第9話 偶像の条件
翌朝。
私は早速エドガーと今後のことを打ち合わせようとヴァレンシュタイン邸に向かおうと準備をしているところに、使用人がおずおずと私に声をかけてきた。用件はひとつ「ユリウス様が呼んでいらっしゃいます」。……私は罰を受ける覚悟で、お兄様の私室へ足を運んだ。
「リディア。昨夜は随分遅かったようだね」
「お兄様……あの、申し訳ありませんでした」
「それは、何に対しての謝罪かな」
お兄様の声はいつも通り穏やかで、その瞳にも怒りの色は見えない。ただ、その『いつも通り』の顔こそが、私にはいちばん恐ろしかった。こういう時、お兄様は内心に相当な怒りを秘めていることを、私は良く知っている。
私は改めてお兄様に向き直り、頭を下げる。
「昨日遅くに戻ったこと、私一人でヴァレンシュタイン家へ伺ったこと、どちらもお詫びいたします」
するとお兄様は私の頭に手を置き、そのまま毛先の方に滑らして私の髪をひと房すくいとる。整えられた毛先を指先で遊ばせながら、言う。
「言うまでもないがヴァレンシュタイン公爵家は名実ともに王家に次ぐ名門。少しでも失礼があっては問題だ。今後は勝手なことをしないように……約束できるね?」
「はい……もちろんです」
「他に私に言う事はあるかな」
その言葉に私は確信する。お兄様はきっと、昨日の夜私とエドガーの間になにがあったか知っているのだ。
エドガーと私は婚約者。お兄様の不興を買う気配を感じながらも……あえて隠し立てをすることではないと考え、私は正直に事の顛末を伝えることにした。
「昨日の舞台の後、ようやくエドガー様の誤解を解くことが出来ました。ですから、ヴァレンシュタイン家の名代であるジークフリート様に、彼と二人で婚約破棄を撤回して下さるようお願いに上がりました」
「誤解を解いてその足で、とは。……ジークフリート様はなんと?」
「隣国との交渉の場で私とエドガーが成果を残し、この婚約の価値を示すことが出来れば婚姻関係を続けてよいと仰いました」
お兄様は指先にほんの僅かに力が入り、私の毛先が跳ねる。その毛先をじっと見つめながら「ふうん……」と呟いた。
……恐らくお兄様は苛立っている。彼は私のほうにちらりと視線を戻すと、皮肉な微笑みを浮かべた。
「色々と大変なようだね。……でも、頑張りすぎては逆効果になるかもしれないよ」
「……どういうことです?」
その問いかけにお兄様は私の髪を手放し、無言で一通の書簡を差し出した。……薔薇の手記だ。
『王妃のサロンを慌てて退場。ついに舞台に対する誇りまで失った? ――その足で元婚約者に縋りつく彼女の想いとは』
「そんな……こんな記事が、もう……」
「夜明け前には我が家にも回覧が来ていたよ」
薔薇の手記を手に動揺を隠せない私の肩に、お兄様はそっと手を置く。
「お前の名声は、お前の歌のもの。歌う場所を失っては誰もお前を顧みなくなるだろう。……これ以上悪評が広まれば、婚約は当然として、王妃様の信用さえ失いかねない。もちろん、お前の未来を守るためなら、私はどんな手だって使うつもりだよ」
お兄様はまるで囁くように私に告げた。
「これ以上エドガーとともにいては社交界で悪目立ちするだけだ。無駄にあがくことはない。素晴らしい縁談の話はいくらでも来ているんだから、もう彼からは手を引きなさい。……そうすればいずれ人々はこの醜聞を忘れ、お前は無垢な偶像に戻ることができる」
『無垢な偶像』――その言葉に、胸の奥が凍るような冷たさを覚えた。確かに私は社交界の偶像と持て囃され、多くの人に歌を届けてきた。
けれど私は、永遠にそんな存在でありたいのだろうか。ただ、美しく囀るだけの籠の鳥……それが私の目指す姿なのか。
(きっと、違う)
エドガーは私の歌が国のために役立つものだと、力を持つものだと言ってくれたとき、確かに胸が熱くなった。だから――
「……でも、それでも、エドガー様は『最初に私の歌を見つけてくれた人』なんです。彼が私の歌を信じてくれる限り、私もそれに応えたい!」
私は必死に訴えたが、お兄様は私を冷めた目で眺めるだけだった。
ついにその無言の圧力に耐え切れず、私はお兄様に背を向けその場を去る。
――そして、真っ直ぐにエドガーの元へ向かった。