ないが、あそこは捨てて逃げてもまだ取り返しがつきます。しかしハイウェスラルは絶対に捨てられない。ここが堕ちたら王都周辺まであっという間に竜の生息域が広がってしまう。それは絶対に避けなければなりません」
王都は為政者や大きな商団が集まっている場所。ハイウェスラルはその王都に向かう竜を防ぐ場所。しかし守らなければならない理由は、それだけではない。
港の問題があるのだ。イリシアでは穀物を輸入に頼っている。もし大きな船が出入りできる港を失えば、北イリシア全体の食糧事情が一気に怪しくなる。それは破滅への近道でしかなかった。
「手を打たない、というつもりはありません。ハイウェスラルの協会でも、戦力の分配を再考中です。ただ狩竜人には狩竜人の流儀と絆というものがある。それをないがしろにはできないので、頭の痛いところです」
「気持ちを無視して戦力だけを考えて、とはいきませんからね。竜と戦う力のない大多数の人たちは、結局狩竜人たちの心意気に頼るしかないのですから、その心情はしっかりと考慮しなければなりません」
「しかしどうしたって、狩竜人の数が増えるわけではない。守りきれる土地には限度があります。最悪を想定し、考えうる最善の手を打つしかないですが……やはり行き着くところは、戦える者の数の問題なります」
「竜に対抗するためには、人の数を増やすこと。これが1番分かりやすく確実な効果が見込めますが、しかし人を増やすにはまず竜を減らさなければならない。問題とその解決策が隣り合わせでとでも言いましょうか。一気に改善させる手立てというのはないですね。そして徐々に増えていた人口も、近年の調査では頭打ちの感が否めません。人が増えなければ狩竜人も増えない……いや、こんなことを嘆いても仕方ありませんね」
「常にぎりぎりの均衡を保って人は数を増やしてきた。それを忘れてはなりませんね。協会職員の私ですら、狩竜人の強さを信じきって危機感を忘れてしまうことがある……話がそれましたね、申し訳ありません。しかしチャビレット先生は確か、火山活動での竜の北上説に反対の意見を唱えておられたと記憶していましたが」
「はい、そうですね。それは今でも変わってません。600年前に北上が始まった直接の要因は、別にあると考えております。しかし火山活動が竜の北上をうながす、ということに異論はありません。ですので今回、雨とともに降った灰がそれだとしたら、非常に危惧すべき事態だとは思っています」
過去にも何度か、ハイウェスラルに灰が降ったことがある。それが確認された直後に竜の数が異常に多くなることも分かっていた。最後に灰が降ったのは、200年以上前。当時はまだ作られたばかりで小さかったハイウェスラルの街は、そのときに1度滅んでいる。
そして200年という月日は、人にとっては長過ぎた。当時を知る者はもちろん生きておらず、その悲惨な過去を伝えるための昔話も廃れてしまっていた。いつもより黒い雨雲にも多くの者が関心を寄せず、ノウィールをはじめ少ない人が危機を感じ取れたにすぎない。
「研究所に残っていた当時の記録を、集められるだけ集めてきました。当時のハイウェスラルは現在と比べ、人の数は10分の1もいなかったようです。そこに現れた主な竜種はルヴィリスイールが4頭、ディジャイールが2頭、レイダークが50頭以上。その他にも中型小型竜の群れが複数。大変な混乱の中で行われた古い記録ですので、信憑性については幾分疑問が残りますがね。それでも協会と王立研究所は、現在と遜色ない規模と人手があったはず。大きな間違いはないかと思われます」
「レイダークが50頭ですか……異常にもほどがありますね」
「普段は群れないレイダークでも、集団行動を見せた例はいくつかあります。が、さすがに50は異常ですね。ただどうでしょうか。今と当時では状況が違います。50頭と聞いて、ハイウェスラルの協会職員としてはどう思われましたか?」
「現在ハイウェスラルに在籍する狩竜人たちが総出でかかれば、他の竜がいたとしても充分に狩竜は可能です。まあ多少の被害は覚悟の上ですが……その程度でこの街が潰れるようなことはないと言い切れます」
「頼もしいかぎりです。狩竜人個々の強さは、年々向上していますからね。200年前には無理だったとしても、今なら対応できると私も思っています。またそれほどにこの街は、大きく発展したはずです」
