06 心が震える再会
オーガスタは夢を見ていた。深い闇が広がる森の中、少女だったオーガスタが必死に走っている。密林を駆け抜け、時々枝が肌を掠めて柔らかな肌に傷を刻む。遠くから足音が凄まじい勢いで迫ってきて、まもなく追いついた誰かがオーガスタの肩を掴む。
『逃げても無駄だ。――血を寄越せ』
振り向くと、銀髪に赤い目を鋭く光らせた男が、牙を剥き出しにしてこちらを見ていた。それらは、吸血鬼の特徴だ。吸血鬼は冷酷非道で、人間の血をすする野蛮な種族。近づいたら最後、命はないと言われている。彼は大きく口を開き、顔を近づけてきた。
『ひっ……嫌だ、ぅ、う……』
◇◇◇
「うわあああああぁああっ!?」
オーガスタが次に目覚めたとき、寝台で見知らぬ天井を見上げていた。吸血鬼に襲われる夢を見たオーガスタは、思わず叫び声を上げる。
(ここは……!?)
勢いよく半身を起こして、状況を整理する。確か、王宮の開放廊下から塔の出窓に座っているネフィーテの姿を見かけて、その後倒れたはずだ。しかし、どうして寝台に寝かされているのか。親切な誰かが運んでくれたのだろうかと辺りを見渡したとき、その人の姿を視界に捉えた。
「あ、気づきましたか。大きな声を上げて、大丈夫ですか?」
低くて穏やかな声が、オーガスタの鼓膜を心地よく震わせる。
長く伸びた銀色の髪に、陶器のようななめらかな肌。
彫りが深く美しい輪郭に、完璧に整ったパーツがバランスよく配置されている。筋の通った鼻梁に薄い唇。そして長いまつげが縁取る瞳は、太陽のような燃える赤色をしていた。
「は……い。平気です」
「よかった」
ネフィーテはふわりと柔らかく微笑みながら、こちらに歩み寄った。
「突然倒れたので、びっくりしましたよ。放っておくわけにもいかず、ここに運んだんです」
「ここは……?」
「王宮の医務室です。君が倒れたことは夜会の参加者に伝えたので、お連れの方がそのうちこちらにいらっしゃるでしょう」
「親切にしていただき、ありがとうございます」
「いいえ」
彼は気さくで優しい人だ。昔と変わらない。
オーガスタは緊張して、彼と目を合わせることができなかった。
(ちゃんと普通に……話せてる、かな)
鼓動が激しく胸打ち、どきどきと音を立てている。
まだ、この事態を受け入れきれていない。前世で慕っていた相手と、こんな風に再会を果たすなんて……。
遠慮がちに視線を動かしてネフィーテの目を見つめると、彼は優しげに微笑んでいた。
百年前と何も変わらない、雲間から差し込む光のような、あるいは木漏れ日のような、どちらにせよとても優しい笑顔だ。
オーガスタは百年前、ネリア王国の卑しい孤児だった。女性として生きると売春に利用されたり過酷な運命が待っていたため、性別を偽り男として生きていた。あるときネフィーテに拾われ、育てられた。
当時の彼は、この国の王子という肩書きだった。なぜ彼が吸血鬼でありながら王位継承権を与えられているのか、ネフィーテは詳しく話してくれなかった。
百年経った今、ネフィーテが変わらぬ姿のまま存在しているのは、吸血鬼――悠久の時を生きる者だからだ。
ネフィーテは長い時間を、吸血衝動を抱えながら孤独に生きてきた。
そして、ネフィーテにとって唯一の人間の話し相手が、彼が気まぐれに拾った孤児だった。
前世の記憶がよみがえる中、ネフィーテが突然、食べ物の山を抱えてこちらに差し出した。
「あ、あの……?」
「お腹、空きませんか? お嬢さんの好みが分からなかったので、目についたものを全部厨房からいただいてきました。こっそりね」
「こっそり」
それはつまり、盗んできたということだろうか。ネフィーテは食べ物の山をこれみよがしに見せつけ、その中からりんごをひとつ取ってオーガスタに握らせた。
「ほら、このりんごなんて熟れていて美味しそうです。ああ、それから……このことは内緒にしてくださいね」
人差し指を唇の前に立てて、彼はいたずらっぽく笑った。
「開放廊下に立っている君を見かけたとき、随分悲しそうな顔をしていました。何があったかは分かりませんが、落ち込んだとき人は、美味しいものを食べると元気が出るものですよ」
