第二話
仕事に没頭していたマティアスの耳に突然大きな鐘の音がきこえてきた。
毎日午後二時半に鳴る広場の鐘だろう。
この王宮には広場があり、そこにはかなり古いものではあるが、それでも美しい音を奏でる鐘があるのだ。
ここの国の人たちには午後二時半になると仕事や勉強、遊びをいったん中止して休憩をとる習慣がある。それを知らせるための鐘である。
ほかの同僚や先輩方が休憩をとろうと思い思いに動き出した。
そのせいかさっきまで静かだった室内が騒がしい。マティアスも休憩のため持っていたペンを置いて席を立った。
王宮の庭には色とりどりの花が植えられている。
毎日庭師たちが手入れをおこなっているおかげで、王宮の隠れた人気スポットである。なぜ“隠れた”なのか。それは王宮の入り口から少し離れているので、人目につきにくいからだ。
なので、ここを訪れる人間は限られる。そのためマティアスのお気に入りの場所でもある。
いつものように庭を散歩していると、花たちのなかから突如小さい人影が飛び出してきた。
「うわっ、なんだ!?」
とっさのことにマティアスは避けきれず、その人影にぶつかってしまった。
「っいった~!」
下の方から声変わりがまだ済んでいない子どもの声がした。その声をきいた瞬間、マティアスはこの場から逃げ出したくなった。
この王宮のなかで子どもといえばひとりしか思い浮かばない。
そう、国王の唯一の嫡子。御年十二歳になられる王子、アルベール様である。
マティアスは意を決し、王子と目線を合わせるように跪き話かけた。ここで見て見ぬふりはさすがにできない。
「……ぶつかって申し訳ございませんでした。大丈夫ですか、アルベール様」
そういいながら王子の体にけがなどないかざっと調べる。
――……どうやらけがはないようだ。
マティアスは王子にけががなさそうだとわかると、ほっと息をつく。
王子にけがなどさせたら大問題だ――それがマティアスのせいではなくても――。
「うん、だいじょうぶだ。急にひとがいたからびっくりしたぞ」
マティアスは手を差し出し、王子が起き上るのを手伝った。
「私も驚きました。まさか花畑のなかから人が飛び出されるとは思いませんでしたので」
失礼かと思ったが、素直に感じたことをいってみた。思いのほか動揺しているのか、ほかに気のきいた台詞が思いつかなかったのだ。
「うむ、そうか。それはすまなかったな。探検中だったのだ。そういえばお前はだれだ?みたことのない顔だな」
「申し遅れました。エディンベル家の三男マティアスと申します。この春から財務大臣付きの文書官として配属されました」
王子が知らないのも無理はない。
マティアスは貴族ではあるものの夜会に出ることは少なく、ましてや王宮勤めになったいま、下級文書官であるマティアスには王族に謁見することは許されていない。
マティアスが自己紹介を終えたとき、また誰かがこちらへ駆けてきた。
「殿下! こんなところにいらしたのですね! さあ、もう休憩はおしまいです。お勉強に戻りましょう。まだ今日のノルマを終えていないでしょう」
眼鏡をかけた痩せた男である。マティアスより二、三歳ほど年上であろうか、というこの男はどうやら王子の教育係のようである。
王子は “探検中”だといっていたが、おおかた教育係から逃げてきたのだろう。
「いやだ! きょうは王宮のなかを探検するのだ。勉強よりもそっちのほうがずっとたのしい!」
マティアスは驚いた。さきほどの王子は自分の非を認め素直にあやまっており、わがままという印象を受けなかったからだ。
「王子…。わがままをおっしゃらないでください」
教育係の男も困惑顔である。
すこしこの男がかわいそうになってきたマティアスは助け舟を出してやることにした。
「殿下、殿下は国王様…お父上様はお好きですか?お父上様のようになりたいですか?」
王子と男が急に話し出したマティアスのほうを向いた。
王子は興味深そうな、男は訝しげな顔をしている。
「ああ! 父上はだいすきだ! 将来はわたしも父上のように立派な国王になるのだ」
目をきらきらと輝かせながら王子はいった。マティアスはその言葉に頬を緩ませた。
「なら、お勉強をたくさんしてお父上様に負けないような知識と教養を身につけねばなりませんよ。なにも知らないお馬鹿な国王には誰もついてきませんからね」
その言葉をきいた王子と教育係の男は目を丸くした。“お馬鹿な国王”などと誰もいわないからだ。
「遊ぶことも大切だとは思いますが、勉強もせずに遊んでばかりですといずれ殿下は“お馬鹿”だと皆に笑われてしまいますよ」
教育係の男が口を開き、なにかいおうとしたが、それよりも先に王子が口を開いた。
「“馬鹿”はいやだ! …そうか。父上のようになるには勉強しなければならないのだな。たしかに馬鹿でなにもしらない国王にはだれもついてこないな」
マティアスはやはり、と思った。
この王子は賢い。わがままは言うが、それはまだ子どもだからだ。
頭ごなしにいうだけではかえって反発してしまう。ゆっくり諭していけば自分で理解をし、正しい道へと進むのだろう。
現に、マティアスの言葉を理解し、納得している。
「フィル、わたしがまちがっていた。勉強はおもしろいかどうかは関係なくやらなければならないな。よし、部屋にもどってつづきをやるぞ」
王子はいうなりさっさと歩いて行った。
教育係――フィルというらしい――は王子の言葉に呆気にとられていたが、マティアスが腕を小突くと、あわてて後を追った。
王子は数歩進んだ後、マティアスのほうをむいて叫んだ。
「マティアス! そなたのおかげで目が覚めた。ありがとう!」
まさか礼をいわれるとは思っていなかったので、またもやマティアスは驚いた。
教育係もこちらをむいて会釈している。
マティアスもあわてて頭を下げて王子たちを見送った。
しばらくして完全に王子たちが去るとようやく頭をあげ、思わずため息をついてしまう。
たった数分の出来事であったが、ものすごく疲れを感じた。
(さっさと仕事にもどって残りを片付けよう。今日はアイザックと飲みにいくんだから)
マティアスはそう思い、自分の仕事場へと足を進めた。