「人魚と王子」(作:riki)
なんの因果か異世界で、そして人魚などというものに生まれ変わってしまった。
やっと長きにわたる稚魚生活を終え、青春をエンジョイしていた矢先のこと――第二の人生最大の不幸に見舞われた。
お綺麗なツラをした男が、わたしの《涙》を奪ったのだ。
海に引きずりこんでやろうかっ、あの泥棒カナヅチ王子っ!
ぜったいに取り返してやるからな!!
+++++++++++++++
すべての始まりは夏休みからだ。
友達に誘われた海水浴。テトラポッドを目指して泳いでいたら足に激痛が走った。
攣った。パニックに陥ってがむしゃらに腕を振り回すが手応えのない水を掻いただけで、ゴボリと吐き出した空気が泡となって水面へ向かい、無情にも身体は沈んでいく。
息ができない。苦しい。
助けて、誰か……!
暗闇に呑まれる寸前に思考をよぎったのは。
――もし生まれ変われるなら、溺死だけは二度とごめんだ。
強く願ったのを最後に、意識が途絶えた。
次に目が覚めたらタマゴの中にいた。
ぐるぐると狭い袋の中で身をよじっていたら、袋が破れてしまった。
おぎゃー。
期せずして生まれ落ち、息をしようとしたら水を吸い込んだ。悪夢がよみがえったが、すぐに苦しくないことに気づいた。足を動かしたつもりがフラフラとたよりなく体が横揺れする。
茫然としていると、ぼやけた視界にとてつもなく大きな影がかぶさった。本能的に逃げようとしたが捕まえられてしまった。
運ばれた先は緩やかな流れの海域で、小魚がたくさんいた。
なにがなんだかわからないまま数日を過ごし、現状を理解するにいたったのはお腹に抱えた栄養袋を全部吸収してプランクトンを食べるようになったときだった。
わたしは魚になっている。
……受け入れがたいが、手足もないし、水中で呼吸ができる。プランクトンが美味しい。
心当たりはひとつだけあった。
海で溺れたときに願ったこと。
たしかに二度と溺れはしないだろう。魚だから。
――魚だからっ!!
神様グッジョブなどと死んでもいうまい。
生まれ変わり? 漫画や小説じゃあるまいしハハハ、と夢オチを期待して寝直そうとしても、そもそも瞼がないから現実を見つめるしかなかった。
そして情報収集に励むうちに驚愕の事実を掴んだ。
ここへ運んできた大きな影は《人魚》だった。
わたしは人魚の子供らしい。にんぎょ……ちょっとまて、ここは日本か!?
ここで豆知識。
人魚は卵で生まれ、生まれたときはただの小魚だ。
へぇ~っ!
人魚の子供時代は弱肉強食で、大きな魚にパクッと食べられることも少なくない。
ほぅ~っ!
人魚は五年目にしてようやく成人し、半人半魚の姿になるのだよ。
……はいっ無駄知識! 明日から使えないっ使えないぞこんなものっ!!
異世界で人魚に転生なんてダブルファンタジー体験、わたしは望んでいなかった……。
人魚たちは半魚類ゆえか子育てに関心が薄く、基本放任主義だった。
孵化したばかりの稚魚たちは箱庭と呼ばれる海域に集められる。箱庭は体の小さな稚魚たちをさらう波もなく、餌のプランクトンも豊富だが、たまに天敵がくる。大きな魚が襲来し、抵抗もできない稚魚たちが次々と丸呑みにされる光景を何度目にしたか。
さすがにそういうときは三叉の鉾を手にした大人が駆けつけ、グッサリと捕食者をつらぬいた。
駆けつけるのが遅い! むしろ箱庭に近づけないでくれ! と訴えたところでキョトンと不思議そうにされるだけ。母性本能はどこいった!?
