第01話 プロローグ
初投稿です。
あまり大きくずれない範囲で何度か修正かけると思いますがご容赦を。
空は死んだ魚の腹のような色をしていた。 垂れ込める分厚い雲は、陽の光を遮断し、この世界から希望という概念を奪い去っているかのようだ。 鼻孔を衝くのは、錆びた鉄と、排泄物、そして濃厚な死の臭い。
「……吐き気がする」
泥濘に膝をついたまま、俺は小さく呟いた。 手には赤錆の浮いた槍。穂先は欠け、柄はひび割れている。武器と呼ぶのもおこがましい、ただの棒切れだ。身に纏っているのは、防具ですらない麻袋のようなボロ布一枚。 俺の肉体は痩せこけ、腕は枯れ木のように細い。心肺機能は最悪で、少し走っただけで肺が焼けつくように痛む。 ここは戦場だ。 そして俺は、戦略シミュレーションゲームで無敗を誇り、世界中のプレイヤーから《戦争王》と崇められた男――の成れの果てである。
「進め! 進まんか、このゴミ屑共がァ!」
背後から、鼓膜を裂くような怒号が飛んだ。 鞭の音。肉が裂ける音。短い悲鳴。 俺たちの背後に陣取っているのは、味方であるはずの「督戦隊」だ。逃亡兵を即座に処刑し、俺たちのような奴隷兵を最前線の矢面に立たせるための監視役。 俺たちの役割は「戦うこと」ではない。「死ぬこと」だ。 敵の矢をその身で受け止め、堀を死体で埋め、正規兵が通るための道を切り開くための肉の壁。消耗品。将棋で言えば歩ですらない。盤上の汚れだ。
「ヒッ、うぅ……お兄ちゃん、怖いよぉ……」 「大丈夫、大丈夫だから……!」
すぐ隣で、震える声が聞こえた。 泥まみれの少年と、それを必死に抱きしめる少女だ。姉弟だろう。弟の方は十歳にも満たないように見える。極限の恐怖で失禁しており、姉の方もガタガタと歯を鳴らしていた。 名前は知らない。知る必要もない。どうせ数分後には肉塊に変わるNPCだ。 そう切り捨てようとした瞬間、俺の視界に奇妙なノイズが走った。
――視界展開。
現実の風景の上に、半透明の幾何学模様が重なる。 それはかつて俺がモニター越しに見続けてきた、RTSのユーザーインターフェース(UI)そのものだった。 固有スキル《戦場俯瞰》。 俺の意識が肉体を離れ、上空数百メートルへと跳躍する。 眼下に広がるのは、巨大な要塞都市を包囲する数万の軍勢。 味方の陣形、敵の弓兵の配置、城壁の耐久度、風向き、士気。それら全てが数値と色彩として脳内に流れ込んでくる。
(右前方、城壁上の弓兵部隊A、リロード完了まであと四秒。左翼の投石器、仰角調整中……着弾予測地点、ここ(・・))
俺の意識は瞬時に肉体へと戻る。 思考が現実に追いついた刹那、俺は脊髄反射で動いていた。
「伏せろ!」
俺は隣にいた姉弟の襟首を掴み、無理やり泥水の中へと押し倒した。 「ぶっ!?」 少年が泥を吸ってむせる。姉が何かを叫ぼうとして顔を上げる。 「頭を上げるな! 死ぬぞ!」 俺は二人の頭を強引に地面へねじ伏せ、自分もその上に覆いかぶさるように身を縮めた。
ヒュオォォォォォ――ッ!