「実は、婚約者に浮気されて……」
思わず、彼に話を聞いてほしくなった。
オーガスタは、婚約解消を告げるに至るまでの経緯をかいつまんで説明する。
(ネフィーテ様、私がノエだって気づいてないみたい)
ノエは、百年前に彼から与えられた名前だ。オーガスタは前世と異なる見た目をしているので、再会に気づかないのだろう。ノエにとってネフィーテは世界そのもので、自分の命より優先すべき存在だった。しかしノエは、大人になりきる前に死んでしまった。
――吸血鬼に、殺されて。
あの夢はまさに、ノエが殺されたときの記憶だ。ネフィーテに拾われて幸せだった記憶とともに、吸血鬼に殺された壮絶な記憶もよみがえってしまったのである。吸血鬼は恐ろしい存在だ。けれど、目の前にいるこの人は違う。たとえ自分を殺した相手と同じ種族だったとしても、ネフィーテを慕う気持ちに一点の濁りもない。
婚約解消までの話を聞いたネフィーテは、同情の色を浮かべて眉をひそめた。
「それは辛かったですね。よく辛抱しました。きっと、これからは輝かしい未来が待っていますよ。君に素晴らしい出会いがありますように」
ネフィーテはこちらに手を伸ばし、頭をぽんと撫でた。頭に感じるずっしりとした愛おしい重みに、心にじんわりと温かいものが広がっていく。百年前と変わらない、オーガスタを安心させる手だ。
慰めてくれる彼の声が優しくて、鼻の奥がツンと痛くなる。そのうちに、涙が零れ出した。堪えようとしても、とめどなく熱いものが流れていく。
泣き出してしまったオーガスタを目の当たりにして、ネフィーテは眉を上げた。そして、はっと思いついたように「そうだ、ハンカチ……」と呟きながら、ぺたぺたとズボンを探り始めた。
(お辛かったのはあなたの方でしょう。私なんかより、ずっとずっと、辛抱してきたのでしょう? ネフィーテ様……)
ネフィーテは人間よりはるかに長い寿命を持つ吸血鬼だ。吸血鬼といえば、人間から無理矢理血を奪い、生きる糧にすることで恐れられる存在。狡猾で意地が悪く、人を傷つけるのをいとわないとされている。
しかし、ネフィーテには吸血鬼の性質である凶暴性が一切ない。優しくて、理性的で、人を傷つけまいと吸血衝動に必死に抗ってきたのだ。
ネフィーテ・フェルシスは現在、第四王子という肩書きで王宮にいる。百年前も、吸血鬼ということは世間に知らされず、国家の監視対象として塔に幽閉されていた。心優しいネフィーテは、外に出て人を襲わないように、閉じ込められる生活を甘んじて受け入れていた。彼はただ、その監視の中で孤独に耐えていた。
恐らく今も、百年前と変わらず国家の監視対象として塔に幽閉されているのだろう。あくまで公には病弱という理由で、社交界に全く顔出さない。
(王宮でひどい目に遭ってはいませんか? 睡眠はとれていますか? 寂しい思いは、していませんか?)
質問したいことは山ほどあるのに、どれも声にならなかった。代わりに、涙が次から次へと零れ落ちていく。
ネフィーテはハンカチをこちらに差し出した。
「さぁ、これを使いなさい。……その涙を止めるために、私にできることありますか?」
オーガスタはハンカチを受け取らず、よろよろと寝台から立ち上がる。そしてそのまま、床に座り、手と額を突けた。
つい先ほどまで、婚約解消したあとどうしたらいいのかと悩んでいたが、今は自分のやりたいことがはっきりと分っている。
「私はクレート公爵家が娘、オーガスタと申します。婚約解消が成立すれば、図らずも私はしがらみのない自由の身になります。そのとき、どうか、どうか……私をあなたのお傍に置いてください」
オーガスタは吸血鬼の赤い双眸を見据え、願いを告げた。
「私を――近衛騎士にしていただけませんか」
「……!」
そんな突拍子もない懇願をするオーガスタに、ネフィーテは驚いて言葉を失っていた。
家督の継承者は兄に決まっているし、父も娘のやりたいことを尊重してくれるはずだ。
けれどこのときのオーガスタは、恩人との再会を喜ぶあまりに、人々に恐れられる吸血鬼に仕えるということを、少し……いやかなり、軽く見ていたのである。