05 婚約解消の決め手
「もう……誰かが来たらどうしますの?」
「心配無用ですよ。きっと暗くてよく見えません」
「それに、このようなことをしていては、オーガスタ様に叱られてしまいますわよ」
「今夜彼女は来ないから平気です。手紙を出しておいたから。それより今は――俺のことだけ考えていてください」
月明かりの下、互いに夢中になっているサミュエルとアデラは、オーガスタの存在に気づいていないようだ。サミュエルはアデラの豊かな胸に手を添え、今にもドレスをはだけさせようとしている。
(もう――限界だ)
その瞬間、心の中で何かがプツン、と切れる音がした。
一緒に過ごしてきた中で育んだ情さえも、音もなく崩れ去り、どこかに消えてしまった感じ。
オーガスタが何よりも許せないのは、嘘を吐いていたことだった。王女のことを愛していないと言っていたのに、彼の熱を帯びた目は愛する相手を見る目そのものだった。そしてその唇は、婚約者であるオーガスタには一度も語られることがなかった愛の言葉を、アデラに向けて紡ぐ。
「――見えてるよ」
静かに一言そう告げて、一歩踏み出す。振り返ったサミュエルは、こちらの姿を見て驚愕とともに青ざめた。
「オーガスタ嬢!? ど。どうしてここに」
「それはこっちのセリフだよ。どうしてこんな場所で、こんなことしてるの?」
彼の胸ぐらを掴んで引き寄せ、威圧するように顔を覗き込めば、ぐっと喉の奥を鳴らす音が漏れ聞こえた。
「て、手紙を読まなかったのか? 今日は仕事があるから欠席してくれと、伝えたはずなのに……」
「読まずに破り捨てたよ。それに父が代わりにパートナーとして参加してくれたから」
窓の向こうから、オーケストラ楽団の優雅なワルツが聞こえてくる。
「そう。私を騙して、ふたりで楽しむつもりだったってわけ。呆れた」
「それ、は……」
あちらこちらに視線をさまよわせるが、彼が言い訳の言葉を見つけることはできなかった。
オーガスタは彼の胸を離し、冷たく言い放った。
「婚約解消しましょう。サミュエル様」
「だめだ……っ、それはできない……」
情けない顔をして、子どもがいやいやと駄々をこねるように、首を横に振る彼。浮気現場を見られておいて、なんと往生際の悪いことか。
「君以外との結婚なんて考えられない。頼む、考え直してくれ……! 信頼を取り戻せるように、これから努力するから!」
「それは借金返済のためでしょ?」
「!」
どんなに説得されようと、オーガスタの決意は揺るがない。一度挽回の機会は与えたのに、全く変わらなかったのはサミュエルなのだから。
すると、サミュエルの陰に隠れていたアデラが口を挟む。
「借金とは……なんのことですの?」
「彼の実家は多額の借金を抱えていて、彼が生涯夫として務めを果たす代わりに、クレート公爵家が全額返済する約束だったんです。ご存知ありませんでしたか?」
「知りませんでした。そんな……っ。では、オーガスタ様と別れて、わたくしと結婚してくださると言ったのは、嘘だったの……?」
「今の彼の姿を見ればお分かりになるかと」
サミュエルは気まずそうな顔をして黙り込んだ。
まさかサミュエルが、ここまで浅はかな男だったとは。
確かに、アデラが言ったように、サミュエルはアデラのことを愛しているのかもしれない。けれど、彼は愛よりも借金返済の方が大事なのだと、彼の反応が物語っている。
「あんまりですわ……。これからふたりで幸せになれると信じておりましたのに」
彼女はすっかり被害者のような態度で両手で顔を覆い、泣き崩れた。サミュエルのような薄情な男に騙され、気の毒に思う部分もあった。しかし、不貞を働いたのだから自分自身の責任だ。
そしてアデラの横で、サミュエルは魂が抜けたように沈黙していた。
「後日、マキシミルア侯爵家に婚約解消の正式な申し入れをするから。――さよなら」
オーガスタはそんなふたりに背を向け、バルコニーを後にした。
◇◇◇
オーガスタは広間を離れ、王宮のだだっ広い廊下をあてもなく歩いていた。心を落ち着かせるためにバルコニーに出たのに、心は揺れ続けている。
ひとりで歩いていると、通行人たちがちらちらとこちらを見て内緒話をした。
「あら、あの人すごく背が高いわね」
「あの方って、確か……」
「男顔令嬢、じゃなかったかしら? 確かに、男性みたいなお顔立ちね。女性でなければ引く手あまただったでしょうに」
オーガスタは平均的な女性より頭ひとつ分背が高いせいで、存在感が際立っていた。加えて、公爵令嬢という立場があって、より注目の的になってしまうのだ。
まとわりつくような品定めの眼差しに辟易しつつ、天井がない開放廊下を見つけ、今度こそ人がいないことを確認してから足を踏み入れる。手すりに腕を乗せると、夜風に晒された大理石は冷たくて、肌の熱を奪っていった。
オーガスタは小さくため息を吐き、顔を伏せた。今も脳裏に、口付けを交わすサミュエルとアデラの姿が焼き付いている。裏切られたことは悲しかったが、同時に自分が情けなく思えた。
(もし、私が王女様みたいに女の子らしかったら、こんな結末にならなかったのかな。私は、誰とも愛し合えないのかな)
オーガスタは異性を好きになったこともなければ、好かれたこともない。『男顔令嬢』などと揶揄される自分は、一生、異性の誠実な愛を知ることなどないのかもしれない。
(これから、どうすればいいんだろう)
新しい婚約者を探すのも乗り気ではないし、他にやりたいことも何もない。
心が、ざわざわと揺れ動く。そして次第に、諦念が広がっていく。
そのとき、ひときわ強い風が吹いてオーガスタの短い髪を揺らした。顔にかかった髪を耳にかけ顔を上げると、ある人の姿が目に留まった。
開放廊下の近くに佇んでいる古い塔。その出窓に美しいひとりの男が座り、夜空を見上げていた。
月明かりに照らされた艶やかな銀髪が風になびく。
すると彼が、ゆっくりとこちらを振り向いた。彼の赤い瞳と視線が交錯した瞬間、オーガスタの心臓がどくんっと大きな音を立てた。
頭のてっぺんから指先まで、雷が駆け巡るような衝撃を受ける。全身の血が沸騰するように熱くて、くらくらと目眩がした。
(何が、起きて……)
自分の身に起こっていることが理解できず、当惑に当惑を重ねる。しかし、ひとつだけ確かなのは、自分が彼にどうしようもなく惹き付けられ、目を逸らせずにいることだった。
(苦しい。あの人を見つめているだけで、胸が張り裂けそう……っ)
その刹那、オーガスタの頭にさぁ……と前世の記憶が流れた。
心臓が全く言うことを聞いてくれず、どくん、どくん、と激しく音を立てながら加速していく。胸を片手で抑え、その場に崩れ落ちる。
そして、前世の自分が何よりも恋い焦がれ、愛していた人の名を思い出した。
「ネフィーテ、様……」
そう呟いたあと、オーガスタは意識を手放した。