直後、風切り音と共に、巨大な岩塊が俺たちの頭上数メートルを通過していった。 ドォォォォン!! 後方の地面が爆ぜる。 直撃を受けた奴隷兵たちが、声も上げられずに赤い霧となって四散した。飛び散った肉片と土砂が、雨のように俺たちの背中に降り注ぐ。 「ひッ、あ、あぁ……」 姉弟は顔面蒼白で、声にならない悲鳴を漏らしていた。俺の指示がなければ、今頃あの一部になっていただろう。 (……非合理的だ) 俺は心の中で毒づく。 この姉弟を助けたところで、戦況は何一つ変わらない。むしろ、守るべき対象が増えることは生存率を下げるリスク(デバフ)でしかない。 かつての俺なら、迷わず二人を囮にして安全地帯へ移動していただろう。だが、このクソッタレな異世界に来てからというもの、俺の中の「人間性」のようなバグが、冷徹な計算を邪魔し続けている。
(残りスタミナ、六割。空腹によるデバフ継続中。……詰んでるな)
俺は額に焼き付けられた「奴隷紋」に手を触れた。 焼き鏝のような熱を帯び、俺の脳を締め付け続けている呪いの刻印。これがある限り、俺たちは督戦隊の命令に逆らえない。逃げようとすれば脳を焼かれて死ぬ。 まさに、死ぬまで戦うしかない操り人形だ。
――その時だった。
《戦場俯瞰》のレーダーが、後方からの強烈な「赤色」の接近を捉えた。 敵の別動隊だ。騎兵か? いや、もっと速い。空だ。 (グリフォン部隊……!? なぜここに。本陣の防空網はどうなっている!) 俺が空を見上げると同時、後方の安全圏にあったはずの自軍本陣から、巨大な火柱が上がった。 轟音。そして熱波。 俺たちの奴隷紋を管理している指揮官のテントが、物理的に消滅したのだ。
ブツン。
頭の中で何かが切れる音がした。 常に脳を締め付けていた万力のような圧迫感が、不意に消失する。 「……消え、た?」 周囲の奴隷たちも異変に気づいたようだ。顔を見合わせ、恐る恐る後方を見る。 「魔法使いが死んだぞ!」 「呪いが解けた! 逃げろ、今なら逃げられるぞ!」 誰かが叫んだ。それは連鎖的なパニック(恐慌状態)となって広がる。 奴隷たちは武器を捨て、蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。 だが、それは悪手だ。
「逃亡兵は殺せ! 一人たりとも逃がすな!」
督戦隊の指揮官が剣を抜き、怒声を張り上げる。 銀色の甲冑に身を包んだ正規兵たちが、逃げ惑う奴隷たちの背中を次々と斬り伏せていく。一方的な虐殺。阿鼻叫喚の地獄絵図。 俺はその混沌の中、泥の中に屈んだまま、冷めた目で戦場全体を俯瞰していた。
勝利条件変更。 旧:敵要塞の攻略(達成不可能)。 新:エリアからの離脱および生存。
(逃げる奴隷は囮になる。督戦隊のヘイト(敵視)が分散している今が、唯一の好機)
俺は《戦場俯瞰》の解像度を最大まで上げる。 無数に動き回る兵士、飛び交う矢、血飛沫。その全てのベクトルと速度が、脳内でワイヤーフレームとして処理されていく。 見えた。 混乱に乗じて崩れた包囲網の一角。あそこだけ、督戦隊の配置が薄い。 生存確率、0.01%から4%へ上昇。 行ける。
「おい、立つんだ」 俺は少女の肩を掴んで揺さぶった。 「え……?」 「逃げるぞ。僕の言う通りに動けば死なない。約束する」 根拠などない。だが、俺の声には奇妙な説得力があったらしい。少女は涙で濡れた顔で頷き、弟の手を強く握りしめた。 「ついてこい。姿勢は低く、死体の陰を通れ」
俺たちは走り出した。 泥を蹴り、死体を踏み越え、戦場を縫うように進む。 右から矢が来る――「止まれ!」 俺の合図で二人が立ち止まる。その鼻先を矢が掠めていく。 左から騎兵が来る――「死体の下に隠れろ!」 泥水の中に潜り込み、息を殺す。蹄の音が頭上を通り過ぎる。
まるで、盤上の駒を動かしている感覚だった。 彼らは俺の手足だ。俺の演算結果を出力するためのデバイスだ。 だが、現実はゲームのように甘くはない。
「そこまでだ、薄汚いネズミ共が!」
脱出ルートを塞ぐように、一人の男が立ちはだかった。 督戦隊の正規兵だ。磨き上げられた鉄の鎧。手には長剣。肉体的スペックは、栄養失調の俺とは雲泥の差がある。 逃げ道はない。 少年が悲鳴を上げ、少女が弟を背に隠す。 俺は、震える手で錆びた槍を構えた。
(敵対戦力一名。重装歩兵。……正面戦闘での勝率、ゼロ)
兵士が侮蔑の笑みを浮かべ、剣を振り上げる。 その瞬間、俺の右目に深紅の光が走った。 固有スキル《勝利への演算》。 兵士の筋肉の収縮、重心の移動、視線の角度。それら全ての情報から、0.5秒後の未来が予測される。 兵士の身体から、赤い「線」が伸びた。 剣の軌道だ。 大上段からの袈裟懸け。威力はあるが、隙も大きい。
(見える。……だが、体が追いつかない!)
