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トリスタン野狼、との呼び方に表わされるように、ラッカムはこの国で歓迎される存在ではない。
正確にはさまざまな部族の連合体を総称してのトリスタンであり、一概に敵対関係とは言えないのだが、ハールベリスに近い部族とは様々な事件と小競り合いが積もり積もって、非常に険悪なのが実情だ。
中でもラッカムの属していた部族とは過去に交戦状態にまで陥り、泥沼化しそうなところを彼らの流儀で一端だが片を付けた。
実力者同士の一騎討ちだったと聞いている。
ハールスの民以上に武勇を尊び、武人が絶大な権力を握るトリスタン。
その部族の将官を勤めていたラッカムは、確かに見るだけで伝わる覇気を宿している。
よく焼けた褐色の肌はしかし妬ましいほど滑らかで、生きた武器のような力強い骨格を丹念に浮かび上がらせる。
肌に次ぐ特徴の黒々とした髪は刈り上げるのが基本だそうだが、ハールベリスに留まるにつれ伸びて、今では後ろでちょろりと尻尾にのように束ねられ変な愛嬌をふりまいている。
またトリスタンの人々は宝石の瞳を持つともいわれるほど眼の色が多彩で、ハールス人に溢れる濃淡取り交ぜた青の中にあって、ラッカムの紫紺の双眸は印象深い。
その目に精気を満たして真っ直ぐに顔を上げ、実用的な服装とは裏腹に挑発的なトリスタン風の鮮やかな羽根や木製ビーズの装身具を欠かさず、両刃の大きな牙を携えて。
本来敵地であるハールベリスをそれはもう堂々と歩くのが、我が花守り殿だ。
ここまでなら特に問題ない、しかし内面に触れたなら。
彼の眼差しはいつでもゆったりと周りに注がれているものの、余裕の中に潜む隙の無さで他人を落ち着かなくさせる。
そして普段はのんびりと動く印象の強いほがらかな性質だけに、危機にさらりと現れる別物の本性が恐ろしいのだ。
気配を殺して忍び寄る技術や一撃必殺の瞬発力はまさに獣のもの、幾度か目にした戦闘で劣勢に立ったことはない。
何より凄味を感じるのは剣戟が響いても、血が流れても、薄笑いを消さない暴力に慣れ親しんだ様子だ。
武人だからといえばそれまでだが、常ならばとても気安く付き合いたい相手ではない。
……そんなラッカムもまあ、負けたわけだが。
先に挙げた戦の勝敗を担う一騎打ちの、トリスタン側の代表がラッカムだったのだ。
その自分を降した相手が貴族でも何でもない名もない騎士だったことは、今でも時々愚痴られる。
風の噂ではその後も功績を上げ続け男爵になったらしいが、言っても慰めにはならなかった。
現在でこそ話の種だが、当時は自信も地位も名誉も一瞬で失い、荒れに荒れていたのだ。
群れから見捨てられたラッカムは情報収集目的の捕虜としてハールス軍に捕えられ、強制的に治療を受けていた。
意識を取り戻した途端負った深手にも拘らず、周りの者に掴み掛かり、トリスタン語で罵りまくって。
鎮静薬をしこたま飲まされ、朦朧とするラッカムの看護に付いたのが当時薬師見習いの私だった。
ある目的のため僅かながら交易のあるトリスタンの部族の者から、習い覚えていたトリスタン語の知識が買われたのだ。
小さな呻きが殺してやる、から、いっそ殺せに変わるまでそうかからなかった。
祈りは天に通じたのだろう、ラッカムに友を奪われた狼が闇に紛れて侵入したのは、恨みつらみを語る為だけではなく。
私は、ラッカムを庇った。
それが職務だったから。
侵入した狼の怒りは当然こちらにも向いた。
『あいつは救わなかったくせにっ!!』そう言って、短剣を片手に飛びかかってきた。
逆上していても相手は兵士、私にかわせるわけがなく。
ラッカムの為に、血が流れ。
ラッカムの為の、血が流れ。
無力な花に、無関係な女に、身体を張って庇われてしまった誇り高い狼は。
護るべき群れももうなく、故郷さえ失ったと嘆く孤独な男は。
――少しだけ、歪まざるをえなかったのだと、思う。
当直の兵が騒ぎに気付いて駆け込んで来た時、私はラッカムに庇われていた。
動くはずのない身体を動かしたのは、満身創痍でなお侵入者に立ち向かったのは、彼の生存本能だけではなかったようだ。
自身の血にまみれた手で必死に私の傷を探り、異様な光を湛える両目からぼろぼろと涙を落とし。
二度と離れないようなきつい抱擁に、ぞっとしたのを覚えている。
きっとあの瞬間、行き場を失くした愛着や忠誠心が横滑りしたのだろう。
一時見失った絆や存在意義を留める拠り所として、“私”が刷り込まれたのだろう。
でなければ、誰が。
私のようなおかしな臭いの、花一人の隣にいる権利を仇敵に懇願し。
その誠意を図るという名目で、打算塗れの指令を突き付けられて。
正々堂々の果たし合いの末とはいえ。
一度は、長と慕った人物を手にかけるのか……っ!!
