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仏教

普勧坐禅儀の現代語訳

作者: Eliphas1810
掲載日:2026/05/30

 (「仏道とは何か?」と)尋ねて(探求して)みると、仏道とは、(もと)から、「円通」、「周円融通」、「普遍(ふへん)に行き渡っていて自由自在に融通(ゆうづう)()かせてくれるもの」なので、修行と証を(さら)に他から借りる必要は無いのである!

 「宗乗」、「坐禅の極致」とは、自由自在に融通(ゆうづう)()かせてくれるものなので、(坐禅以外に)(さら)に他の鍛錬に費やす必要は無いのである!

 まして、(坐禅によって)全身(全霊)は遥かに「塵埃(ちりほこり)」、「煩悩」を脱出するので、「(坐禅以外に)(さら)に他に(煩悩を)払拭する手段が必要である」とは誰も信じないのである!

 大体(だいたい)、この坐禅を離れてはいけないので、(坐禅以外に)(さら)に他の修行に足を踏み入れない物なのである!

 そして、ごくわずかでも違いが有ってしまったら、天と地ほど、かけ離れてしまうのであるし、

(誤った)好き嫌いが、わずかにでも(心に)起こってしまえば、「紛然と」、「複雑に混乱して」、(正しい)心を()くしてしまうのである。

 (そうしてしまうと、)たとえ、「会得」、「理解」を誇れても、悟りが豊かでも、「智通」、「智慧と理解」の境地を垣間見(かいまみ)る事ができ得ても、「得道しても」、「真理を会得しても」、心を明らめても、天を突くような志をあげても、「入頭」、「入門」の(ほと)りを歩いても、迷いから心身を脱出させる「活路」、「方法」を欠損してしまうのに近いのである。

 まして、祇園精舎などで説法してくれた、生まれながらに知っていたような釈迦牟尼仏ですら、六年間、端正に坐禅した行跡を見るべきなのである。

 少林寺で釈迦牟尼仏の心の印を伝えてくれた第二十八祖の達磨が壁に向かって九年間、坐禅した名声は今もなお聞こえているのである。

 古代の聖者ですら、すでに、このようなのである。

 今の人々は、どうして、(「坐禅するべきである」と、)わきまえないのか?!

 そのため、言葉を尋ね求めたり、追い求めたりして、「解行」、「理解して実践して修行する事」を休むべきなのである。(その代わりに、坐禅するべきなのである。)

 (坐禅と比べると)「『回光返照』、『自身を反省する事』は後退に成ってしまう(と言える)」事を学ぶべきなのである。(自身を反省する代わりに、坐禅するべきなのである。)

 (なぜなら、坐禅すれば、古い)心身を自然と脱ぎ落とす事ができて、本来の「面目」、「様子」が目の前に現れるのである。

 「『恁麼の事』、『仏の無上正覚』を得たい」と(ほっ)するのであれば、急いで「恁麼の事」、「仏の無上正覚を得る事ができる坐禅」に務めるべきなのである。

 坐禅に参入するには、静かな部屋(で坐禅するの)が良いのである。

 (坐禅するには、)飲食を節制するべきである。

 (坐禅するには、)諸々の「縁」、「つながり」を投げ捨てて、万事を休息するべきである。

 (坐禅するには、今、思考できている)善悪を思考するなかれ。(坐禅とは、本当の善悪などの、今は思考できない思考を思考しようとする事なのである。)

 (坐禅するには、今、思考できている)善悪を気にかけるなかれ。(坐禅とは、本当の善悪などの、今は思考できない思考を思考しようとする事なのである。)

 (坐禅するには、)「心、意、識」、「心、意識、理解」による(意識的な)運転を停止するべきである。

 (坐禅するには、)「念、想、観」、「記憶、想像、観察」による測量を止めるべきである。

 (坐禅するには、)「作仏」、「成仏」、「仏に成る事」を意図するなかれ。

 「坐、臥」、「坐る事と、横に成る事」に執着するなかれ!

