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「……こんなこといっちゃまずいんだろうけど、なぁ……」
「うんうん、わかる。アルテミシアさんでしょ?」
「花ってカンジじゃねーよな、正直。ありゃ草の臭いだろ?俺達ついてないよなぁ」
「ん、あんなニオイのヒトもいるんだね。だれが選ぶんだろ?」
居室掃除が担当らしい仔狼たちの高い声は、廊下を歩いていた私たちによく聞こえた。
やわらかな室内履きのせいか中では友人と私に気づいた様子はなく、そのまま目を合わせてこっそり引きかえした。
……正直、またかと思っただけだけど。
狼は無条件に花が好きなんだと信じてたらしい友人は、涙目になるほど動揺してた。
大丈夫だと、笑う顔に変なところはなかった?
かぶり始めた仮面はまだ、もろくて。
こんな臭いには耐えられないと、面と向かって言ってきた鼻のいい仔狼。
緋紋に変わったばかりの頃、不安ながらも誇らしく思っていたら、いきなり抱き潰す勢いで襲ってきて『なんて個性的な香りだろうっ……君の将来が心配だよ~~っっ!!』と不吉な予言をしたニブい花護。
ひとが入室すればいぶかしげに振り向いて、笑顔で取り繕う騎士さんも、おどおどして目を合わせないちびたちも。
どいつもこいつもしゃらくさいわっ!気づかわれてる、その事実すら痛いのよっ!!
ちくしょーっ、オマエらの顔は一生忘れないんだからなっ!?心の底から呪ってやるっ!!
……持って生まれたものを、血に継がれる香りを、嫌われたってどうしようもないじゃない……っ。
私だって泣くだけ泣いた、そして悟ったのだ。
“希花”の個性にも限度がある、狼の鼻は自分の臭いを受け付けない。
旦那サマなんかほやほや待ってたって、裸足で逃げてくのがオチなんだったら。
絶対、ぜったい自立して、独りぼっちでも自由を謳歌してやるんだ!
――もうっ、狼なんか大っキラい!!
良くも悪くもこの思いは、その後の私を形成する核になった。
そうした事情で、今の私がいる。
生計を立てる手段としてはがむしゃらに薬学を収め、二年前に予定通り独り立ちを果たした。
肩書にして、軍属上級薬師。
軽い乱視を矯正する厚手の眼鏡の下には、不機嫌な目付きと眉間のしわを常駐させ。
移り香といいつつ実は焚き染めていたりする、強烈な薬草臭漂う白衣をはためかせて闊歩する要注意人物として知られている。
鼻のいい奴なら風上に立つだけで逃げていくこの装備はお気に入りなのだ。
それが狼達の顰め面を拝めるからか、自分の体臭を誤魔化せるからなのか、突き詰めたことはないけれど。
そして今日もくしゃみが響く。
「くっせ~なセンセ、出歩くなら着替えろよ!!」
「……まさに臭撃。身内に何してくれてんだ」
「アマデオにエリクだったか、また怪我か?消毒薬がもったいなくて泣けるだろう、早く受け身ぐらい覚えてくれ。それとも打ち身か?捻挫か?面倒だが仕方ない、この間改良した新しい薬を試してやる。くっくっく……皮膚が変色して、なかなかオツな匂いが染み付くがな」
「また実験体にする気かっ!?救護室なんて誰が行くかっ!むしろ魔窟だろうが!!」
「アンタが来てから変な噂が絶えないんだぜ?前任の老いぼれ薬師に一服持ったんじゃねえかって。いい機会だから聞かせてくれよ、どうなんだ?」
「ふん、下らない」
「だって、どう考えたっておかしいだろ?練兵所の専属が花狼も双属も持たない現役の花なんて。いくらちびで性格最悪でも……血の気の多い狼には格好のオモチャだ」
王国軍直轄の訓練施設とはいえ、集められているのは基礎教育を終え《武》に振り分けられて間もない若狼だ。
礼儀作法も騎士たる心得もからっきしの粗野な輩も多い。
花といえど立派に役職を得ている私は、まだ訓練兵にすぎない彼らより地位としては上なのだが、今年の奴らも全く理解しようとしない。
《武》に選ばれるだけあって大人顔負けに完成された体躯のエリクが、嗜虐と抑えきれない好奇心をあらわに近付いて来る。
悔しいが平均以下の背丈と、細身というにも平ぺたい身体しか持たない私では、威圧感を感じるなという方が無理だ。
それでも逃げるなど論外、思い切り首を逸らす私をにやにやと見下ろすエリク、この憎たらしさはどうだ?