脳は反応しているのに、筋肉が軋んで悲鳴を上げる。 重い。槍が鉛のように重い。 まともに受ければ、槍ごと叩き折られて終わりだ。 ならば、どうする? ――相手の力を利用しろ。
「……ッ!」 俺は兵士が踏み込むタイミングに合わせ、わざと泥に足を滑らせたふりをした。 体勢を崩した俺を見て、兵士の口元が緩む。「貰った」という油断。 剣が振り下ろされる。 俺はその軌道スレスレ、髪の毛数本分を見切って、泥の中へと倒れ込むように身を沈めた。 ブンッ! 豪風が顔を叩く。剣が空を切り、兵士の体勢が前のめりになる。 重い鎧が仇となり、慣性を殺しきれない。
「今だ! 石を投げろ!」
俺は泥水の中から叫んだ。 その声に反応したのは、姉ではなく、弟の方だった。 少年は無我夢中で、足元にあった拳大の石を兵士に向かって投げつけた。 コントロールなどない、ただの悪足掻き。 だが、その石は奇跡的に、兵士の面頬の隙間に直撃した。 「ぐおッ!?」 兵士がけぞり、視界を塞がれて一瞬だけ硬直する。 その一瞬があれば、十分だ。
(残りスタミナ、全投入)
俺は泥を蹴り、バネのように跳ね起きた。 手にした槍の石突――刃のない方の端を地面に突き立て、それを支点に棒高跳びの要領で体を飛ばす。 重力と、兵士自身の前のめりの勢い、その全てを一点に集約する。 狙うのは、鎧の継ぎ目。首元。 手に持っていた、死体から剥ぎ取ったばかりの小さなダガーナイフ。 それを、逆手で突き立てる!
「ガ……ッ!?」
生暖かい感触が手に伝わった。 兵士の喉から、ヒューヒューという空気が漏れる音がする。 俺は体重をかけてナイフをねじ込み、そのまま横に薙ぎ払った。 鮮血が噴水のように吹き出し、俺の顔を赤く染める。 兵士の瞳から光が消え、その巨体がズズン、と泥の中に沈んだ。
「はぁ……はぁ……ッ、げぇッ……」
俺はその場に膝をつき、胃の中身をぶちまけた。 出てきたのは胃液だけだ。何も食っていないのだから当然だ。 手足の震えが止まらない。筋肉が断裂したかのような激痛が全身を走る。 人を殺した感触が、手にべっとりと残っている。 ゲームとは違う。 リセットボタンはない。血は鉄の味がする。骨が砕ける音は、耳から離れない。
「お、お兄さん……?」
恐る恐る近づいてきた少女が、俺の背中に手を添えた。 見上げると、二人は信じられないものを見るような目で俺を見ていた。 恐怖ではない。 それは、縋るような、祈るような眼差し。 地獄の底で、唯一の蜘蛛の糸を見つけた罪人の目だ。
「……行くぞ」 俺は口元の汚れを拭い、ふらつく足で立ち上がった。 「まだ終わっていない。ここを抜けるまでは、気を抜くな」
俺は死んだ兵士の腰から、水筒と保存食の袋を奪い取る。そして、まだ使える剣を鞘ごと抜き取り、自分の腰に差した。 重い。 たかが剣一本が、世界の重みそのもののように感じられる。 だが、これを持っていなければ、次の「ターン」は回ってこない。
俺は振り返らずに歩き出した。 背後から、二つの小さな足音が、必死についてくるのが聞こえる。 空は相変わらずの曇天だ。 だが、俺の視界には、戦場からの脱出ルートを示す緑色のラインが、微かに、しかし確かに浮かび上がっていた。
――ゲームスタートだ、クソッタレ。 この理不尽な盤上を、俺が支配してやる。