「問題は東をどうするかですね。東といっても広い。無理に散って狩竜にあたらせることはできます。しかし結局はあいだを抜けられて北上されてしまうので、非効率的な狩竜になる。そして抜けた先で竜がたどり着くのはレズレンの東側。そうなると9年前の竜災どころでは済まない可能性もあるのでは?」
「難しいところです。どれくらいの規模と期間で竜が北上を続けるのか、正確に計算できるものではありませんので。ただレズレンの戦力補強は急務ですね。無駄になったらなったで、なにごともなかったと喜びましょう。幸い昨年度は西の大陸がどこも豊作だったようで、交易は随分と利が出たようで国庫も潤っています。狩竜人に移動してもらう資金は、国からも出させるように進言しておきます」
レズレンの狩竜人たちで対処できない事態が起きたら、あとはもうハイウェスラルに在籍する狩竜人に頼るしかない。しかしレズレンとハイウェスラルは遠い。どんなに健脚の狩竜人でも、半月以上はかかってしまう。事前に準備がなければ、とても対応できる距離ではなかった。
これからは徐々に竜が増えてくる季節。ハイウェスラルを危険に晒すわけにはいかないが、かといってレズレンを見捨てるわけにもいかない。いつ、どのくらいの長さで、どれくらいの数の竜が来るのか。それは誰にも分からない。
「分かりました。それでは早速手配を進めます。火山活動のことは、広く伝えたほうがいいですかね? 現状では不確かなことしか伝えられませんが」
「そうですね……不安を煽るだけにもなりかねませんが、伝えておいたほうがいいでしょう。いずれにせよ狩竜人全員には知っておいてもらう必要があります。ただ狩竜関係者以外を不安にさせるような言動は慎むようにと、それだけはお願いしたほうがいいでしょう」
「分かりました。確かに隠していい情報ではないですね。混乱を招くような不安が広がるのもまずいですが、危機感がないのも良くない。先生の意見を参考にさせていただきます」
「私も調査に向かいたいと考えています。明日から狩竜人を2、3名。できれば脚の速い人をお貸し願えますか? 20番区域の東まで行きたいと思います」
「2、3人ですか……それならちょうど良い連中がいますね。明日から先生に同行させましょう」
600年。そのあいだに幾度となく人は竜に追い立てられ、また盛り返して土地を奪い返す。北イリシアではその繰り返しだった。だが徐々に人の住める土地も増え、竜の脅威は減っている。そう多くの人が感じていた。
しかしそれは危険な考えだということを、チャビレットもノウィールも知っている。もし火山活動が200年前よりも活発で、より多くの竜が北上してきたらどうなるか分からない。あっという間に北イリシア全土が竜に飲み込まれておかしくないのだ。
チャビレットとノウィールは最善を尽くすべく、それぞれの仕事へと取りかかった。
「あの、ガイツさん。話ってなんでしょうか?」
エルは不安な表情を隠せなかった。話があると言ってきたガイツが、いつになく真剣な表情で言葉を選んでいるような雰囲気だったのだ。
「う、うむ。実はだな……ソフィアの不調には、お前も気づいているだろ? そのことだ」
エルは少しだけ表情を緩めてうなずいた。さすが頼りになるガイツは、ちゃんと見ていたのだと感心する。理由はもう分かったのだ。少し話すのは恥ずかしいが、ガイツにもきちんと理由を伝えたほうがいいとエルは考える。
「その理由について、俺なりに考えていたんだ。それでちょっと思いついたんだが、もしかして……その、なんだ。まさかとは思うんだが、ユニスさんと同じ理由とかだったりなんだり……そんなことはあるか?」
少し間が空き、エルはなぜ自分1人だけに話があると言われたのか理解した。そんな勘違いをしていたら、確かに女性には話しにくいはずだった。
「ち、違いますから! 全然そんなことはないです!」
「いや、しかしこういうのはだな。その、なんて言うんだ……気をつけてても、できるときはできるもんだぞ。もしかしたらソフィアも悩んでて、お前にすら言えてないだけとか……」
さすがガイツだった。仲間のためを思い、言いにくいことでもしっかりと伝える。それが的外れな心配だったとしても。
「いや、そうじゃなくて! 心当たりがまず……ないんです」
「え、あ、心当たりが……ないのか?」
「はい」
「1回も?」
「はい」
「そうか……」
「そうなんです……」
男2人のあいだを、気まずいなにかが流れていく。