まるで大人と子供に見えるのだろう、口のわりに心根の素直なアマデオは心配げな表情に変わる。
さあ、下手に庇われる前に片づけよう、不当な罪悪感に悩まされないように。
袖口を軽く振って取り出した球体は、両端のつまみでもってポンと開くと粉末にしたコショウ・トウガラシその他が飛散する。
……まあ悲惨、というわけだ。
もちろん風向きによってはこちらも無事ではないが、狼共の悶え具合といったらもう、ウットリしてしまう。
最新の護身具を実戦使用できる好機は、しかしあと一息のところで潰えてしまった。
風が、影が、目まぐるしく動き、鈍い打撃音とともにエリクの姿が消える。
同時に、視界を縦にも横にも塗り潰す大きな影が、私を庇い立ちはだかっていた。
「ちかづく、ない。おれ、いない、ねらう、コシヌケ。クソガキ」
「通訳がいるか?保護対象に接近し過ぎています、わたしの不在時にどういうつもりですか。ああ、彼はハールス語の罵倒は完璧に習得済みだからそこは省いた」
「アホっ何が訳だ!!しっかりしろよエリク、立てるか?っのトリスタン野狼、いきなり何しやがる!?」
「何が不思議だ?ラッカムは私の“花守り”だ。この距離まで見知らぬ狼が近付いたら、当然排除するだろう」
なんて言ってみるが、一般にそれは花護や双属の務めで“花守り”とはもっと権力のある後援者の意味だ。
金と権力にモノを言わせ、好みの花を保護の名目で囲ってウハウハする助平親父の意味も兼ねていたと思うが、偏見かもしれない。
それでも他国人、しかも私の花統である希狼でもない守り役の狼を他になんと呼んでいいか分からないから、とりあえずで“花守り”だ。
ラッカムが助平親父だと皮肉っているわけではない、念のため。
「っぐ!つぁ……アマデオ、俺の頭まだ付いてるか……?」
「ああ……一応な。中身が無事かは知らねえけど」
うっすらと目を開けたエリクは、驚いたことにそのままふらふらと立ち上がった。
熟練の騎士でも、ラッカムの不意打ちを喰らえば一撃でオチる。
トリスタン語に切り替えて探りを入れる。
『ラッカム、腕が鈍ってる』
『ひでぇ、加減したんだよっ。遠目じゃ絡まれてんのか口説かれてんのか分からなかったからな』
『どっちでも対処は同じなんだな』
『そうでもない。不満ならもう一発入れるか?』
『私はそんっっなに血に飢えて見えるか?』
『その台詞、そのまま返す。オレだってそこまで粗野じゃない』
共にうろんな視線がカチ合ったが、この程度の応酬は挨拶代わり。
花護とは一味違うが、その分遠慮もいらない相手だ。
「ナニくっちゃべってやがる!?医務なら診察するとかなんとかあんだろ!」
そう言われればエリクの焦点が全く定まらないが、ラッカムにとってこれは手加減の範疇なのだろうか?