稚魚はうじゃうじゃ生まれるのに人魚の数が少ないのは、間違いなくネグレクトのせいだ。
弱者である稚魚は群れをつくって、個別に狙われる可能性を減らそうとした。ここで体色が違えば、「そうだ、目になろう」とかいえたんだが。
さすがに元の世界に戻ることは諦め、第二の魚生を受け入れていたわたしは苦節五年、ついにその日を迎えた。
生まれて五年目の夜、満月の下で稚魚は変態をとげる。
箱庭から泳ぎ出たわたしは人魚に連れられ月を目指して泳いだ。
海から顔を出すと清かな月光が降りそそぐ。キラキラと波間を踊る光に見とれていたら、背びれが痺れ、次いで激痛に襲われた。さばかれる魚の気持ちがわかる、腹に手を突っ込まれて内臓を掻き出されるような痛みだった。
頬につうっと涙がこぼれた。
あまりの痛みにしばらく気絶していたらしい。ゆさゆさと“肩”を揺さぶられて気づいた。
『おめでとう! 歓迎するよ、新しき我らの同胞』
――こうしてわたしは、《人魚》になった。
+++++++++++++++
変態をとげて一年。新しい魚生を歩み、いや泳ぎはじめて六年目を迎えた。
わたしは放任の大人にかわって箱庭のパトロールと、もうひとつ日課があった。
沖に出た船の後をつけることだ。
目的は海に落ちた人間を助けるため。すぐに仲間に助けられれば、それはそれでよし。溺れたならこっそり回収、水を吐かせたり心臓マッサージをして助けたあと、持ちものを拝借する。
介抱ドロというなかれ、人命救助の正当な報酬である。
それに溺れる人間の中にはむさ苦しいおっさんだってまじっている。いいや、船乗りの大半はおっさんで占められている。マウス・トゥ・マウスは極力避けたいが必要に迫られるときもあった。ああピュアな乙女心が張り裂けそうだ……!
そうまでしてなにが欲しいのかと問われると、文明の香りを味わいたいとしかいえない。
同胞から『人間趣味だ』と笑われるが、わたしは元人間だ。
魚と昆布に囲まれた海中生活は退屈なんだ! 腕輪に彫られた読めない字を眺め、履けないブーツを海底に並べたっていいじゃないか!
おっ、一艘港を離れたな。
ストーキングも見つかると、「嵐を呼ぶ気か魔物めぇぇぇっ!」「船は沈ませんぞぉぉぉっ!」と叫んで木片を投げつけられたりする。
わたしは船幽霊かっ! 今度「ひしゃくをよこせ~」とでも言ってやろうか、迷信深いおっさんどもめ。
プカリと海面から顔を出し、空を見上げた。
今は薄い雲だが、すぐに厚くなるだろう。
嵐を呼ぶのは人魚じゃない。沖には本物の魔物、大海蛇がいる。小型の釣り船なら尾びれの一撃で沈める巨体を持ち、海面に躍り上がって嵐を呼びおこすとんでもない魔物だ。人間は大海蛇から逃げるわたしたちの姿を誤解して、人魚が大海蛇を連れてくると思っているらしいが。
今日も奴が深海から上がってくる姿を見たと同胞が話していた。
まともな人魚なら岩陰で息を潜めて災厄が通りすぎるのを待っているものだが……。
――これから荒れるぞ。
届けようのない警告は波に呑まれて消えた。
擬似的な夜を引き連れ、嵐がやってきた。
沖から引き返してきた船は逃げ切れず、大海蛇がおこした嵐の餌食となっていた。大海蛇自体は人魚や人間を好んで食べるわけではないが、縄張り意識が強く、動くものを襲う。
土砂降りの暗い空を切り裂く雷光。ひっきりなしの雷鳴が世界の終わりを告げるようだ。
激しい風と高波。泡だつ波頭は木の葉のように船を押し上げ、波の底へと逆巻き落とす。もみくちゃに翻弄される船はなす術もない。
人魚のわたしもさすがにきつい。気を抜けば流され、船体に打ちつけられそうになる。溺れないといっても、人間と比べて身体自体は頑強ではない。ぶつかれば傷つくし、骨折や死んでしまうこともある。
距離をとりながら船を見守った。
なるべくなら人が溺れることなどないほうがいい。溺死体験者として、あの苦しさを味わってほしくない。某豪華客船映画のように、装飾品を海に投げ込んでくれれば喜んで拾いに行くのだが。
ひときわ大きな波が船を襲った。
雷鳴が一瞬照らしたのは、船縁から体勢を崩した人影。海中に没した音はすでに潜っていたわたしには聞こえなかった。
