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端然としたその音が、入室窺いだと気付いてしばらく固まった。
同僚や上役なら音と同時に無造作に入って来るし、急患の場合も先触れなどない。
恐々やってきた訓練兵は、もっと弱々しい音をさせる。
―― コッ、コッ、コン
……新手の悪戯か?
ラッカムは留守だが……まあ、何とかなるだろう。
「開いている、入れ」
「失礼します…………あれ、キミは助手かな?薬師殿はどちらに?」
汚れの目立たない地味な薄茶の制服だが、まだ新しいから今年入所か。
それにしては礼儀正しく隙のない所作だが、出身に係わらず《武》の狼は一定期間各地の訓練所に割り振られる。
淡くつややかな金髪といい、真っ青な純色の双眸といい、ハールスの血統を体現する容姿は貴族に多い。
だから特におかしいというわけではないが、だらだら腕から血を垂らしながら平然と会話を続けるその神経は異常だ。
「座れ」
「……まだ答えを聞いてないけど――」
「――す・わ・れ!この白衣が目に入らないのか!?」
「ええと、こういう場所で働くなら制服は白だし、悪く取らないでほしいんだけど僕は女性とはあまり――」
ぐだぐだ言う患者まで走り、引っ張ってきて椅子に据える。
ラッカムも大柄だがこいつもまた首が痛くなるような背丈だ、本気で抵抗されればどうしようもなかったが戸惑いながらも素直に歩いてくれた。
しかし何なんだ、どいつもこいつもにょきにょきとっ!ちょっとこっちに分けてくれ!!
傷は左腕の肘下から手の平ほどで、まずは袖を捲り上げ肘の上に止血帯を締めた。
常備してある新鮮な水と水差しを取りにゆき、ついでに大きなたらいを若狼の位置まで蹴り飛ばす。
少々勢いがつきすぎたが、頑丈なブーツの底がきっちり受け止めてくれた。
「でかした、腕を出せ」
「あの…………?」
大穴の開いた服をさらに切り裂き、手早くめくり上げる。
指を拭い、左手で水さしを支えながら右手で患部をなぞり、固まりかけた血などを除く。
声の途絶えた部屋には、赤味がかった汚水がたらいに溜まる音。
重くて左手をぷるぷるさせていると、患者がすかさず無事な右手で支えてくれた。
「助かる。斬り傷か……見た目より浅いな、縫うほどでもない。気分はどうだ?」
「戸惑っていますが」
「違う、血の気が引かないか?吐き気は?」
「いいえ、少々痛みがあるだけです」
「少々?言うじゃないか。もう一度流しておこう、少し待て」
「もしかして貴女がアルテミシア女史ですか?眼鏡は噂通りだけど……そんなにひどい臭いは……?」
後半は呟くようだったが、聞き取れないほどではなかった。
落ち着き払った様子に何も知らないで来たかと思ったのだが、自分の知名度を過小評価していたようだ。
疑問の答えは、白衣型臭撃兵器をこんな所で着ていたら患者に迷惑だからだ。
今は療養者が誰もいないからあれも着られるが、一人でも抱えていたら移り香を考慮して慎むし、大っっ嫌いな青虫茶も飲む。
弱っている人間は、臭いにさえ大きな影響を受ける。
狼といえど患者は別物で、彼らは皆薬師たる私が保護すべき存在なのだ。
……ナドと口にして私の生ける女暗魔伝説を打ち砕いたりはしないがなっ!
「ふん、鼻が悪いんじゃないのか?」
平然と返して補充した水さしを構えると、そっと制した若狼が一人で傷口を流し始めた。
有難い、やはり両手で傷を開かないと内部の異物は確認しにくい。
「すみません、聞こえてしまいましたか。けれど、そんなことはありません。僕は女性の匂いが花統の区別なく全て苦手で、女性に近づくと例外なく涙とくしゃみと目や喉のかゆみが止まらなくなりまして。今日も内部見学とやらに若いお嬢さんが混じっていて風上から接近していらしたので、訓練中に集中が乱れ…………」
「ざっくり、か?難儀な体質だな。そら、この布で圧迫しながら心臓より上に……そう、そのまま。待ってろ、薬を取って来る」
再び空になった水さしを取りあげて薬棚に向かい、消毒薬や化膿どめ、包帯その他必要なものを籠に入れる。
自己申告では自覚症状はないようだが、狼は強がる生き物だ。
横目にちらりと様子を窺うと、彼もまた物言いたげにこちらを見ていた。
籠を手に歩み寄っても、据えられる強い眼差し……警戒だろうか?
