09 お互い優先したい人を
このまま隔離病棟に閉じ込められ、ただ時間が過ぎていくのは耐えがたい。
無機質な壁、冷たい床、シミのついた天井。何もない部屋にいると、時間が止まったような感覚がする。
この部屋から出るために、猫の手でも孫の手でも借りたいと思っていたところに、サミュエルの言葉が甘い誘惑のようにオーガスタの耳に響いた。
「それはつまり、ここから出してくれるってこと……?」
「ああ、そうだ。それから、君がネフィーテ様の近衛騎士になれるよう斡旋もする。王女様が協力してくださるそうだ」
サミュエルは自信に満ちた表情を浮かべ、その瞳の奥に狡猾さが見え隠れしている。
すぐにでも飛びつきたい提案だが、相手はサミュエルだ。信用はできるはずもない。先ほどサミュエルが取引に来たと言っていたが、何を求めてくるのか、オーガスタには分からなかった。
期待と警戒が交錯する胸が、重くなっていく。
「ただし、条件がある」
オーガスタは唇を引き結び、どんな条件を提示されるのかと身構えた。
サミュエルは言った。
「もう一度俺と婚約し、持参金を俺の実家の金に返済に充ててほしい」
「は……? 婚約解消した原因を忘れたの? だってあなたは、不貞を働いた。それなのにまた私と結婚しようなんて無責任じゃないの? 王女様にも不誠実だよ」
「彼女もすでに納得してくれている。もうこれしか……方法がないんだ」
マキシミルア侯爵家は財政破綻寸前だった。オーガスタの持参金をあてにして、サミュエルを含む一家は、性懲りもなく散財を続けていたという。借金の額は、オーガスタが数年前に聞かされた額より更に膨れ上がっていた。彼にとってオーガスタの持参金が唯一の解決策だというように、平然と無礼を口にする。
また、王女アデラの不貞は、国王の信頼を大きく損ね、周囲にも失望を与えていた。
特に国王は、王家の名誉に傷がついたことを重く受け止め、アデラに責任を取らせることにした。
実はアデラには、異国の王子との縁談が持ち上がっていた。その王子はアデラに心酔しており、両国の友好関係のためにその婚姻が期待されていた。婚姻を強く望んでいた廷臣たちは、アデラの不祥事に失望し、国王の教育に問題があったのではないかと不満を漏らしている。
「俺たちは今回の件で随分と非難されている。頼れるのは、君しかいないんだ。まさか、こんなことになるなんて……」
サミュエルは頭を抱え、ため息を吐いた。一時の恋に溺れた結果、ふたりは多くのものを失った。
国王は娘の尻拭いをせず、アデラとサミュエルの力で生きていけと言い放ったそうだ。もちろん、マキシミルア侯爵家の借金についても助けないという意向らしい。
「それで、私に肩書きだけの妻になってほしいってわけか」
「……話が早くて助かる」
「そんな、都合の良い話――」
オーガスタがただのお飾りの妻になり、アデラは愛妾となる。アデラとサミュエルにとっては、借金問題を解決し、美味しいところ取りだ。結局、ふたりは自分たちの行動の責任を他人に押しつけ、なんとかしてもらおうとしているに過ぎない。
ここまで恥知らずだと、いっそ清々しさすら感じる。しかし、サミュエルはオーガスタの反応を遮り、畳み掛けてきた。
「君の父親は、君の洗脳が解けるまで、治療を続けるとおっしゃっていた。このまま永遠に隔離されていくつもりか?」
「それは……嫌だ」
願わくば、ネフィーテの力になりたい。そのためには、少なくともこんな場所にはいられない。
「なら、俺との取引に応じるべきだ」
「…………」
「俺の条件さえ呑んでくれるなら、君が仮に怪物に洗脳されていたとしても構わない。どうだ?」
弱みにつけ込んでくるとは、サミュエルは卑怯な人だ。
オーガスタは沈黙した。何が正しい選択なのだろうか。自分の気持ちを偽って父の言うことを聞き、大人しくしているのが本当に正しいのだろうか。