真っ白の泡が海面に逃げると対象が見えた。毎度のことながら落ちたのは男でがっかりした。
男は泳げないようだ。海中がもがく動作が水をかくものではなく、闇雲に手足を振り回しているので危なくて近づけない。溺れる人間は死に物狂いでしがみついて来るので、引っ掻かれたり蹴られたり首を絞められる可能性がある。
過去の痛い教訓から慎重にタイミングを見計らった。
女性ならドレスが絡まり力尽きるのも早いが、男は粘っていた。
もがく間に運よく船からも離れていく。万一船にどつかれたら男はお終いだ。ぐしゃりとイロイロ中身があふれ出ては、わたしも助けようがない。
動きが止まったところでそろりと近づき、沈みゆく首根っこをひっつかまえて全速力で海面へ向かった。
港までは持たないと判断し、急ぎ岩場へ泳ぎ着いた。
大柄な男を苦労して岩棚に引き上げたが、息をしていない。背に腹はかえられず、わたしはすうっと大きく息を吸いこみ男の口に吹きこんだ。一回目でゴボッと水を吐き出し、咳込むように呼吸を始めた。
ほっと胸を撫でおろし、ようやく男の全身に目をやる余裕ができた。
……これはまた、けっこうな拾いものだ。
過去に助けた中でも群を抜く身形の良さだった。
衣服を緩めるという建前のもと、金持ちの匂いがぷんぷんする男を物色する。
濃い赤の上着には金のライン、縁をかがる刺繍はどれだけ時間を費やしたのか見当もつかない。宝石が象嵌されているボタンもすべて黄金。裾の方なら二、三個もらってもいい気がしてきた。泳ぐのに邪魔にならない手頃なサイズが素敵だ。遠慮なくむしり取ろうとしたが、しっかり縫いつけてあって取れなかった。ボタンを外して服を脱がそうと試みるが複雑怪奇な仕立てに手こずり、いたずらに胸元を肌蹴ただけで挫折した。
くそう、黄金の鋲が打たれたブーツにするか……。待てよ、腰の剣も捨てがたい。鞘にラインストーンのようにふんだんに使われている宝石、きっとこの男は世にいうお貴族様だな。
とりあえず手元に確保し、どちらにしようか選びあぐねていると、青白い顔をした男が呻きながら目を開けた。
緑がかった明るい青。どこか郷愁を誘うシアンの瞳。
――あぁ。わたしの育った海、箱庭の入り江の色だ。
紫色の唇を震わせ、いや全身を震わせながら男はゆっくりと上体を起した。
顔に張りついた金髪を掻きあげた男は、よく見ればむさ苦しさとは対極の容貌をしていた。歳は二十代前半だろうか。形のよい眉、すっと通った鼻梁。長い睫を伏せがちにしていると佳人めいた愁いが漂う。
望洋としていた瞳がわたしを認めて瞬いた。
「ここは……? そうか、僕は海に落ちて……。君は?」
海水にやられたのだろう、かすれた声が問うた。
よし、もう一回気絶させよう。
意識があるとささやかなお礼の品を頂く際に抵抗されるのだ。命の恩人にちょっとばかり融通したっていいと思うのだが、人魚と知ると血相を変えて逃げ出そうとするか、そうでなければ襲いかかってくるから人間とは困りものだ。
いつもは助けた相手が目覚める前にブツだけ頂いてトンズラするのだが、お宝に足がはえて溺れたような男の物色に思わぬ時間を食ってしまったようだ。
持ち去り候補その三(キラキラ☆剣)を、鞘ごと振り上げる。
――さあ眠れ。
「……何をするんだい?」
男は呆気なく受け止め、握った剣を捻った。つられてわたしの手首がありえない方向に曲がりかけ、慌てて剣を手放す。さらばわたしのエクスカリバー。
お互い見つめ合った。
……この男は手強そうだ。
三十六計逃げるに如かず。こういったときのために砂浜ではなく、すぐ逃げられる岩場を選んである。人魚ならボッチャンと海に潜れるが、人間が追ってこようとすれば尖った岩と打ち寄せる波に追跡をはばまれる場所。
わたしはジリ、と尾びれをずらした。
岩と擦れる鱗の音に男が視線を下げた。切れ長の目がわずかに瞠られる。
人魚の尾びれの色は世代で決まる。同年代はみんな朱金で珍しくもないが、人間には新鮮なんだろうか? それともわたしが人魚だと今ごろ気づいたのか?
視線は尾びれから這い上がり――って、どこをまじまじ見てるんだっ!!
