第10話 言葉としての歌(1)
お兄様と別れた後、私はすぐに馬車でヴァレンシュタイン邸に向かった。エドガーと別れ際、今日改めて今後どうするかについて話そうと約束をしていたからだ。
ヴァレンシュタイン邸に到着すると、家宰が直々に出迎えてくれた。私は咲き誇る花々に囲まれた小道を進み、庭園の奥にある白い東屋へと案内される。
私が到着すると、エドガーはぱっと笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。そのはしゃいだ様子を見て、なんとなく子犬を連想してしまった。
「リディア! ……昨日は遅かったけど、体調は大丈夫?」
エドガーは私の顔色に目を留めると心配そうに顔を曇らせた。先ほどのお兄様とのやりとりを見透かれそうな気がして、私は意識して笑顔を浮かべる。
「問題ないわ」
「……本当に?」
「大丈夫。心配しないで」
「ならいいんだけど……」
私は話題をそらすように、ふと東屋に目をやった。庭園の東屋にしては格式のある大ぶりなテーブルが置かれていて、その上にはティーセットやティースタンドはもちろんのこと、様々な料理やお菓子が所狭しと並べられていた。
「これ、どうしたの? これからここでパーティーでも開かれるのかしら?」
「いや、リディアが来てくれると思ったらつい気合いが入ってしまって……」
私が尋ねると、エドガーは苦笑しながらそう言った。気合を入れるにしても、入れ方がちょっとずれている気がする。でもそのずれ方が彼らしく感じて、つい吹き出してしまった。
「このスコーンを頂くわ。それと紅茶も」
「わかった。それじゃあ、紅茶を淹れよう」
言うと、エドガーは手ずからティーセットで紅茶を淹れてくれた。その動きは手慣れているとは言い難かったが、丁寧に淹れようとしてくれているのがその手つきから伝わってくる。
「さあ、どうぞ」
紅茶を一口飲むと胸のあたりがじんわりと温かくなる。彼の優しい気持ちが流れ込んできたようで、心の奥の緊張が静かにほどけていく。
「さて、それじゃあこれからのことを話しましょう」
紅茶とお菓子を頂いて一段落してから、私は本題である『隣国との会談』に話を向けた。
「そうだね。まず、隣国のシレーヌ侯国との会談は1週間後に予定されている。議題は色々あるけれど、兄上が昨日言っていた『鉄の輸入』に関する協定が主題になる予定だ」
「『鉄の輸入』……シレーヌ侯国は小国ながら鉱山資源に恵まれていると聞いているわ」
エドガーは私の言葉に一つ頷く。
「その通り。最近は平和な時代が続いているけれど、その代わりに各国とも産業の発展に力を入れている。この国は近隣に比べて技術力に優れているけれど……それでも新技術の開発や導入は喫緊の課題で、鉄の安定確保が必要な状況だ。そこで、シレーヌ侯国との関係強化が近頃の外交課題になったというわけ」
エドガーは穏やかに、けれど淀みなくシレーヌ侯国との会談の背景について語ってくれた。ジークフリート様からは公務を怠っていると言われていたけれど、きっと彼なりに国のことを考えてきたのだろう。
「……すごいわねエドガー。私なんて、歌のことしか知らないのに」
お兄様に言われるまま、歌うことしか考えてこなかった自分が小さなものに思えてきて、つい卑屈なことを言ってしまう。けれど、私の言葉にエドガーは困ったように笑う。
「……いや、本当は全然詳しくないんだ。今回は婚約のために頑張って調べただけ」
「本当に? でも昨日、『近隣の国と友好を深めるためには私の歌が武器になる』と言っていたわよね。それを聞いて、もしかしてそのために私の歌を応援してくれていたのかと……」
私の言葉を遮るように、エドガーは手を振って否定する。
「違うよ! それは順序が逆なんだ」
「順序が逆?」
「君の歌を好きになったのは、純粋に君の歌が素晴らしかったから。けど、そう言っても理解してくれない人も多いから、いつもああやって言い訳をしてるんだよ」
まさかそんな理由だったなんて……彼のまっすぐさに、不意を突かれた気がした。まさか『歌が好き』が先で、その言い訳に『国のため』をくっつけてしまうとは……私が考えているよりエドガーはずっと大胆な人なのかもしれない。
「そうだったの……」
「素晴らしい行いには理由なんてあとからついてくるものさ」
そう言って、エドガーはティーカップを口にする。私もそれに倣って一口。温くなった紅茶からはそれでも、若々しい冴えた香りが感じられた。
「……やっぱり、あなたってちょっと不思議な人」
「そ、そうかな……? 変なこと言ったかも……」
「いいえ。話していると不思議と元気になれるなって、そう思ったの」
私がそういうと、私の歌を聞いた後のような、明るい笑顔を浮かべてくれた。ここまでわかりやすく嬉しそうにしてくれると、こちらもつられて頬が緩んでしまう。
「それで、私は1週間後の会談で何をすればいいの?」
「もちろん、歌を歌ってほしい。この国とシレーヌ侯国の絆を思い出させてくれる、そんな歌を」
彼のその言葉に、私は意志を込めて頷く。
(……今の私には歌しかない)
『無垢な偶像』――お兄様に言われた言葉が、まだ胸の奥に澱のように残っている。
けれど今、エドガーは『何かを伝える手段としての歌』を私に期待してくれている。
この歌で、誰かに確かな想いを届けてみたい。
そして、人を、国を、世界を動かしてみたい。
ただの思い上がりかもしれない。傲慢だと、笑われるかもしれない。
それでも。
私は、私の歌の力を信じてみたい――そう思った。




