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25 朝焼け ※ネフィーテ視点


 晩餐会の数日後。ネフィーテは自室でひとり、罪悪感に苛まれていた。吸血鬼になって以来、誰かに牙を立てることを拒んできた。しかし、オーガスタが目の前で服を脱ぎ、白い肌を見せて『自分の血を飲んでください』と切願してきたとき、ネフィーテの中で自制心が弾けた。


 気がつくと、彼女の柔肌に噛み付いていた。


 ネフィーテは図書室で本を読みながら、本棚をぼんやりと見つめた。毒を飲んで暴れたせいで少し散らかっていたが、ほぼ片付いている。思い出すのは、ノエがここで暮らしていたときのこと。

 ノエがあるとき、図書室で服を着替えていた。


『ノエ――』


 呼びかけた直後、ノエの姿を見たネフィーテは思わず本棚の影に隠れた。彼女は服の下にサラシを巻いていて、明らかに男性と違う胸の谷間が覗いていた。彼女はきょろきょろと辺りを見渡し、ネフィーテの声を聞き間違えたと思って、着替えを再開する。


『空耳……か』


 ネフィーテはそのとき、ノエが――女であることに気づいた。確かにずっと、違和感はあった。しっかり食べているのにひょろっとしていて、身長の伸びも遅く、筋肉はほとんどつかず丸みを帯びていた。まだ大人になりきれてはいないが、少女は成長しつつあり、女性らしい特徴が強く現れ始めていたのだ。


 よく考えてみれば、孤児が女性として生きることは危険が伴う。例えば、人身売買では少女の方が価値がつきやすい。だからノエは、身を守るために性別を偽り、男として生きることに慣れていたのだろう。


 ノエが吸血鬼に殺されたあと、遺体を確認すると、やはり女性だった。ノエの意思を尊重し、ネフィーテはノエを少年として扱い続けた。この秘密は、ノエを知る人間がいなくなっても、死ぬまで守っていくつもりだ。しかし、ネフィーテにも墓場まで持っていくべき秘密があった。


 それは、少しずつ成長していくノエを、ひとりの女性として愛してしまったことだ。





 ◇◇◇





「――タ。オーガスタ」


 休暇が明け、近衛騎士の仕事に戻ってきたオーガスタは、最近何かを悩んでいるようだった。考え事ばかりして、話しかけても上の空で返事が返ってこないことがしばしば。普段なら、ネフィーテの一語一句を聞き逃さないように常に耳をそばだてているのに、彼女らしくない。


 ネフィーテは音楽室でピアノを弾いていた。部屋の片隅でぼんやりと立っているオーガスタに声をかけたが、何度名前を呼んでも反応がない。五度目の呼びかけで、ようやく彼女の意識を、想像の世界から現実に呼び戻すことに成功した。


「あ……すみません。なんですか?」

「ぼんやりしていたので、気になって声をかけただけです。最近、何か悩んでいますか?」

「はい、少し……でも大丈夫です! 心配しないでください!」


 オーガスタは両手を振りながら心配無用だと言い、悩みの内容を打ち明けてはくれなかった。


 実はここのところ、ネフィーテにも悩みがある。それは一週間後に控えた、ネフィーテの花嫁選びについてだ。

 ネフィーテは『花嫁』という名ばかりの犠牲者をひとり選び、新しい爵位を与えられるか、どこかの家に婿入りして、体よく王宮から追い出されることになるのだ。


 王命とあらば、結婚するのは構わない。どうせ結婚は書類上だけで、これまでのように人とかかわらず幽閉される生活が待っているだけだろう。だが、ネフィーテの気がかりは――オーガスタだった。


(どうしたものか。いつの間にか私は――彼女を愛してしまった)