持ち去り候補その二(黄金鋲☆靴)はリーチの差を埋め、あやまたず男の横面にヒットした。まさかブーツで殴られるとは思っていなかったらしく、男は頬を押さえてうつむいた。
わたしは急いで長い髪を身体の前にやり、胸を隠すように垂らした。
人魚なら避けて通れない道、わたしは上半身裸だった。
同胞は誰ひとり気にしていないが、純真な十六(享年)の乙女として胸丸出しはいただけない。
下半身も裸だが、そこは魚だからいいんだ。
以前助けた人間から上着を手に入れて着てみたこともある。
結論として、人魚に服はいらない、だった。
第一に泳ぎにくいし、肋骨辺りにエラがあるから服が呼吸の邪魔をする。前世で溺れたせいか息苦しいのはトラウマになってしまったから却下。
定番の貝殻ブラ? 当然試したとも。
あれは絵面と実用性が反するものだった。乳首が硬い貝と擦れて却下。
なら昆布にすればいいじゃないか? それも試したとも。
ヌルンとした肌触りが超絶気持ち悪いから却下。
結局胸を隠すものは自前の髪だけになった。
男の肩が震えている。
ふんっ。顔に傷でもついたってショックを受けてるんじゃあるまいな? 自業自得だエロ貴族め、とさらに後退すると男が顔を上げた。
……笑っていたのか?
名残をとどめた唇が吊りあがる。不穏な気配に一瞬気を取られたところで、開けた距離をつめられた。
雨の滴る男の顔がすぐ目の前に迫った。逃げようとしてもいつの間にか腰に腕が回されており、引き寄せられてますます接触してしまう。
人魚は人間よりも体温が低い。胸元に抱き込まれ、触れ合う男の肌が熱かった。
シアンの目が心の奥底をさらうように覗き込んできた。
「噂は本当だったんだ。僕は幸運だね」
噂ってなんだ?
伸びてきた手にぞくりとし、ドン!と男の胸を押して身を離した。
ぷつんと首元で何かが切れる音がしたが、かまってはいられない。わたしは警鐘を鳴らす本能に従って岩の端に寄った。
察した男が「逃げるの?」と声をかけてきたが、無視して海に飛び込む。
ザブリと深く潜り、しばらく海中に留まる。
蘇生処置以外に人間と接触したことはない。触れ合った箇所が火傷したようにチリチリと疼く。冷たい海水に潜っていてもまだ熱い腕が巻きついているような気がした。
男が追ってこないことを確認して、岩棚から五メートルほど離れたところに顔を出した。
予想した通り、男は岩棚から身を乗り出すようにして海面を見下ろしていた。
「……行ってしまったのかと思った」
その表情の意味がわからない。
不安そうな顔がわたしを見つけて笑顔にかわるのはなぜだろう? 忌むべき海の魔物を嬉しげに見つめる人間などこれまでいなかった。
「僕を助けてくれたのは君だね。ありがとう」
この場にはわたししかいないが、消去法の推測にしてはいやに断定的だ。
船乗りの間では人魚は嵐を呼び船を沈ませる魔物だと恐れられている。実際沈めるのは大海蛇だが、迷信深い彼らはわたしが人魚だと知ると怯えて逃げ出すのが常だった。
これまで助けた人間に感謝された憶えはない。いつもははっきりと意識を取り戻す前に逃げ出すし、運悪く見られても逆にわたしが溺れさせたと思われていた。
男は恐れる様子もなく、礼さえいってみせた。
……こいつ、おかしくないか?
反応のないわたしに首を傾げ、男はシャランと鎖を鳴らしてあるものをかかげた。
「これ、君のものだろう?」
――わたしの《涙》!!
稚魚から変態をとげるとき、生まれかわる痛みと喜びに人魚は一滴の涙を零す。
一滴の涙は真珠と凝り、その真珠を持つ者に人魚は一生身を捧ぐ。
男の持つ鎖の先、雨を滴らせながら虹色に輝く大粒の真珠はわたしの《涙》だった。
あわてて探った胸に親しんだ存在はなく、思い出すのは痴漢男を突き飛ばした時に首元で聞こえた音。
あれは鎖が切れた音だったのだ。
仕方なく岩棚まで泳ぎ寄り、男に向かって手を伸ばす。
「……かえせ」
「よかった。君は人の言葉がわからないのかと思っていた」
海中で暮らす人魚の会話に声は必要ないが、趣味で覚えた人間語は聞きかじりながら努力の甲斐あって、日常会話ならこなせる自信があった。
「投げる。海、おちる。わたしひろう」
わたしの投球ジェスチャーに一瞬腕を上げかけた男は、しかし思い直したように鎖を強く握り込んだ。
あのまま投げるか、ただ落としてくれてもよかったのだが。
「これを返したら……」
もう会えなくなる気がする、と男が呟いた。
当然じゃないか。何をいっているんだ?