「腕を。…………でたらめだな狼ってのは、何で血が止まりかけてるんだ?」
「錬氣の影響でしょうか?少し上達しましたから……と言っても花である先生には解り辛いでしょうが」
「いや、実例には事欠かないから色々学ばせてもらっている。何にしろ、治りが早いのはいいことだ」
「そうですか。ところで、消毒薬はいいのですが今手にしておられるどぎつい臭いの缶は一体何でしょう?」
「心配するな、単なる蟲の体液だ。正確には、南の森に生息する大蜘蛛の体内から取り出した糸になる前の粘液を――」
「――いえ、説明は結構です。出来ればクスリ自体お断りさせて下さい」
「却下だ。効能には定評がある」
「~~っっ塗りましたね!?」
「うるさい。すぐに乾いて臭いも薄れる、完全にとはいかないが」
「そうですか、助かります…………本当ですよね?」
「……くふふっ」
「止めて下さいっ!もう要りませんっ、疑いませんから!!」
無駄遣いできるほど安い薬でもない、無言でふたたび缶を閉めると若狼が深い息を吐いた。
膜状になった塗布部分は、伸縮性と防水性を残して縮み傷口を合わせる。
その上から包帯で厚めに巻いて固定し、止血帯を外せば直接の治療はしまいだ。
「包帯の具合はどうだ、きつくはないか?」
「いえ、快適です。ありがとうございました」
「礼を言うのは早いぞ。これはさっき水に溶いた化膿止めの薬だ。煎じたてより効能は落ちるが、さあ飲め」
「……どうしてこんなにどす黒いんでしょう?そして粒々浮いているのは……なんだかっ……」
「考えるな、飲め。深く訊くと後悔すると、君はついさっき学んだはずだ」
一瞬悲壮な顔で強張った若狼は、それ以上聞かず目を閉じてぐッといった。
つくづく素直でいい患者だ、近年稀に見る患者の中の患者だ、普通はもっとぐずるのに。
「~~っにっ……!」
「に?」
「苦味は想像以下でした……っ、しかし他はそれ以上!やはり粒々は動物のっ?何故に薬湯から生臭みが発生するのか僕には理解しがたいですが下手に香りだけよくてもこの味では堪え切れないものになるでしょう、吐き気が。舌の上で増殖するエグみと絡みあいきつく相乗してゆく予想外の甘みが頂点に達したとき青臭く炸裂する――っ!」
「――薬湯の感想など聞いてないっ黙って飲めヘタレ狼がっ!」
「へ、ヘタレではありませんっ」
「涙目で言われてもな」
「その、思うに、錬氣を欠かさなければ傷の治りは早いですから、化膿止めなどなくても良いのでは?」
「実例には事欠かないと言っただろう。教官を務めるほどの使い手でも化膿するときは化膿したんだ」
「…………っ」
「あ~~、もう少し薄めてやろうか?飲む量は応じて増えるが」
「大丈夫です!ヘタレではありませんからっ!!」
「そうか?」
ぼんやり見守っていると、何度かこちらに視線を寄越した若狼がやってくれた。
思いきり仰け反って、ごっ、ごっ、ごくりっと瞬く間に流し込んで見せたのだ。
「……見事だ。教官でさえ泣いて逃げる代物なのにな」
「ぐうっ~~っふ、うぅ……宜しければ逃げた方の名前を教えて下さい。後で自慢してきますから」
「それも面白いだろうが、むやみに治療内容を放言しては職を失う」
「そうですか……残念です」
「さ、診察は終了だ。痛みがある間は傷をなるだけ濡らさず、極力使うな。訓練なんてもっての外だからな?毎日傷口の様子を見て、腫れたり化膿したり、とにかく異常があればすぐに診せに来てくれ。これは痛み止めだ、狼にとっては五感がひどく鈍る薬らしいから使うときは注意するように。以上だが、何か質問はあるか?」
「一つだけ。先生は無花片ではありませんよね?しかも例のお茶も飲んでいらっしゃらない?」
訊きたいことは分かるが、その言い草だとまるで花であることまで疑われているようだ。
からかってやりたかったが、ひどく生真面目な顔をした若狼に合わせ頷く。
「例の体質とやらが出ないわけか?推測としては、一、原因は心因性のもので花の香りは関係ない。二、怪我に起因する体調不良で症状が沈静化している。三、偶然。四、君が自分の体質さえ操り私が花ではないと愚弄している、さあどれがいい?」
「三を推します。偶然……しかし神の定めたもう運命に偶然と必然の区別は必要でしょうか?」
「ツッコミは無しか……私としては可能性の高い順に挙げたんだが?」
「心因性でないことは証明できますが、そんなことはどうでもいい。貴女の存在は奇跡だ」
怪我の衝撃が遅れて到来だな、何を言っているのか段々理解できなくなってきた。