だが問題ない、私が口説かれる予定は皆無なので近寄る野狼はみんな敵だ。
「何だ、診て欲しいのか?私に?この私に?いい度胸だ、なら救護室に来い」
「いいっ!!こんな……大したこと、ねぇ。行こうぜ」
どう見ても大した被害のエリクが、殊勝にも退いて見せた。
ふらつきながらも兵舎外周を水場の方へと歩いて行く、賢明だ、すぐに冷やせばそうみっともない顔にはならないだろう。
歴然とした力量の差に狼ならではの上下関係が働いたのか、予想以上に潔い撤退だった。
心配そうに肩を貸すアマデオも、物言いたげだが食い下がってはこなかった。
「――花に生まれるのだけは勘弁だな。狼の後ろに隠れるしか、能がねぇ……」
おや、どこかで負け犬が吠えている。
子供同士の喧嘩なら仲裁が野暮なこともあるが、花相手に対等の喧嘩をしているつもりだったか?
いいぞ、素敵に卑小でたわけた言いぐさだ、敵に回して不足はない。
嘲る雰囲気を酌んで苛ついた目をするラッカムを制し、所在なく手にしていた粉塵君・赤玉を構えた。
風向きよろし、視界の周りでたなびくほつれ毛は獲物の方向を指している。
「とんだ誤解だぞエリク?」
――ポン☆
執拗に挽いて挽いて挽き潰した香辛料の粉末は、軽やかに追い風に乗り牙を剥いた。
「ぎゃうっ!?っげは!ぐぅっ、痛ぇ辛ぇえええ~~!!」
「いっぐ、っきし!ひきしっ!!なっ!?げぇえ、げはっ!!」
『どうだラッカム、実験に協力した甲斐があるだろう?』
『頼むから思い出させないでくれっ!!』
遥か風上に逃げだしたラッカムを追う前に目をやると、汗と涙と涎と鼻水でキラめきながらこちらを睨む若狼達。
せっかくなので、表現しうる限りの邪悪さでニタリと嗤ってやった。
『やってる場合か!急げアルっ』
『どうして?もう追って来られる状態じゃ――』
再度促される前に理由が解った。
走り込み中なのだろう、建物の影から大量の足音がこちらに向かって来ているよーだ。
『まずいな…………んっ!」
『こんな時だけ可愛い真似を…………ったく!!』
大きく両手を広げて見せると、溜息を落としつつ戻ってきたラッカムに一気に担ぎあげられる。
過去の経験によれば、二人で逃げるよりこの方が早かったのだ。
そして、子供がだっこをねだるようなこの仕草を抜くと、ラッカムのやる気を削ぐのか若干速度が落ちる。
……どういう趣味だとは思うが、今は最速で逃げるべき時だ。
人一人抱えて全く危なげのないラッカムの俊足により、私達は犠牲者集団の目に触れる前に姿を消せた。
それでも容赦なく大量の罵声や喘ぎ、悲鳴に咳にくしゃみに嗚咽が追いかけてくるのだが。
『あー……事故が起こったようだ』
『他人事かよ。ったくとんでもないなお姫様、無茶やるのはオレの前だけにしてくれよ?』
『その呼び方は却下だ。……参った、なんとか正当防衛で片付かないかな?』
『まず無理だと思うが、挑むのは自由だな』
『ヴォルフラム殿が怒るな。間の悪い、たった五日前だぞ?説教を喰らったのは……』
『気にするな、いつものことだろう?』
「むう……っ」
確かに思慮は足りなかった、しかし不特定多数に向けての悪意もなかったのだ。
と、訓練所所長に言えばあの長ったらしいお説教は免れうるだろうか?