 本当に年甲斐もなく、自分はオーガスタという女性に恋をしている。

 先日彼女から吸血したとき、彼女を傷つけずに血を採取する手段はあったのに、首筋に触れたいという欲を抑えられなかった。


 しかし、あんな風に尽くされ、慕われたら、好きにならずにいられる方が不自然ではないか。もっとも、オーガスタの好意は恋とは違う、敬愛のようなものだろうが。


 数日前に、王女アデラが塔を訪ねてきて言った。


『これまでの苦悩はお察しいたしますわ。わたくしがこれからは支えて差し上げます。ですから、わたくしを花嫁に選んでくださいまし。あなたに一目惚れいたしました』


 突然押し掛けてきたアデラは、ネフィーテの容姿や不死の力、本能に抗う精神力などを褒めそやし、求婚してきた。彼女のようにネフィーテに近づいてくる存在は珍しく、貴重だ。


 だが、アデラはオーガスタの婚約者を奪った相手だ。優しいオーガスタを傷つけたであろうアデラに、心を許すことはできない。


『……何が目的ですか?』

『はい?』

『私に近づいた目的ですよ。さっきから手、震えていますよ。一目惚れしたというのは嘘ですね? 本当は私のことが怖いのでしょう。そうまでして、なぜ、私に求婚を?』

『別に……なんだってよいではありませんか』


 アデラは動揺して視線をさまよわせたあと、ソファから立ち上がった。そして部屋を出て行く前に、ネフィーテに言い放ったのである。



『わたくしはただ、オーガスタ様の大切なものを奪いたいだけですわ』



 ネフィーテは数日前の回想から意識を現実に戻し、オーガスタのことを見つめた。

 オーガスタとアデラの間にどんな確執があるかは分からない。しかし、アデラの来訪が、オーガスタとの関係を改めて考えるきっかけとなった。


 オーガスタがネフィーテのことを大切に思っていることは、よく伝わっている。しかし、こうして彼女を自分のもとに留めておくことが、果たして彼女にとって幸せなのだろうか。オーガスタは若く、魅力的だ。だからこそ、騎士としての仕事にとどまらず、人並みの幸せを得てほしいと思う。


「私では力不足かもしれませんが、悩みがあればいつでも相談してください。吸血鬼も、話を聞くことぐらいはできるので」


 するとオーガスタは少し迷ってから、ピアノの椅子の近くまで歩み寄り、遠慮がちに口を開く。


「せ、先日……王女様と何を話したのか、教えてくれませんか」

「いいですよ。ずっと立っていて疲れたでしょう。そこに座りなさい」


 ネフィーテは左に寄り、ひとり分のスペースを開けた。ふたりは同じ椅子を分け合って腰掛けた。


「――求婚されました。理由を聞けば、オーガスタの大切なものを奪いたいからだと」

「そう……ですか」


 ネフィーテはピアノの鍵盤に指を置き、しっとりしたバラードを弾き始めた。ピアノの音に合わせるように、オーガスタは話し始める。


「王女様は子どものころ、私の父のことが好きだったんです」


 だから、アデラは娘のオーガスタに嫉妬して、嫌がらせをするようになった。男顔令嬢というあだ名を社交界に流したのもアデラだった。だが、オーガスタを貶めたことが父に知られてしまう。父に失望されたアデラは、怒りの矛先をオーガスタに向けた。


「サミュエル様を奪ったのも、私を傷つけたいという気持ちがどこかにあったのかもしれません」

「でもアデラ王女は、他人の婚約者を奪っても幸せになれなかった。君がこうして生き生きと過ごしているのが、羨ましくなったのかもしれませんね」

「王女様は、昔から私が大切にしているものを欲しがるんです。母からもらった玩具の宝箱や親戚からもらった異国のネックレスとか、私が大事にしていると、『ちょうだい』と言われたのを覚えています」


 隣の芝が青く見えるのはよくあることだが、王女には他人のものがとりわけ魅力的に映るのだろう。


「今も私……好きな人を王女様に取られるのが、怖いです」


 オーガスタははっと我に返り、口元を手で抑えながら青ざめる。好きな人がいることまで、ネフィーテに話すつもりはなかったのだろう。


「好きな人が、いるんですか?」


 その問いに、返事は返ってこなかった。ネフィーテは一曲弾き終わり、鍵盤から指を離した。


 心がざわめく。オーガスタの想い人がどんな素晴らしい相手なのか知りたかったが、聞いたら自分が傷つく結果になっていただろう。オーガスタが答えないことが、むしろよかったかもしれない。


