第2話 女神の口づけ【エドガー視点】
今日もリディアの歌は、美しかった。ただただ、美しかった。語彙が死ぬほど──いや、語彙など最初から必要ないほど、美しかった。……けれど、今はその歌声を聞くのが辛い。その姿を見るだけで、胸が締めつけられる。
それでも、彼女が歌うと聞けば足を運ばずにいられない自分が惨めで、どうしようもなく情けなかった。
歌が終わると同時に僕は席を立った。きっと異様に思われただろう。リディアにも迷惑がかかったかもしれない。だが、それでもあの場にはいられなかった。
彼女と最初に出会ったのは王宮の中庭だった。幼い彼女が、一人で誰に向けるでもなく歌っていた。
公爵家の次男として優秀な兄の影に隠れるように生きてきた僕の人生に──彼女の歌は、まるで天から差し込む一筋の光のように、鮮烈に差し込んできた。
その透明な声に心を奪われて以来、僕は彼女の信奉者になった。
彼女が歌うと聞けばどこにでも行ったし、数えきれないほどの贈り物もした。家族や友人知人に彼女の素晴らしさを布教したりもした。王妃様のサロンで彼女が歌えるよう、地道な推薦活動を行ったこともあった。
彼女の歌が好きだった。いや……最早、彼女の存在そのものが好きだった。尊かった。この人生を捧げたいと思うほどに。
彼女に入れ込みすぎて女っ気のない僕に呆れた両親に彼女との縁談を持ちかけられたとき、僕は文字通り卒倒した。その後、彼女と顔合わせの場で会った時にもう一度卒倒した。そして、彼女が「大丈夫?」と笑ってくれたとき、天にも昇る気持ちになった。
彼女との婚約が決まってからの日々は――この世界で一番輝く彼女の夫になるという重圧に耐えながらではあったが――僕の人生で一番、幸せだった。
しかし、その幸福は長くは続かなかった。僕は知ってしまったのだ。
この婚約は、彼女にとって偽りだということを。
リディアは……彼女の兄、ユリウスのことを愛しているということを。
ある日、舞踏会にリディアとともに出席したときのこと。リディアが舞踏会の余興で得意のアリアを歌った後、僕は控室に彼女を迎えに行った。そして、扉の隙間から覗いた先で……彼女はユリウスと身を寄せ合っていた。
「私が留学している間に婚約してしまうなんて、酷い子だね」
「私も、もう大人ですから」
あまりに距離の近い二人に、僕はいけないと思いつつも扉の陰に身を隠したまま、二人の会話に耳を傾ける。
「それにしてもエドガーね……家柄は申し分ないが、お前のおっかけだろう? まあ、都合はいいかもしれないけどね」
「お兄様の仰る通り、彼は最も『都合の良い』婚約者です」
(都合……? 一体何の都合だ?)
「つまり……リディア、お前はこれからも私のために歌ってくれるということかな?」
「お兄様がそう望むなら」
(お兄様のために歌う……?! それってつまり……?)
そして次の瞬間、僕は決定的な光景を目にする。まさかユリウスとリディアは、口づけをした――ように見えた。僕はそれ以上見ていられず、その場を駆け出した。
涙が止まらなかった。リディアが大舞台で王妃様に称賛された時以上に、泣いた。そんな僕にさらに追い打ちをかけたのが、からかい半分に友人から突きつけられた薔薇の手記だった。
『銀のフィロメラ、ついに婚約。しかしその陰に禁断の愛の噂?』
三日間、何も喉を通らなかった。七日後、ようやく涙が枯れた時、僕の胸に残っていたのは──怒りだった。
女神のように敬愛していた彼女と婚約することは、中途半端な僕にとって勇気のいる決断だった。
だから、婚約を承諾してから、僕は彼女に相応しい夫になろうと必死に努力した。リディアにかける時間はそのまま、寝る時間を削って今まで怠けていた公務や社交に時間を割いた。それなのに……そんな僕を彼女は兄と嘲笑っていたのだから。
(きっと今日の私の姿も、兄との会話のネタになっているに違いない。『ほら、またあの男、私の歌を聴きに来てる』……なんて笑ってるんだろ?)
十二年と三か月。
僕が彼女の歌を追いかけ続けた年月が、心に重くのしかかる。
彼女が憎い。でも、それ以上に、自分自身が憎かった。彼女を『清らかな偶像』だと信じて疑わなかった、この愚かしい自分が。
そんな思いを抱えながらも、僕は今も彼女が次にいつどこで歌うのか手帳で確認してしまっている。
(もう彼女を見るのも辛い。こうなってはもう、婚約破棄をするしか……)
何度そう思っただろう。けれど、僕はまだその決断を下せずにいる。
出会ったときに聞いた彼女の透き通るような歌声が、ずっと忘れられないから。