治りかけていた身体をまたぼろぼろにして、二度と外れないルルカ製の捕虜用首輪を誇らしげに襟から覗かせ。
腫れあがった顔を笑みのように歪めながら宿舎玄関に現われたラッカムに、私はついに言えなかった。
『狼なんか大嫌いだ』なんて。
以来数年の仲だが、ラッカムは花護はおろか花狼と比較しても遜色ないほどに献身的だ。
護衛としても有能で、訓練生とのいさかいの仲裁や教官連中との喧嘩代行、上官からの小言さえ連座で受けてくれる。
今だ軍属に反対する元花護からの、顔見せという名の監視をいなす手際など文句のつけようもない。
……大半の揉め事はこの性格が原因なので、自重しろとよく叱られるが。
おかしなものだ、“母なる女神”もまた、何をお考えになって私などに彼を与えられたのか?
あまりの実績に、半年足らずで狼という忌々しい括りから抜け“ラッカム”という別枠になってしまった。
なのに彼は、それ以上を望む。
私から見れば依存とも映るほどに彼を頼り、とにかく共に在ることを求めてくる。
だから答えは一つ、無理な話だ。
ラッカムの花統は“ナール”、ハールス風に言えば恋狼である。
希花の私の将来に、いつ誰に惹かれるとも分からない彼を組み込むわけにはいかない。
私が狼の特別になるなど、百年生きてもあり得ない。
だから。
ラッカムみたいなイイ男は、世のため人のためにも私のお守りなどさっさと辞めて、好いた花と結ばれてしまえばいいのだ。
不覚にも移ってしまった情と、努めて冷静な客観視。
なのに、織り交ぜた結果の対応は当人に『つれない』と大不評である。
なぜ友情では足りないのか……いや、もしやその友情が足りてないのか?
自分では随分打ち解けたと思っていたのに、人相のせいだろうか?
正直面倒臭くもなる、狼の考えることなどさっぱりだ。
『えぇいっ辛気臭い話はやめだ!!気が変わった、帰ろう』
『……俺の真心込めた口説きは全部無視で?すげぇよその心臓』
『いつものことだろう』
『そ…………帰ったら肩貸してくれ。素で同意しそうになった自分に傷付いた』
『肩?薬臭いぞ』
『そうでもない。言ってるだろ、アルの匂いは……あ~~、ほら……腹が減る?』
『意味が分からんが傷付いた。今度実験台になれ』
『ぬうっ、そこは愛だけじゃキビしいな』
以上、全て腕の中での会話だがきつい締めつけは緩んできた。
勢いを得て胸を小突くと、大げさにそこを摩りつつ離れていく。
あの真っ黒な眼を思い出すと見上げるのには気合いがいるが、探った瞳はいつもの色で。
知らず吐いた息を拾うように、ラッカムが右手で顎を掬ってきた。
『空元気も元気って言うけど、やせ我慢もやっぱり我慢だよな。無理してるのは自覚しろよ、今も、あの馬鹿に絡まれてた時も不自然なほど無表情だったぞ。怖いなら怖いって言え、狼ってのはオレも含めて花への影響に無頓着な奴が多い』
『そんなこと、言ってどうなる?』
『否定しないのはいい点で、記憶力の悪いのが難点だな。オレがいまーす、オレが護りまーす、ええいっ!しまいにゃ屋根から叫ぶぞこんにゃろ~~っ!!』
『ふっ……ははははっ!そ、それは勘弁だ。じゃあ今度困ったことがあったら呼ぶから、駆けつけてくれるか?』
『約束する。だから絶対に呼べ』
『……急に真顔は卑怯だぞ。呼べというなら呼ぶが、無闇な約束で自分を縛るのはどうかと思う』
『茶化すときじゃないぞ?』
『そう言わず左後方を見てみろ』
ちなみに廊下の端から迫り来るのは、怒り狂った様子ながら無音に近い熟練の身ごなしを見せる壮年の狼だ。
銀に染まった豊かな頭髪からひょっこりのぞく耳まで赤い時は要注意なのだが……見事な色だ、ちょっと逃げられそうにない。
