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第4話 エメラルドの兄上

 ヴァレンシュタイン家の応接室に開けて足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた気がした。


 壁には家の紋章が刻まれた見事なタペストリーと、緻密な地図画。磨き上げられた床に映るのは、緊張に身を固くする私の影。


 私の目の前にいるのはジークフリート・ヴァレンシュタイン。ヴァレンシュタイン公爵家の長男で次期当主だ。外交の分野で若くして既に頭角を現し、近隣諸国の大使や宰相と対等に渡り合っている人物と聞いている。


 エドガーとの婚約が決まった時に一度だけ会ったことがあったが、一対一で彼と話すのはこれが初めてだった。


 その威圧感に押しつぶされそうになるが――私は動揺を悟られないよう、小さく息を吐いてから、意識して落ち着いた声で言った。


「ジークフリート様。本日はお時間を頂きありがとうございます」

「……そこに掛けなさい」


 部屋の中央に置かれた重厚な応接セット。その最奥に、ジークフリートは悠然と座っていた。ジークフリートに促され、私は彼の正面にある革張りのソファに腰を下ろした。

 彼は私の背後に目をやり、言う。


「今日は君の兄君も同行されると聞いていたが」

「申し訳ありません。兄は急用で、私だけで伺いました」


 嘘だ。ヴァレンシュタイン家とのやり取りを行ってくれた使用人に頼んで、お兄様には別の日時を伝えてもらい、今日私は一人でここに来た。


 公爵家に婚約に関する話し合いに本人……それも女の私だけが来るなんて、普通ではありえないことだ。けれど、そうしなければならなかった。


 エドガーがもし薔薇の手記(ローズ・レター)の内容を見ていたのなら、私がお兄様と一緒にいるところを見れば、きっと傷つくと思ったから。


 私の返答を受けて、ジークフリートはひとつ鼻を鳴らす。そして、私に品定めするような厳しい視線を向ける。エドガーと同じ翠色の目は、優し気なエドガーの瞳とは違って獲物を狙う鷹のように厳しい印象だ。


「それで、婚約破棄について、アルブレヒト家は承諾してくれるだろうか」


 早速確信をつくような質問をされ、思わず怯みそうになるが、膝の上で拳を握って言い返す。


「……まず、理由を聞かせて頂けないでしょうか」

「理由など火を見るよりも明らかだろう」


 そう言って、ジークフリートは一通の書簡をテーブルの上に滑らせた。──忌まわしき薔薇の手記(ローズ・レター)の最新号だ。先ほどお兄様が読み上げていた、あの下品な見出しが表紙いっぱいに踊っている。


「我がヴァレンシュタイン家に君のような噂のある人物は相応しくない」


 想定していた言葉。けれど改めて真正面からその事実を突きつけられると、心が痛んだ。


「事実無根の噂です。……ジークフリート様ともあろうお方が、こんなゴシップ紙の内容を信じていらっしゃるのですか?」

「この文書に書いてあることが真実であるかどうか、それは関係ない。問題なのは君とエドガーがゴシップの中心人物になっている、その事実だけだ」


 私の反論に、ジークフリートは極めて理性的に返す。彼の言う事は正しい。家の品格を重んじるならば、不貞の噂のある女と縁を結ぶべきではない。……理屈は分かるが、引き下がることはできない。


(本人にも会えないまま、理由も聞けないまま……婚約を終わらせるなんて、したくない)


「エドガー様も、婚約破棄を望んでいらっしゃるのですか?」


 ジークフリート相手に理屈で戦っては不利だと考え、私はエドガーの気持ちに話の矛先を向ける。エドガーは3日前の私の舞台を聞きに来ていた……拍手は、やはりなかったが。それに、今ここに彼がいないということは、ジークフリートにとってエドガーがいない方がこの話を進めやすいと考えている証拠だ。


(もしかしたら、エドガーは婚約破棄に反対しているのかも……)


 そんな一縷の望みを胸に、ジークフリートの言葉を待つ。しかし、彼の返答は期待を裏切るものだった。


「当然、エドガーも婚約破棄を望んでいる」

「そんな……本当に? まだ、私の歌を聞きにきてくれているのに、ですか?」


 私の言葉にジークフリートの眉がピクリと跳ねたのを、私は見逃さなかった。彼はエドガーがまだ私の歌を聞きに来ていることを、知らなかったのだろうか。しかしすぐに表情を引き締め、厳しい口調で言った。


「それと婚約破棄は関係がないことだ」

「エドガー様が前と同じように私の歌を応援して下されば、きっと周囲の誤解も解けます。……どうかエドガー様と一目会わせて頂けないでしょうか」

「それは出来ない」

「何故です?」


 私の訴えをよそに、ジークフリートは懐中時計を取り出して時刻を確認すると、すっと立ち上がった。


「申し訳ないが、次の予定があるので失礼する。……次があるなら父君か兄君を連れてくるように」

「あっ……」


 引き留める間もなく、ジークフリートは足早に応接室を去ってしまった。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。静まり返った応接室には、冷めた紅茶と拒絶の空気だけが残る。


 やけに広い応接室に、私はひとり取り残された。

 ――もしかしたら、私の訪問に気づいたエドガーが現れるかもしれない。

 そんな淡い期待を抱きながら、私はしばらくその場に留まった。けれど……彼は、現れなかった。



 ――しかし、その夜。私はエドガーを見つけることになる。

 歌声に呼ばれるように、舞台の最前列で。

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