第5話 その左手を
ジークフリートに面談したその日の夜、私は王妃様主催のサロンで歌を披露する予定になっていた。
宮廷のサロンには、今宵も絢爛なドレスと高貴な言葉が行き交う。中央の舞台を囲むように貴族たちが陣取り、その一角には、異国の衣装をまとった来賓の姿も見えた。王妃様は、彼らをもてなすために、私を招いてくださったのだという。
そういえば、このサロンに呼ばれるようになったのも――エドガーの推薦があってのことだった。
彼はどうしてか私の歌を広めるために、いつも心を砕いてくれた。その熱意に最初は戸惑いを感じることも多かった。けれど、いつも幸せそうな顔で私の歌を聞いてくれる彼を見るたびに、そんな気持ちは溶けていった。
(当たり前だった彼の幸せそうな顔、それが見られなくなるのがこんなに寂しいなんて……)
近頃の私の歌を聞く気難しいエドガーの表情を思い出すと、胸が針でつかれたように痛む気がした。
(いけない。もう幕が上がる。集中しないと……)
いつものように心の中で月を描こうとするけれど、上手くいかない。婚約破棄を申し入れられてしまった今、もし今日こそ彼が姿を見せなかったら──そんな不安が頭をかすめる。
それでも、舞台は待ってくれない。王妃様の声が私を呼ぶ。
「それでは、私の愛する銀のフィロメラに歌って頂きましょう」
祈るような気持ちで客席に目をやると……そこには、エドガーがいた。
視界の中に彼を見つけた途端、不思議と周囲のざわめきが遠ざかっていく気がした。そして、心の奥に温かい気持ちが湧き上がる。
(エドガー……よかった。今日も歌を聴きに来てくれた)
〈Dammi la voce per parlarti ancora〉
(あなたに語りかける声を、私にください)
晴れやかな気持ちで、私は歌い始める。
エドガーは、どこか気難しげな顔でこちらを見つめていたけれど……気のせいか、ほんの少しだけ、その表情が和らいで見えた。
私の歌が終わるやいなや、エドガーは席を立ち、足早にその場を離れようとした。
これまでの私なら、拍手に応えるために舞台を降りることなどできなかった。けれど――今日は違う。
王妃様に特別な許可をいただき、歌い終わりと同時に舞台を降りられるようにしていた私は、客席に深く一礼すると、そのまま舞台袖へと駆け出した。
私が追ってくるなど思いもしなかったのだろう。エドガーは、サロン会場の外の廊下をうつむきながら歩いていた。
背中がどんどん近づいてくる――そして、私はその左手を、思わず掴んでいた。
「……エドガー。ようやく、捕まえましたよ」
彼の腕の温もりと筋張った感触が、私の手のひらに伝わる。
この腕を離したら二度と彼と向き合えない気がして、私は必死に力を込める。
「えっ……リディア?!」
振り返ったエドガーは幽霊でも見たような顔をして、目を白黒させている。
私は何とか息を整え、準備していた言葉をぶつけた。
「絶対に、もうあなたを離しませんから」