第6話 はじまりの歌
廊下の窓の向こうには、月のない夜空が広がっている。壁に並ぶ燭台の灯りだけ私たちを照らし、石畳に二人の影を長く落とす。
エドガーは手を掴まれたまま、私から目を逸らしてしばし押し黙る。けれど、このままでは私が引き下がらないことを悟ったのか、観念したように口を開いた。
「……なんでここに?」
「あなたと話をしに来ました」
間髪入れず私が応えると、エドガーのエメラルドの瞳が一瞬、私を映した。彼の目は、灯火の揺らめきに濡れているように見えた。……しかし、すぐにその視線は伏せられてしまう。
「……なんの話を?」
どこか諦めたような声色でエドガーは言った。いつも私の歌を楽しそうに聞いてくれた彼が何故ここまで態度を変えてしまったのか、わからない。けれど、今私に出来ることは正直な想いを伝えることだけだ。
「どうして、悲しそうな顔で私の歌を聴くの? ずっと、応援してくれていたのに……」
エドガーは口を固く閉ざしたまま、何も答えない。
私も、なかなか言葉をつづけられなかった。たった一言が、ふたりの関係を壊してしまいそうで──。
廊下に重い沈黙が満ちる。空気が張りつめ、息苦しささえ覚えた。しかし、私は意を決して再び口を開く。
「もしかして、薔薇の手記を読んだの? ……あんな噂、知りたくなかったでしょう。でも、あそこに書かれていることは事実じゃない。信じて」
薔薇の手記。その言葉を聞いた途端、エドガーの肩が大きく揺れる。やはり……私とお兄様の噂が、彼を変えてしまったのだろうか。
精一杯の気持ちを込めて訴えかけたが……エドガーは絞り出すような声で私を拒否した。
「君の口から弁明なんて聞きたくない」
その切ない声色に、私は胸を締め付けられるような思いになる。
「弁明だなんて……だって、私とお兄様は……」
「止めてくれ!」
ついにエドガーは強引に私の手を振り払ってしまう。あまりの勢いに私は体勢を崩し、その場に倒れ込んでしまう。
私の倒れる姿に、彼の瞳に動揺の色が走った。しかし一度は差し出しかけた手を、彼は苦しげに握りしめ、そのまま引き戻す。
そして、背を向けてぽつりとつぶやいた。
「ごめん……。でもこれ以上、幸せだった過去を壊されたくないんだ」
エドガーは私を振り切るように、足早に廊下を歩き始める。
私は彼を追いかけず……その代わりに、歌った。彼と出会った日に歌った歌を。
〈Nel sogno ti cerco, mio raggio di luce〉
(夢の中で探しているの、私の光のしずく)
〈Ascolta la voce che canta per te〉
(聞いて、あなたのために歌うこの声を)
彼が私の言葉を拒否するなら歌で気持ちを伝えようと思った。
歌ならきっと、彼の足を止めてくれると思ったから。
――そして彼は、私の歌に足を止めた。振り返らないまま。