第7話 月の声
静まり返った廊下に、私の歌が溶けていく。エドガーの背中は微動だにしないままだったが、小さく肩が震えているように見えた。
私が短い練習曲を歌い終えると、廊下には再び静寂に満ちる。そして、その沈黙を破ったのはエドガーの――すすり泣く声だった。
エドガーは私に背を向けたまま泣いていた。私はゆっくり彼に近づき、そっとその震える肩に触れる。
「大丈夫?」
私がそう囁くと、エドガーは縋るように言った。
「どうして今、その歌を……?」
「エドガー様が私を見つけてくれた時の歌だから……あなたなら、それに気づいてくれると思ったの」
私の言葉に、エドガーははじかれたように私を見る。その目元は赤く、少しだけ腫れていた。最近、彼のそんな顔ばかり見ているな、と思うと自然と笑みがこぼれた。
「僕と初めて会った時のこと、覚えていたのか……」
エドガーは誰に言うでもなく、独り言のような声色で言った。私はそれに、静かに頷く。
「当然です。だってあなたは私の最初の信奉者なんですから」
すると、エドガーの目元に再び涙がにじむ。まったく……この人はいつも、すぐ泣いてしまう。そういえば私の舞台が成功する度、よく涙を流してくれたことを思い出す。
「……ごめん、本当に。僕の態度のせいで、君には随分迷惑をかけただろう」
「そんなこと、気にしないで下さい」
「……君が、どれだけ歌に真剣か……僕が一番知ってるのに」
そこでエドガーは一度言葉を切り、私に跪く。そして私の手を取り、額に当てた。
窓から月光が淡く、柔らかく差し込む。雲の切れ間から現れた月が、彼の心を照らしているようだった。
「リディア。……僕は君をもう一度、信じたい。君の歌を、その真っ直ぐな心を」
淡い夜の光を浴びて、エドガーのエメラルドの瞳が輝く。久しぶりに彼の顔を真正面から見た気がした。
「よかった、分かってくれて……。それじゃあこの婚約、やっぱり続けてくれるの?」
私がそういうと、エドガーは目を見開く。
「婚約破棄?! そんな話が?」
「ええ。今日ジークフリート様とお話をして、あなたも承知の話だと……」
「僕はそんな話聞いてない。まさか……兄上が……」
エドガーは目を閉じ、しばし考え込むように黙り込んだあと、彼はふっと息を吐き、瞳を開いた。そして、はっきりと言った。
「今から話をつけてくる」
「今からジークフリート様のところへ?」
エドガーは振り返り、まっすぐに私を見つめた。その瞳に、もう迷いは見えない。
「僕は、君を信じると決めた。……君との婚約は必ず守る」
エドガーの決意に満ちた声が廊下に響く。燭台の炎は、それに応えるように揺らめいていた。