怒気にぎらつく爛れたような眼、腫れた唇、折り目正しい軍服の白を痛々しく汚す土の跡。
転げ回るほど効いたのだろうか、不運な事故に遭った中にはヴォルフラム殿もいたようだ。
『呼んでいいかラッカム?』
『…………すまん、ムリだわ。これは無理』
「そこに直れ二人ともぉおおお、逃げられるとぉお~~っっうぉもうなよぉおおーーっっ!!」
肌さえびりびり震える大音声は、いつにもまして力強い。
ラッカムと二人顔を見合わせ、とりあえず従順にその場に座り込み逃亡放棄の意思を示した。
項垂れて嵐を待つ私達に出来るのは、説教終了の時間を賭けることぐらいだった。
……結局どちらの予想をも上回り、御破算となったが。
「――まあ、言いたりないが一応これまでとしておこう。原因となった訓練生二名も相応の処罰は下すが、かなり堪えていたようだ、報復じみた行動は起こさないだろう。ラッカム、お前も今後は薬師殿の面倒をきっちり見ろ。今回も最初からお前が付いていれば――っ!」
「――しょちょーどの、まつ。じかん、おそい。アル、はらへり。“花”、いじめる、ない」
「む……そうだな、健康管理は大事だ。不覚にも訊き忘れたが、怪我などないか薬師殿?実際に手を出したとなれば処分を考える手間などいらんが」
「ない。アル、けが、あたえる……ブチコロス、する」
「そこまではいかないが除籍する。国を守るべき者が仲間一人守れないでは話にならん」
「……ひとがいないかのように頭越しの会話をするのは止めて頂けませんかお二方?そしてヴォルフラム殿、益体もない行為はよして下さいと再三申し上げているでしょうに……っ!」
そびえ立つような大男二人に囲まれているだけでも威圧的なのに、うち一人は手が届く距離まで詰めてくる。
というか実際、手が届いている。
ごく軽めながら頭を撫でられている、なんだこの責め苦。
「ああ、これは失礼。日頃むさ苦しいものしか目にしないので、手が勝手に動いてしまうようだ」
「他人事ですか。そういえば先程のお鼻の詰まりがまだ続いていらっしゃるようで」
「いや?だがこの年になると嗅覚にも少々ガタが来る。噂の強烈な臭いもさほど気にならないな」
「…………手強い……っ」
実はこの強敵をも視野に入れ、今日の白衣には強化したばかりの香りを染ませたのに!
下手に地位のある狼だから、邪険に振り払うのも躊躇われる。
そして狡猾にも説教ついでにわしゃわしゃやられるので、逃げられないのがまた腹立たしい。
涙ぐましい苦肉の策を、見抜く狼の笑みは不敵だ。
「……それほど面白いですか……っ?」
「違うな、心洗われる時間なのだ。春雨に負けぬ柔らかな髪も、時折のぞく愛らしい丸耳も、清しく甘い声も、狼には持ち得ぬもの。過酷な訓練の合間に、貴重な休息を潰してでも逢いに行く若造どもの気持ちも分かるな」
「くどく、ない!!」
「ハ、これだからトリスタンは粗野だと言われるのだ。この程度の文句はたしなみよ、ルルカ狼に比べれば挨拶に等しい」
「「 ケっ!!」」
「お前たち……わたしは上官だぞ?」
呆れながらも普段は穏やかなヴォルフラム殿は咎めもせず、軽く手を挙げて去っていった。
退場を祝う腹の虫は、ここぞとばかりに大合唱だ。
『……最長記録だったな』
『ああ…………メシにしようぜ』
敵対しようと所詮は身内、カワイイのや食えないのに囲まれて過ごす日常は、多少の起伏はあれ平和だった。
施設の性質として怪我人は続出したが、軽い怪我ならなぜか皆舐めて治す勢いなので、救護室は安穏と営まれていた。
どんな敵より始末に負えない“味方”が登場するまでは。