第1話「悪役令嬢が生きているということは」
「もっとしっかり持ちなさい」
開いた瞳で、周囲を見渡す。
でも、異世界を案内してくれる神様も女神様も見当たらない。
目の前に存在するのは、日本人とはかけ離れた真紅の髪色と赤の瞳を持つ少女。
「愚図な侍女ね。荷物ひとつ、まともに運べないのかしら」
気づけば、鮮やかな赤色の瞳に鋭い視線を向けられていた。
「申し訳ございません、お嬢様……」
赤を象徴する少女に深く頭を下げながら、恐る恐る部屋に置かれているクマのぬいぐるみに目を向けた。
「っ」
目に映った日付は、2月28日午後3時。
またしても悪役令嬢シャロット・レトナークが断罪される日付に、私は戻ってきた。
「鞄の中の物が傷ついたら、どう責任を取るつもり?」
「申し訳ございません……」
シャロットに与えられた個室をゆっくりと見渡すと、見慣れた部屋が私のことを出迎えた。
クマをモチーフにしたマスコットキャラは黒板を持っていて、今日がどういう日なのかを知らせてくれる。
「どうして、こんなに使えない侍女を雇わなければいけないのかしら」
「申し訳ございません……」
華やかな制服に身を包んだお嬢様は腕を組みながら、溜め息を溢れさせた。
(また……2月28日……)
心臓が激しく動き始める。
それでも、自分の両手にはシャロットに託されたと思われる旅行鞄を落とさないように抱え込む。
鞄の中には自分の細腕では耐えきれない重さの物が、ぎっしりと詰め込まれていることだけは分かる。
(断罪日に死に戻っても意味がない……)
2月28日は、前世の私の誕生日。
2月28日は、悪役令嬢の命日。
三度目の異世界転生が始まったところで、その事実に変化は訪れない。
「解雇よ」
「……申し訳ございません」
「謝っても無駄よ。あなたを解雇は決まったの」
「申し訳ございません……」
初めて死に戻りを経験したときは、シャロットの命を救うチャンスが再び巡ってきたことに大きな喜びを抱いた。今度こそ、絶対に彼女を救ってみせると意気込んだ。
(でも、今度、失敗したら……)
こんなにも都合よく、何度も何度も死に戻りが繰り返されることに疑いの目を向けてしまう。
どうせ死に戻ることができるんだから、何度も挑戦してみようなんて気楽な考えではいられない。
これが最後のチャンスになるかもしれないという恐怖に囚われて、私はシャロットに見せる顔を用意できない。
俯いたまま、この場をやり過ごしてしまおうと諦めの気持ちを抱いたときのことだった。
「……どこか具合でも悪いの?」
悪役令嬢の強さを強調する、赤の瞳を好きだと思った。
その、憧れてやまなかった赤の瞳が私の顔を覗き込むように見つめてきた。
「っ、え、お嬢様! 近いです!」
「あなたの様子が、可笑しいからでしょう」
悪役令嬢がモブキャラの侍女を心配するなんて展開は、どのゲームを攻略していても見たことがなかった。
彼女の顔が近くにあることに気づき、私の頬は急激に温度を上げた。
「主の断罪を前にして、やっと悲しんでくれる気にでもなったのかしら」
「あの……その、申し訳ございませんでし……」
慌てて視線を逸らしたけれど、次に紡ぐ言葉が見つからずに焦った。
「そのセリフは聞き飽きたわ。あなたは、からくり人形か何か?」
そして、自分がさっきから同じ言葉を繰り返していたことをようやく自覚した。
「体だけは大切にするのね」
いつまで経っても、心臓の音が落ち着かない。
シャロットに気遣われたことが嬉しいのか、シャロットが生きていることに幸福を感じているのか、シャロットがまた死ぬかもしれないことに絶望しているのか。
心臓が揺らぐ理由が分からなくて、また涙腺が緩み始めていく。
「あなたには、未来があるのだから」
部屋のドアに手をかけ、逃亡の準備を整えていたはずのシャロットが振り返った。
「はぁ、どうしてここまで、人間関係の巡り合わせに恵まれていないのかしら」
部屋に飾りつけられている戸棚には、多くのガラス瓶が並んでいた。
その中から、シャロットは特に効能が高そうな薬草が入っているガラス瓶を手に取った。
「これがいいわね」
ガラス瓶の中には薬草らしきものが詰め込まれているけど、ゲームの中の知識しかない私にはどの薬草がなんの効果を発揮するのか想像もつかない。
「座りなさい」
「え」
「主の命令よ」
シャロットは魔法の杖を取り出し、炎魔法の力で丁寧にお湯を沸かし始める。
「って、お嬢様! 今日は、お嬢様の断罪……」
「座りなさいと言っているでしょう」
「お逃げください! 早く!」
「どうせ、あと2時間は誰も来ないわ」
部屋に置かれているクマをモチーフにしたマスコットキャラに目を向けると、時刻はまだ午後3時を過ぎたばかり。
シャロットが断罪されるまで2時間あることを確認し、私はおとなしく主の命に従った。
「このお茶は、心を落ち着かせるのに効果的なの」
湯気が立ち上がり、シャロットは茶葉をティーポットに入れる。
令嬢という立場の彼女が、こんなにも手際よくお茶を淹れることができる様に驚かされた。
「……私より、お上手ですね」
「まだ飲んでもいないのに、お世辞が上手いのね」
熱湯が注がれると、茶葉がゆっくりと開いて芳醇な香りが部屋中に広がった。
その甘い香りが心地よく、シャロットが言う通り、本当に心を落ち着かせるのには最適だと思った。
「飲みなさい。温まるから」
「大変ありがたいのですが、主の断罪を前に……飲む元気がありません」
「飲みなさい」
命令口調なところが悪役令嬢らしいと思うけれど、シャロットの声に優しさが込められていることに私は気づいた。
「……いただきます」
一口お茶を含むと、その美味しさに目を見開いた。
異世界転生を経て、自分はまだ何も口にしていなかったことに気づく。
「美味しいです……」
「ちゃんと味覚が備わっているのは、両親の教育のおかげ。感謝することね」
必ず悪役令嬢の断罪日に死に戻ってしまうため、私には異世界で平和な時間を楽しむことができない。
水分を取り入れることも、ご飯を食べることもできていなかったこともあり、一杯のお茶が心を温かくする効果を持っていることに思わず涙腺が緩み始めていく。