 (坐禅するには、)普通、坐る場所に敷物を厚く敷いて、その上に、座布団(ざぶとん)を利用するのである。

 (そうして、)あるいは、結跏趺坐したり、あるいは、半跏趺坐したりするのである。

 結跏趺坐とは、まず、右足を左の(もも)の上に安置し、左足を右の(もも)の上に安置する。

 半跏趺坐では、ただ、左足を右の(もも)の上に安置して抑えるだけなのである。

 (坐禅する時は、)(ゆる)やかに衣服や帯をかけるようにするが、衣服や帯が整っているようにするべきである。

 次に、右手を左足の上に安置してから、左手を右手の上に安置する。

 両手の親指をつけて対面させて支え合わせる。

 そうして、身を正して、端正に坐禅するのである。

 左へ(かたむ)いたり、右へ(かたむ)いたり、前へかがんだり、後ろに仰向けになったりするなかれ。

 耳と肩を(上下に)相対(あいたい)させ、鼻と(へそ)を(上下に)相対(あいたい)させる必要が有る。

 舌は上の(あご)に掛けるようにして、唇と歯をつけ合う。

 目は常に開いておく。

 鼻息は(かす)かに通させる。

 このように身の姿形を整えたら、一息、深呼吸して、(体を)左右に揺すって振るう。

 (そうして、)こつこつと坐禅して「(じょう)」に入って、「かの不思量の奥底を思量する」、「今は思考できない思考を思考しようとする」のである。

「不思量の奥底なんて、どうしたら思考できるのか?」、「思考できないものなんて、どうしたら思考できるのか?」、

「非思量」、「思考できるであろうか等と思考しないで、とにかく思考するのである」、「できるか心配せずに、とにかく行うのである」。

 これが、坐禅のやり方の重要な事なのである。

 坐禅とは、「習禅」、「色々な観念を習う事」ではない。

 (坐禅とは、)ただ、安楽な、法への門なのである。

 (坐禅とは、)「菩提」、「仏の無上正覚」を究め尽くすための修行と証(が一つに成っている物)なのである。

 (坐禅とは、)「公案」、「修行者の手がかりとしての仏祖の言動」が形成されて現れている物なのである。

 (坐禅していて、)「羅籠」、「鳥かご」が未だ到来した事は無いのである。

 もし、この坐禅の意味を会得できれば、竜が水を得たような物なのであるし、虎が山に頼る事ができたような物なのである。

 まさに知るべきである。

 (坐禅すれば、)「正法」、「正しい仏法」が自然と目の前に現れて、「昏散」、「意識力の低下や集中力の散乱」を機先を制して打ち払い落とす事ができるのである。

 もし、坐禅から起き上がるのであれば、徐々に体を動かして、安らかに、「(つまび)らかに」、「はっきりと」起き上がりなさい。軽率に乱暴に起き上がるなかれ。

 「超凡越聖」、「凡人と聖人という区別を超越する事」や、「坐脱立亡」、「坐禅したまま死んだり、立ったまま死んだりする事」は、この坐禅の力に一任した事による物であるのを(私、道元は、)かつて観察した事が有るのである。

 まして、また、「指竿針鎚」、「言葉以外の手段」による転機をひねったり、「払拳棒喝」、「言葉以外の手段」によって証に(かな)う事を挙げたりできたのは、未だ、思慮分別によって理解できた事ではないのである。

 (また、)神通力や修行や証によって知る事ができた物ではないのである!

 (坐禅とは、)色形や音声外の「威儀」、「身のこなし」である、とするべきなのである。

 (坐禅とは、)知見以前の「軌則」、「規則」、「手本」なのである!

 そのため、(坐禅では、)上等な智者であるか下等な愚者であるかを論じず、利発な人か愚鈍な者かを選んで区別するなかれ。

 (坐禅に)専念して一心に鍛錬すれば、「弁道できる」、「真理をわきまえる事ができる」のである。

 (坐禅すれば、)修行と証は自然と汚染されないのである。

 (坐禅すれば、)「趣向」、「心」は(さら)に平常心に成るのである。

 (坐禅すれば、)「自界他方でも」、「この世でも他の世界でも」、西のインドでも東の中国でも、皆、等しく、仏の心の印を保持する事ができるし、「宗風」、「仏教の家風」を完全に思い通りにできる。

 ただ、坐禅に打ち込む事に務めて、こつこつと思考する境地に支えられるのである。

 千差万別でも、ひたすらに坐禅に参入して、「弁道する」、「真理をわきまえる」のである。

 (仏教という)自分の家の「坐牀」、「坐禅場所」を投げ捨ててしまって、(みだ)りに他国のような「(ちり)」、「煩悩」という「境」、「知覚の対象」をさまよい歩くなかれ!

 もし、最初の一歩を誤ったら、目の前の真理を誤って見過ごしてしまうのである。

 (人は、)(すで)に、大事な人の身を得ているのである。

 時間を(むな)しく過ごすなかれ。

 (坐禅という)仏道の重要な物を保持させられて任されているので、誰も、電光石火のように短い人生を(みだ)りに楽しむなかれ!

 さらに、この世のものの形や性質は草の上の(つゆ)のように儚いものなのであるし、(人の)運命(、人生)は電光石火のように短いのである。

 (人の肉体の命は、)(すみ)やかに空虚に滅んでしまうのであるし、一瞬で失われてしまうのである。

 請い願わくば、学に参入している高徳な僧は、半端な理解による誤解の存在を長い間、学習して、真の竜(に例える事ができる坐禅)を疑うなかれ。

 (坐禅によって、)「直指の」、「直接的に指し示す」、端的な仏道に精進し、「絶学の」、「学ぶべきものが絶えて無く成った」、「無為を知っている」、「消滅しない不変の絶対の真理を知っている」人を尊重しなさい。

 仏から仏への「菩提」、「無上正覚」に「合沓」、「完全一致」して、祖師から祖師への「三昧」、「(じょう)」を「嫡嗣しなさい」、「正統に()ぎなさい」。

 長い間、「恁麼」、「仏の無上正覚を得る事ができる坐禅」をしていれば、「恁麼」、「仏の無上正覚を得ている人」なのである。

 (坐禅すれば、真理という)宝の蔵(の門)が自然と開かれて、思い通りに、(仏の無上正覚を)「受用できる」、「受容して利用できる」のである。

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