命を助けたといってもしょせんは人魚と人間。わたしが一方的に助け、一方的にお礼の品を強奪していく関係だ。言葉を交わすことなど二度とないだろう。
「はやく、投げる」
「受け取ったら君はすぐにでも海に戻ってしまいそうだ」
岩棚に放置していくと思っているのか? 助けた意味がなくなるじゃないか。わたしはそこまで冷たくないぞ。
「心配、ない。かえせば、船よぶ。助ける、やくそーく」
「助けなら……もう見えているよ」
男のいう通りだった。
嵐は去った。仄明るくなった空の向こうに、沈没をまぬがれた船の姿があった。
男は立ち上がって大きく手を振る。しばらくして応えるように甲板で手旗が振られた。
取引に使うはずだった手を失い、わたしは唇を噛んで男を睨めつけた。
岩棚の上と、下の海。高さにして三メートルほど距離がある。岩礁じゃなかったら勢いをつけて華麗なイルカジャンプで《涙》をもぎ取ることもできるのに。
「――決めた。これはまだ渡せない」
「それ、わたしの! おまえ、恩、しらない!!」
「返さないとはいっていないだろう? 君は命の恩人だ。心から感謝している」
「ならかえせ!」
「返すのは次に逢うときにしよう。僕の名前はデニス。港から見える一番高い建物に住んでいる。待っているから、必ず逢いにきて」
「ふざけるなっ」
「大真面目だよ。もう一度君に逢いたいんだ」
憤りに震えるわたしに対し、男はしれっとした顔で微笑んだ。
それ以後わたしがいくら罵っても男は《涙》を返そうとしなかった。
時間切れだ。船がきた。
岩陰に身を隠して様子を窺っていると、迎えの小船に乗った男は船へ戻って行った。上着の胸ポケットから鎖の端を覗かせているのはわざとなんだろう、鬼畜め。
舵をきった船がゆっくりと港を目指す。
今こそ嵐を呼べたならっ……!!
ギリギリとワカメを噛みしめて船を見送ったあと、わたしは岩棚にのぼった。
岩のくぼみに黄金の輝きがあった。
最後に男が「これを見せれば通れるようにしておくから」とか呟いていたのは、このカフスボタンのことか?
一センチちょっとのボタンには、翼ある獅子が彫り込まれていた。
+++++++++++++++
同胞の反応は二通りだった。
――人間趣味が高じてつがいも人間にしたのか? 物好きだな、行ってこい。
――人間に《涙》を取られてしまったの? 可哀相~! でもしょうがないわよね、元気でね!
つまり嫁いでこい、というものだった……。
ご祝儀のアワビをヤケ食いし、わたしが重い腰を上げて向かったのは魔女の棲み家だった。
話はとうに耳に入っていたらしく、魔女は呆れた顔で出迎えた。
『人間の男に《涙》をやったらしいじゃないか?』
『あげたんじゃない。取られたんだ』
『……人間にかかわるのはおやめといったのに。わしの忠告を聞かないからだよ』
人魚を「海の魔物」と恐れてくる人間と、好んでかかわろうとする同胞は少ない。
人間に興味を示すわたしの異質さにいち早く気づいたのが魔女だった。
群れの長老と呼ばれる彼女の慧眼に下手な誤魔化しは通用せず、前世が人間だったことを白状することになった。しかし大らかな性格の魔女は群れから排斥することもなく、それ以後なにかとわたしを気にかけてくれる母のような存在だった。
男とのやりとりを話すと、魔女はフンと鼻を鳴らして尋ねた。
『で、その人間から《涙》を取り戻しに行くというのかい?』
『話が早い。あなたは人間になれる薬を持っていると聞いた。ひとつわけてくれないか』
人魚は物を作るということがない。家も服も必要とせず、せいぜい三叉の鉾や《涙》を下げる鎖を欲しがるくらいだ。
人魚が作ることのできないそれらの品は、真珠やサンゴと引き換えに一部の商人から入手していた。
人間と取引するには人間の姿の方が都合が良い。商人と取引するとき、人魚は人間に化ける。
そこで頼るのが薬から毒までなんでも調合する魔女の秘薬だった。
