第12話 声を持つ覚悟
エドガーとの作戦会議から2日――。私は自室でひとり、頭を悩ませていた。
シレーヌ侯国は近隣の大国の言葉を公用語として使っているが、それとは別に独自の古語がある。せっかく一から作詞するのだからシレーヌ侯国だけの言葉で歌いたい。そう思って、シレーヌ古語での作詞に挑んでみたものの……。
(慣れない言語での作詞がこんなに難しいなんて……)
目の前の書きかけの歌詞と楽譜、エドガーから借りたシレーヌ古語の辞書をちらりと見て、私はため息をつく。
元になる歌詞は考えた。これをシレーヌ古語に翻訳することもなんとか出来た。しかし、この歌詞を歌いやすいように調整するのにかなり難儀していた。
シレーヌ古語は発音が特殊だ。発音上の問題で、表現をまるごと置き換える必要がある場合も少なくない。だがそれをすると、前後の文脈や文法もすべて見直さなくてはならなくなる。
(足かせをはめられたように思うように進めない……そんな感じね)
私の中に一つの考えが浮かんだ。『お兄様に相談したらどうだろう?』と。お兄様は留学先で作曲や作詞を学んできたから、私よりずっと効率よく歌詞を整えることができるだろう。
(でも、先日怒らせてしまったばかりだし……)
それでも、舞台は待ってくれない。シレーヌ侯国の大臣と大使に歌う日は3日後に迫っている。多少の余裕はあるとはいえ、練習時間を考えると、できるだけ早く歌詞を完成させておきたかった。
どうすべきか逡巡していると、ふと肩に布がかけられる感触に私は驚き、慌てて背後を振り返る。そこには困った顔のお兄様がいた。
「そんな化け物をみたような顔をされたら悲しいな」
「あの……丁度お兄様のことを考えていたから、驚いてしまって」
私がそう言うと、お兄様はふっと表情を和らげる。
「ここ数日根を詰めているようだけど、どうしたの?」
「えっと……歌詞を書いていたんですが、なかなか上手くいかなくて……」
「へえ、見せてみなさい」
お兄様は一部の隙もなく整った指先で書きかけの歌詞と楽譜を取り上げ、さらりと眺める。そして一言。
「シレーヌ古語か。美しい言葉だけど、なかなか歌詞として落とし込むのは骨だろう」
「お兄様、シレーヌ古語をご存じなの?」
「留学時に少し。いくつか戯曲も書いたことがあるよ」
「そうだったの……」
やはりお兄様に素直に相談をすべきだろうか……私が迷いながら俯いていると、お兄様は羽根ペンを取り上げ、途中まで書きかけの歌詞に注釈をつけていく。
「よかったら参考にしなさい。……あまり遅くまで頑張ってはいけないよ」
穏やかなお兄様の微笑みを見て、急に変に遠慮をしてしまっていた自分が間違っていたように思えてくる。
私の目的はシレーヌ侯国が再びこの国と歩みを共にしてくれるように、想いを伝えること。そのために借りられる手は借りるべきではないだろうか。
私は短く息を吐いて、お兄様を見る。
「……あの、少しだけ質問してもいいでしょうか?」
「もちろん。愛しい妹の音楽のためなら」
それから私は、言い回しの変更に悩んでいた部分や、現在の翻訳した歌詞に不自然な点が無いかお兄様に助言をしてもらった。お兄様は普段通り丁寧に、明快で分かりやすく私の疑問に答えてくれた。
すると、あんなにてこずっていた歌詞の調整が魔法のように完了してしまった。
「……すごい、もう歌詞が出来た……」
「役に立てたならよかった。これで明日からは早く休んでくれるかな」
私が感動している様子を、お兄様は楽し気に見つめていた。お兄様のその様子がエドガーを見ている私と重なって、なんだか恥ずかしく、でもなぜか嬉しい気持ちになる。
「……ところで、この歌を披露する相手は誰なの?」
しかし、お兄様がそう囁いた瞬間、部屋の空気が凍り付く。
お兄様はきっと、勘づいているのだ。この歌詞が、歌が……お兄様の望む目的で奏でられるものではないことを。
ついさっきまで優しく私を導いてくれたお兄様。正直に答えれば不興を買うのは明白だった。……けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「……シレーヌ侯国の大臣と大使様に」
口の中が乾くのを感じる。喉が引きつるのも。
お兄様は何も言わずに私をただ、見つめるのみ。
――やがて、しばしの間のあと、お兄様がようやく口を開く。
「……どういうこと?」
その声がどうしようもなく重く、胸にのしかかる。私はその重圧に抗いながら、どうにか喉から言葉を絞り出す。
「今度シレーヌ侯国との会談があって、その前段の食事会で歌うことになったの」
「『隣国との交渉の場で成果を出す』――そう言っていたが、それがこの歌だというのか」
お兄様は言って、私と一緒に仕上げた歌詞の紙を手に取り、指先に力を込めた。紙がきしむ乾いた音が鳴る。
「お前は政治のために歌うということかな」
お兄様は私に視線を向けないまま、問うた。
私は、その問いがお兄様にとって重大な問いなのだと、張りつめた空気の中で確信した。
……いつまでも怯えてはいられない。私が進みたい道へ進むには、これまでの自分と決別しなくてはならない。
「……人の心を動かすために」
「私は反対だ」
私の言葉を切り捨てるように、お兄様は断言する。
「芸術は純粋でなければならない。思惑や取引の道具に堕とした瞬間、それは神に捧げる祈りではなくなる」
その言葉はまるで神託のような重みがあった。けれど、私はお兄様の言葉をそのまま受け入れることは出来ない。もう進むと、決めたのだから。
「……それでも、自分の歌で何ができるのか、確かめてみたいんです」
お兄様は黙ったまま私を見つめた。私も、その視線をしっかりと受け止め――いや、跳ね返すくらいの覚悟で見返した。
永遠にも感じるような重苦しい沈黙が流れる。
その沈黙は、お兄様によって破られた。
「そうか。……そこまで言うならやってみなさい」
お兄様はそう言って私に微笑んだ。その微笑みはまるで教会の司祭様のように慈悲深く見えたが、私はその笑顔が心からのものだとは到底思えなかった。……お兄様はきっと、心の奥底に怒りを隠している。
「それでは私は失礼するよ。困ったらまたいつでも相談しに来なさい」
そして、お兄様は私の部屋を後にした。閉じられた扉は不自然なほどに静かに閉まった。
歌詞は完成した。お兄様も、私が政治のために歌うことを……少なくとも表面上は、認めてくれた。
――けれど、別れ際の微笑が瞼に焼き付いて、消えてくれなかった。