とか思っている間にも手を取られ、ささやかな防壁である汚水桶が蹴り退けられた。
若干濡れた床に膝を……って、おいおい何をやらかすのかこいつは、久々に見るぞ狼の拝跪姿なんぞ。
神聖騎士はよくやる格好だからそういうものかと思っていたが、自尊心の高いその他の狼は滅多と取らない姿勢だ。
「癒しの業を授けて下さり感謝しますアルテミシア、さん。貴女がここに居てくれて良かった」
「仕事だからな。それより何が原因になっているのか知らないが、えらく情緒不安定に見えるぞ。後で後悔する真似を仕出かさないうちに帰った方がいいんじゃないか?」
「心遣いは有難いのですが、正気ですのでお構いなく。ああ……こんなに小さな手が、数えきれない狼どもを優しく癒したのかと思うと、言い知れない気持ちになります」
「そういうものか?しかしいい加減っ、なぁ!?」
鋭い痛みが手の甲を抉り、反射で引こうとしても果たせない。
正気だと自己申告した狼が、感謝を述べたその口で掴んだ右手に喰い付いたからだ。
花よりも長い犬歯が埋まり、血がにじむかと思うほど。
「……恩を仇で返すのが君の流儀か?」
それでも痛がる様など絶対に見せない、下手に出るのもいけない。
狼が弱い者に敬意を払うことはなく、それは精神面でも同じだからだ。
こいつにも、誰にも、舐められるのはゴメンだ!
黙って耐えた数拍後、痛みが引いた。
「……すみません、痛かったでしょう?僕だけのものではないと思ったらもう、堪らなくて」
「意味が分からん。私の手は私のものだ」
二周りは大きい筋張った手に、比べれば生白い自分の小さな手の甲が埋まっている。
紅く捺された牙痕二つは何かの目印のようで、やけに落ち着かない気分にさせられた。
「ええ…………そうですね」
ゆっくりと視界を遮る髪の下、捕らわれた手には呼気がかする。
再びの痛みを思いたじろぐそれを、強い指が裏返す。
やがて感じたのは、汗ばんだな掌をぬるりと伝う生々しい、熱。
間もなく向けられた上目遣いに探る眼差しは見たこともない感情を宿していて……無性にラッカムの姿が見たくなった。
「……花の味とはどういうものだ?私の味はやはりおかしいのか?」
「いいえ、申し分なく美味ですとも。やはり貴女は“希花”なんですね、風変わりな香りなので自信が持てなかったのですが確信しました。重ね重ねの無礼、どうかお許しください」
「いいや許さん、帰れっ!!び、美味とか言うなっ!」
「そういえば、あなたの護衛はどこに居るんです?こう頻繁に姿を消してはとても務めを果たしているように思えませんが」
「買い出しや色々だ。問題ない、君のような変質者は滅多といないからな!」
「良かった、そう聞いて安心しました」
「嫌味も通じないのかっ!?」
「変質者が嫌味ごときで動じるとでも?あと、彼が希狼でないという噂は本当なんですか?」
「……………………」
「ああ、今すぐお答え下さらなくとも結構ですよ?また伺う機会を設けますから」
「ぐぅう……!本当だが、それがどうした?」
「それはそれは!良い情報を有難うございました。それではまた」
「……また?まただとっ!?質問には今答えただろう!」
「何を仰いますやら、僕は怪我人で貴女の患者ですよ?それでは今後とも末永く、よろしくお願い致します」
「断る!!」
「しかし、職務放棄も失職の理由にはなり得ますよ?」
にっこりと笑う顔は屈託のないものだが、この舌戦の巧みさはどうだ?
二十に満たない若狼ごときに手玉に取られた悔しさにはらわたは煮えくりかえっていた。
いっそ刺されと視線を投げてもイイ笑顔は揺らがない、なんて奴だ!
戸口で振り返った若狼は、柔らかな声で初めて名乗る。
「僕はコンラートといいます。どうか忘れないで下さいね?」
「フン、覚えるほどの付き合いにはならないことを願いたいな」
「それは無理ですよ、僕は希狼ですから」
「……だから何だ?」
一瞬目を細めたコンラートは、次いでふと大人びた微笑を浮かべた。
わけもなくムカっときたが、同じだけ嫌な予感も覚えたのだ。
「教会での教育をもう一度思い出された方がよろしいかと。僕が申し上げるのもおかしな話ですけれど、貴女に忠告する最初の狼だったことを嬉しく思います」
「まどろっこしい言い方はよせ。何なんだ?」
再びの問いに浮かんだ笑みは年相応、にっと悪戯っぽく牙を見せ姿を消す。
「…………無視かっっ!?」
とんだ見込み違いだった、もう優良患者の称号は剥奪だワルガキめ!