「君も弾きますか?」

「……いや、私は弾けないので」

「音を鳴らしてみるだけでも楽しいですよ」

「じゃあ……」


 オーガスタは遠慮がちに右手を伸ばし、ポロン、ポロン、と適当な音を鳴らし始めた。つい、彼女に教えたくなって、彼女の手に自身の手を重ねて囁く。


「ピアノはね、こうやって指を丸めて弾くんですよ」

「……!」


 ネフィーテの手が触れた瞬間、彼女は勢いよく手を引っ込め、こちらを振り向いた。オーガスタの顔は、真っ赤に染まっていた。


「え……」


 思わぬ反応にネフィーテが戸惑いの声を漏らすと、オーガスタは顔を逸らして、誤魔化すようにあえて明るい声で言った。


「ああ、そうだ! 実は私、一曲だけ弾ける曲があるんです。もう忘れちゃってるかもしれませんが、ちょっと弾いてみてもいいですか?」

「もちろん」


 すると彼女は、右手を鍵盤の上に伸ばし、おぼつかない手付きで演奏を始めた。

 拙い技術ではあるが、優しい音だった。しかし、ネフィーテが驚いたのは、オーガスタがその曲を弾いたことだった。


『先生。この曲はなんていうんですか?』

『朝焼けです』

『朝焼け……美味しそう』

『ふふ、食べ物じゃありませんよ』


 そんなやりとりをノエと交わした記憶が蘇る。


(そんな、馬鹿な……)


 演奏が終わったあと、ネフィーテはオーガスタの両肩を掴み、ぐっと引き寄せた。


「なぜ君がその曲を弾けるんですか!? その曲は一体、どこで覚えたんです……!? その曲は、その曲は――」

(この世界で、私とノエのふたりしか知らない)


 『朝焼け』は、ノエと一緒に朝日を見ているときに、ネフィーテが即興で作った曲だ。楽譜にも書いていないし、ノエ以外に聞かせたこともなかった。


 一方、ネフィーテに突然迫られたオーガスタは驚いて、びくっと肩を跳ねさせた。そして、反射的に立ち上がろうとする。しかし、ネフィーテが彼女の肩を掴んだままだったので、ふたりで床に崩れ落ちる。


「わっ――」

「危ない!」


 ネフィーテはオーガスタが頭を打たないように、抱き庇うようにして倒れた。


「……大丈夫ですか?」

「はい。平気です」


 両手を床について身を起こし、無事かどうか確認した。

 オーガスタは床とネフィーテに挟まれたような格好で、逃げ場をなくしている。ネフィーテは一拍置いてから、もう一度質問を投げかけた。


「あの曲は、私と孤児だった少年のふたりしか知らない曲です。君が知っているはずがない。いや、君は……君は……――ノエなんですか?」

「…………!」


 時々、オーガスタがノエと重なることがあった。姿は全く違うのに、性格やこちらを見る眼差しがよく似ていた。


 すると、こちらを見上げるオーガスタが、頬に涙を流し、声を震わせた。


「……なさい。ごめん……なさい。好きになってごめんなさい。――先生」


 それは、自分がノエであることの肯定だった。ノエはずっとネフィーテのことを師として尊敬し、『先生』と呼んでいた。


「王女様を、選ばないで……ください。ずっと、私だけの先生で、いて……っ」


 腕で目元を隠しながら、ぼろぼろと泣くオーガスタ。一方のネフィーテは、混乱するあまり言葉を失っていた。


(私のかわいい教え子は、ずっと君だけでしたよ)


 ネフィーテはようやく、オーガスタが出会ったときから自分のことを気にかけてくれた理由を悟ったのである。

 オーガスタ・クレートは、百年前にネフィーテが拾った孤児、ノエの生まれ変わりだったのだ。


(探し物は、見つかったんですか)


 聞きたいことが沢山あった。森に何を探しに行っていたのか。ネフィーテを恨んではいないのか。ネフィーテに拾われて幸せだったのか。けれど、それらを尋ねる前に、オーガスタは逃げるように塔から去っていった。


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