しかしエリク達が口を割らなくてもこういう大規模な事件が起きるたび、まっ先に私に苦情が来る習慣はいかがなものか。
まだ外れはないが、濡れ衣だったらどうしてくれるんだまったく。
『……とりあえず部屋に帰るぞ、足掻いたってなるようになるさ。連中も将来ああいう攻撃を受けるかもしれん、訓練でしたと言い張るのもいい。大体無力な花に狼が二人がかりだ、どんな手で切り抜けようとそれはアルの権利だ。二次的な事故だって元はあいつらのせいで、ヴォルフラムだって解ってくれる。一息つこうぜ』
飄々とした軽いノリが持ち味のラッカムだが、芯の部分ではこの国の花護にも負けない暑苦しい保護意識を持っている。
こちらのへこんだ様子にその辺りを刺激されたのだろう、口調からふざけた部分が抜け、足取りが早まった。
運命を司る月神の悪戯によって図らずも得た“花守り”だが、それでも私の悲願は完全な独立独歩だ。
こういった過剰な庇護は、癇にさわる。
『勝手に決めるのはやめろ。庶務に手紙を出しに行く途中だったんだ』
『急ぎならオレが届ける、戻るぞ』
『だから!』
『だって心配だろ?いつまでも抱かれたままなんて、普段じゃ考えられない』
痛いところを突かれたわけだが、惰性と便利さに乗じていた結果で別に怯えていたわけではない。
無言でぐいぐい身を捻ると、ゆっくりと腕が弛んで身体に沿わせたまま静かに滑り落とされた。
すぐに下がって距離を取り、背筋を伸ばして目一杯胸を反らせる。
『見たか、元気だ。納得したか?もう行くぞ』
『っとに、その頑固さで今に痛い目みるぞ。急にご機嫌斜めになったな?』
『必要以上に過保護にするな。ずっと言ってるし、何度だって言う』
『……大事な花が馬鹿にちょっかい掛けられて、追い払ったのがやり過ぎか?』
『突き詰めればあれもだ。自分で対処できたのは知ってるだろう、次は見守ってくれ。一人で出来る。一人でやる。花守りとはいえ――っ!』
『――調子に乗るなよアルテミシア』
ひどく、低い声だった。
すっと細まる目の中で、瞳の紫紺が闇色に沈む。
そんな表情を笑顔と勘違いするほど浅い付き合いでもなく、大きく後ずさるがラッカムの踏み込みは深すぎた。
あっという間に両手を取られ、頭上に掲げて一纏めに掴まれると、開いた片手が背に回り押し潰すように抱き竦めてくる。
白衣から立ち上る刺激臭も、いつも傍にいて耐性のある彼を退かせるまでの効果はなく。
『ほら、何が出来る?何が出来た?ご自慢の玉コロも、毒針も煙幕も痺れ撒きビシも、手が使えなきゃゴミだろうが』
『ラッカムは敵じゃないだろうっ!』
『ッハ、甘ったれるな。一歩街に出ただけで善人も悪人も入り混じってる。どうやって敵を見分けるんだ、世間知らずのお姫様?安全な所内でさえさっきみたいな目に遭う、今回は奴らの油断と風向きに助けられたが、二度目はないぞ。殺るか殺られるかで分けたら、あんたはどこまでいっても獲物の側だ。相手を殺す力も覚悟も無いんだからな』
指摘全てがもっともで、黙って唇を噛み締める。
やがてこの叱責一つが生死を分けるのかもしれないと思えば、神妙にならざるをえない。
平和と称される現在でも、花が一人で生きるのは並大抵のことではないのだ。
『花は花だ、狼のようには生きられない。そんなことも認められん馬鹿が意気がるな』
『でも諦めたら、どこにも行けない。そこで折れたらなんにも出来ない……っ!!』
『…………そんな顔するなよ。何の為にオレがいるんだ?何でそんなに独りに拘る?当たり前みたいにオレ抜きの未来を語るのはやめてくれ、殴られるより効くんだぞ?』
――だってあなたは、狼だ。
ほとほと根の深い感情を上手く説明するのは難しい。
それに捻くれた人間として完成した後で出会ったラッカムに、弱味を晒すのも恥ずかしかった。
しかし特異な経緯で私の花守りに納まった彼も、生半可な理由で納得するタマではないのだ。