『あるにはあるさ……だけどね、人間になったところで何ができると思ってるんだい? 陸に上がった魚だよ。満足に歩けやしない、喋れもしない。すぐに尻尾を出して見せ物小屋に売られちまうのがオチさ』
『《涙》を取られたまま、ここで暮らすことはできないだろう』
物に執着しない人魚だが、例外なく大切にするものがひとつだけある。
変態のときに流す一滴の涙が凝った真珠、人魚の《涙》。
人間にとっては単なる大粒の真珠でも、人魚にとっては自分と繋がる宝物だ。
独り身ならば自分が持ち、つがいができればお互い《涙》を交換して肌身離さず身につける。もし相手がかわれば一度返して新たに交換するのだ。
《涙》を持たない人魚は、不慮の事故でなくしたか、捧げた相手に捨てられた場合。どちらにしても同胞から避けられ、つがいの相手に選ばれることはまずない。
わたしの《涙》はあの男の手元だ。
取り返さないとこの先誰ともつがうことができないばかりか、一生“捨てられた女”と不名誉なレッテルが貼られてしまう。
『レーテス海に行ってはどうだい? あそこなら噂も届くまいよ』
『内海の者は排他的だといったのはあなたじゃないか』
長命の魔女は物知りで、この世界のことは彼女から教わった。
わたしの暮らす海は《西の大海》と呼ばれている。時々火を噴く龍が寝そべる上にできたという陸地、伏龍大陸ガルダーシュ。その前に広がる海がシャインリアだ。
魔女のいうレーテス海とは、お隣のテルミア大陸が抱く内海のことだ。
かつてはレーテス海にも多くの人魚がいたが、沿岸四国の交易が盛んになるにつれ、人間を嫌ってほとんどがシャインリアに移った。わずかにレーテス海に残った者たちは、「人間ごときで逃げ出した臆病者」と外洋からやってくる同胞を蔑んでいるらしい。そんな中に入りたいとも思わないし、わたしは生まれ育ったこの海が気に入っている。
『大丈夫。ちょっと行って、ぱぱっと取り返してくるだけだ』
『簡単そうにいうがね、どうせ無謀だといっても聞く耳をもたないんだろう? ……わかったよ。不安は残るがおまえさんに《人化の秘薬》をさずけよう』
魔女はどこからか取り出した小瓶をかかげた。ガラスの器に透ける中身は、ねっとりと揺れる緑の液体。じっと見ていると加熱されてもいないのにコポリと泡が立った。
『それが秘薬? ……飲み薬、というか飲めるのか?』
『味は死にそうに不味いことを保証するよ。鼻をつまんで飲むんだね』
ありがたくない保証をした魔女はいくつか秘薬の注意事項を説明し、「餞別に」と人間の硬貨をくれた。わたしも金目の物はたんまり持っているからと断ると、『どうやって換金するんだい? 盗んだと思われて吊るし首が関の山さ』とバッサリきられた。正しく盗品なのでぐうの音も出ない。
別れ際に見せたカフスボタンに、『おやまあ……おまえさん結構な大物の心臓を貫いたんじゃないのかい?』と魔女は意味深に笑った。
狩りなら失敗だろう、獲物(男)に逃げられたのだから。
人影がないことを確認して砂浜に這い上がったわたしは《人化の秘薬》をあおった。
蜂蜜のように小瓶から垂れ落ちたゲテモノは、鼻をつまんでも悶死しそうに不味かった。
……そこは誇張であってほしかった、魔女様。
死にそうじゃなくて、死ねる。喉にへばりつく物体エックスをどうにか流し込もうと波打ち際にUターン。海水をがぶ飲みし、再び浜に戻ってゴロリと寝転がった。
吐き気を我慢して待つこと十数分。
太陽の光がふりそそぎ、尾びれの鱗がぺリぺリ乾燥して端が浮きはじめる。海に戻らなかったら人魚の日干しになってしまうが、ここで秘薬が効果を現した。
尾びれが左右に裂ける光景はかなりグロテスクで、猛烈に痛かった。ミシミシぶちぶち骨がわかれ組織が引きちぎられる痛みに決心が鈍り、あと一メートルで海に戻れるところまで砂浜をクロールしてしまったが、唐突に痛みが消えた。
おそるおそる手をすべらせると腰にひれはなく、鱗のつるりとした感触もなかった。
六年ぶりの脚だっ……!!