(父上のことも大切だけど、ネフィーテ様のことをやっぱり放っておけない。もう一度、話をしに行こう。分かってもらえるまで話そう)
覚悟を決めたオーガスタは、足の拘束具を手で強引に引きちぎる。
力ずくで拘束具を壊したオーガスタを見て、サミュエルは唖然とした。
「お、おい……っ」
オーガスタは寝台から立ち上がり、サミュエルのことを冷徹に見下ろしながら告げる。
「いや、サミュエル様の力は借りない。自分で父上を説得するよ」
裏切り者であるサミュエルに協力してもらうのは、ごめんだ。今後も彼に利用されながら肩書きの妻でいるなんて、冗談にも程がある。
はっきりとそう答え、サミュエルが解錠したままの扉から部屋を出た。扉の隙間から、茫然としている彼に最後に言葉を投げかけた。
「これからは、好きなだけ王女様を優先して差し上げてください。ただし、私も好きにさせてもらうから」
「待て、どこに行く気だ!?」
ガチャリ。オーガスタはサミュエルを閉じ込め、鍵を閉めた。
「*¥$+÷×<……っ! <=%#°¥€€」
閉じ込められたサミュエルは、激しく扉を叩きながら、何かを訴えている。しかし、この扉は分厚いため、何を言ってるか全く聞き取れなかった。
(この扉が開くのは、看護師が巡回に来る数時間後。それまで猶予がある)
恐らく誰かが来ても、オーガスタが暴れているのだと思って、相手にしないだろう。この隔離病棟では、扉を叩いたり叫んだりする患者が珍しくないからだ。
サミュエルがオーガスタの脱走を施設の人に知らせる前に、ここを離れなくては。
◇◇◇
オーガスタは王国騎士団を訪ね、父ダクラスとの面会を求めた。しかし彼は昨夜から王宮での任務に当たっているらしく、不在だった。
そこで父に会うべく、夜会以来となる王宮へと向かった。
「嫌ね、怖いわ」
「本当に。どうにかならないのかしらね」
オーガスタが、ネフィーテと再会した開放廊下を歩いていると、メイドたちがネフィーテが暮らす高い塔を遠くに見ながら、ひそひそと話をしていた。
「すみません。ダクラス・クレートが王宮に来ていると伺ったのですが、何かご存知ですか?」
「「……」」
ふたりは顔を見合わせ、しばらく間を置いたあと、そのうちのひとりが、塔の方を指差しながら言う。
「本日は第四王子殿下の警護をなさっておりますよ」
「そうですか、ありがとうございます。そちらに行ってみますね」
「お、お待ちください! 塔に今行くのは、やめたほうがよろしいかと……」
「どうしてですか?」
「第四王子殿下は、その……心の病気を抱えていらっしゃいます。危害を加えるかもしれないからと、私たち使用人は塔への接近を禁じられているんです。本日はなんでも、病気による発作が起きているらしく、暴れて手をつけられないと……。それで、ダクラス様が呼ばれたそうです」
そのとき、塔の方から男の叫び声が漏れ聞こえて、メイドたちは顔をしかめた。
(発作――まさか……吸血衝動!?)
吸血鬼は人の血を吸うことで活力を得ているが、定期的に血を摂取し続けなければ発作が起き、壮絶な肉体的苦痛を伴いながら血を求めるのだ。
「私たちとしては、王宮ではなく、きちんとした施設で治療を受けてほしいんですけど……」
だが果たして、吸血鬼を預かってくれる施設など見つかるだろうか。
「そのうち脱走して、私たちを襲ってくるんじゃないかって心配で……。ねぇ?」
「ええ、そうね。……ところであなた、その格好は……?」
メイドたちは、オーガスタの入院服を上から下まで観察した。まさかオーガスタが、つい先ほど精神病院を脱走してきた患者だとは思わないだろう。
オーガスタは彼女の質問に答えず、忠告も無視して急き足で塔へと向かった。