第1話 銀のフィロメラは今日も歌う
「それでは、社交界の偶像──『銀のフィロメラ』こと、リディア・アルブレヒト様にアリアを歌っていただきましょう」
このサロンの主である王妃様の声に導かれ、私は用意された小さな舞台に進み出る。
舞台に立つとき、私はいつも心の中に月を浮かべる。
静かな夜空にたたずむ満月を思い描くと、不思議と心が落ち着いて、歌に集中できるから。
けれど今日は、その月の光も私を守ってはくれなかった。最前列、中央の席に──婚約者のエドガーが座っているのだ。
いや、彼が私の歌を聴きに来るのはいつものこと。問題は、彼の様子だった。
腕を固く組み、唇はまるで線を引いたように閉ざされている。じっとこちらを見据えるその顔には、何かを堪えているような緊張感が漂っていた。そして、目元にはどうしてか見逃せないほどの赤みが残っている。
会場の空気がじわじわと重くなっていく。
ざわめき、視線、そして──嘲りにも似た薄笑い。
(歌いなさい、リディア。あなたの意思でここに立ったのでしょう)
私はゆっくりと息を吸い、アリアの第一声を放つ。
〈Caro mio ben... credimi almen...〉
(いとしいひとよ……私を信じて……)
……今の私にとって、なんて皮肉な歌詞なのだろう。
序盤をうたい上げ、ふと後方の席で囁き合う貴婦人たちに目が行く。私を詮索するような眼差しで見る彼女たちが手にしているのは恐らく……
(『薔薇の手記』ね)
薔薇の手記。正体不明の貴婦人が執筆し、社交界に回覧されているゴシップ文書。最近の薔薇の手記では、私の名が頻繁に登場していた。
『銀のフィロメラに不貞の疑惑? 彼女を溺愛していたエドガー・ヴァレンシュタインが彼女を見限ったワケとは』
使用人に聞いた不名誉な見出し文字が脳裏に蘇る。私に不貞の疑惑? 馬鹿げている。しかし、エドガーが数日前から急に態度を変え、私に会ってもくれなくなったのは事実だった。
かつてエドガーが私に夢中になっていたことは、社交界でも広く知られていた。私が歌うと聞けばどこにでも現れ、惜しみない拍手を送ってくれた。舞台に立つと、山のような花を贈ってくれた。婚約が決まったときなど、文字通り卒倒して喜んでくれていた。
……幼い頃、エドガーが一人で歌っていた私に拍手をしてくれたときのことを、今でも覚えている。あの人は、私の最初の聴き手で、最も熱心な信奉者だった。
そんな彼が今や、私を見ようともしない。周囲が「私が何かしたのでは」と邪推するのは無理からぬことだろう。
好奇の視線にさらされながらも、それでも──私は歌う。
私は「銀のフィロメラ」。
社交界の誰よりも、美しく、強く、そして……舞台でだけは、決して沈まぬ存在なのだから。
――けれど、私の歌が終わった途端、エドガーは逃げ出すようにその場を立ち去った。