歓喜に打ち震えてあげた声が――出ない。
はふはふ息を切らして試み、魔女の説明を思い出した。
エラ呼吸から肺呼吸にかわった代償に、人魚は声を失う。童話の人魚姫のようだ。
わたしはとりあえず素っ裸な現状をどうにかすべく、海から持参した服を絞った。この服は助けた人間から一方的なお礼の品として剥ぎ取ったものだが、溺れるおっさん率の高さからすべてが男物だ。
濡れた服の着辛いことといったら……。四苦八苦しながら身につけ、下着の不備には目を瞑った。乙女としてふんどしシェアよりノーパンを選ぶ。
ポケットに硬貨を入れ、さて、と立ち上がろうとしてすっ転んだ。
……立ち方を忘れていた。
それから全身砂まみれで五十メートルほど浜辺をのたうち、元人間のプライドをかけて生まれたての仔馬ぐらいには歩けるようになった。
魔女が「満足に歩けない」といったのは、生まれつきの人魚は“歩く”感覚を知らないから、コツをつかむのに時間がかかるに違いないことをさしていったんだろう。
さて、と仕切り直して港の方角を見やる。
港から、いやこの砂浜からも見える一番高い建物は、にょっきりと街を見下ろす尖塔だった。
天辺で潮風にひるがえる旗はカフスボタンと同じファンタジー生物、翼ある獅子がマストに降り立つ意匠――海洋国家シュトラントの国旗。
その昔、テルミアからシャインリアに漕ぎ出した冒険者たちをガルダーシュへ導いたのは聖獣リオノスだったという。ミア神の使いがマストへ降り立つと海神メーアディンがその意に従い嵐をおさめ、ガルダーシュへ波の手を用いて船を運んだと伝えられている。
ゆえにシュトラントは国旗に伝説の一場面を描き、王族は聖獣に祝福された存在とうたい、リオノスを王族の衣装に取り入れているそうだ。
普段から身につけるカフスボタンだなんて、王家に連なる者だと主張しているも同然。
向かうは王城か。
わたしは決意も新たに一歩踏み出し……何度目かの砂の味を噛みしめた。ペッペッ!
港町の喧騒は挙動の怪しい人間ひとりをあっさりのみこんでしまった。
しばし通行人を眺めてリサーチ、露天商で女物の古着と靴を買ったときは緊張したが、硬貨の砂を払って矯めつ眇めつした主は「まいどあり!」と笑顔で品物を渡してくれた。
店の奥をかりて着替えた後は大手をふって通りを歩いた。行き交う人々は金、銀髪など薄い髪色とグリーン系統の瞳で、銀髪のわたしもそれほど目立っていないようだ。
王城への道すがら、聞き捨てならない噂が飛び込んできた。
道端で声高に喋っているのは少女二人。
落とし物を探すふりで立ち止まり、耳をそばだてる。
「聞いたー? 第三王子の話っ!」
「聞いた聞いた! なんでも老女趣味だったんでしょ!? 街におりてきては白髪のおばあさんに片っ端から声かけて回ってるそうじゃない! 変人とは聞いてたけど、ホンモノだったのねぇ~。顔が良いだけに残念だわ」
「それ男連中が面白がって流してる方の噂でしょ! 実は銀髪か灰色の髪の娘に声かけて回ってるそうよ? ま、中にはまちがっておばあさんもまじってたそうだけど! 私の友達も銀髪で声かけられたっていってたから。王子、誰か探してるみたいよ」
「えぇ~王子が自分で人探しぃ? 相手をお城に呼び寄せればすむんじゃないの?」
「きっと事情があるんだわ。名前も知らない相手に一目惚れしちゃったとか、身分の差があるとか~!!」
「きゃあっ! 本当ならすごいじゃない! 私も銀髪にしてお城へ行ってみようかしら!?」
「そういう娘、今すごく多いらしいわよ。でも髪の色は王子の記憶違いで、お探しの相手は私って可能性もあるわけだし!」
「ありえ……なくはないわよね! 第三王子って王位継承権を返上した変わり者だけど、それでもお貴族様ではあるのよね。貴族の妻、玉の輿っていいかも~!」
「下町で暮らす可憐な娘を見初め……いやんっ、私のことだったらどうしよう~!!」
わたしは夢があふれるガールズトークに肩を落とした。
カフスボタンに使われていた意匠。男の乗っていた船は漁船や商船と違ってえらく華美だと思っていたが、《涙》を奪った泥棒は王子確定だった……。
住んでいるといっても、お城には住み込みの使用人だっているはずだ。その線を捨てたくなかったが、第三王子が銀髪の娘を探しているなら間違いないだろう。
わたしは大事になりそうな予感に戦きつつ、とぼとぼと城への道を進んだ。
王城の門番はわたしを見ると「またきた……」とぼやき、うんざりした顔で溜息をついた。
ちょっとまて、わたしは玉の輿を狙う女子じゃないぞっ、この髪も地毛だ!
ぱくぱく口を動かして抗議すると「なんだ? おまえ喋れないのか?」といっそう面倒臭そうにいわれた。
「王子はたしかに銀髪の娘をお探しだが、浮ついた動機なら帰った方がいいぞ」
槍の穂先が門の外を指して、しっしっと手を振られた。
好きできたんじゃない。わたしはムッとしながらカフスボタンを取り出した。受け取った門番は驚いた顔で詰所へ走って行った。印籠か。格さんになった気分だな。
一転丁寧な対応で詰所へ案内されたわたしの前に、件の泥棒が現れた。
「来てくれてありがとう。また君に逢いに海へ行こうと思っていたところ、……」
笑みを浮かべていた顔が真顔になり、興味深そうに目を細める視線の先は。
だからまじまじ見るなというに……!
サンダルで黄金鋲のブーツを蹴飛ばすと、スカートからのぞく脚を見つめていた痴漢は、「綺麗な脚だから、つい」とセクハラ発言をかました。
ジットリ睨め上げ、掌を差し出す。
ほら、返せ。いま返せ。速やかに返却しろ、わたしの《涙》を。
「君のためにお茶を用意してるんだ。こっちだよ」
あろうことか王子はこちらの手を取り、城の中に向かって歩き出した。
~~何でそうなるんだ!? まるでわたしがエスコートを求めたようじゃないか!
振り払おうとした手をぎゅっと握り、「ここには持ってきていないんだ」と耳元で囁いた悪辣王子とわたしの姿が周囲からどう見えていたか、後で知ることになる。
怒りで赤くなった顔を照れていただなんてデマ、誰が流したんだ……!!
ふんぞり返るわたしの前に湯気の立つカップが置かれた。
使用人を下がらせた王子は慣れた手つきで紅茶を淹れ、お茶受けをすすめてくる。
海中生活ではぜったいにお目にかかれない焼き菓子! さっくりほろほろ、口の中でほどけるサブレはふわりとバターのいい匂いがした。夢中で食べていると王子が自分の分を押しやってきた。
……ふんっ。餌付けできると思うなよ、これは迷惑料だからな。
二皿平らげ満足して唇を舐めていると、「魚か貝じゃないと食べてくれないかと思ったけど、口に合ったみたいでよかった」と笑うシアンの瞳。
人魚のときなら魚介類一択だ。人間になってお菓子が味わえたことだけはこの王子に感謝してもいいかもしれない。
わたしが飲み食いする様をニコニコ眺めていた王子に改めて掌を差し出す。
サブレは美味しかったし、紅茶も堪能した。
さ、《涙》を返してもらおうか?
「握手?」
違う!
すっとぼけた王子の指をギリギリ握り締める。痛そうにすればまだ可愛げもあるものを、非力が口惜しい。反対に手を握り返されそうになり、慌ててブンッと振り払った。
友好関係を築きにきたんじゃない。《涙》を返さないか、早く!
「僕が嫌いだから喋らないんじゃなくて……もしかして、喋れないの?」
そうだ。わたしが罵らないのも、何度も手を出すのがエスコートや握手を求めるものではないのも、声が出ないからにつきる。こくりと頷くと、考えこんだ王子は神妙な表情で問いを重ねた。
「海では喋っていたよね? それは今の姿が関係あるのかな? 僕のせい?」
その通り。わたしは再び重々しく頷いた。
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※某企画に参加したかったお話でした。