23 怪物の正体
ルアンは、正気を取り戻したネフィーテを見て驚愕の表情を浮かべた。剣身を握るネフィーテの手を振り解こうと、力を込めて腕を引こうとしたが、ビクともしない。人間と吸血鬼の力の差は、明らかだった。
「信じられない。なんで君、正気に……? 吸血衝動は、人間の血を摂取しなければ治まらないはず。どの文献にも確かにそう書いてあったのに……っ!」
「オーガスタの声がして、私を現実に引き戻してくれました。吸血衝動は――治まってなんかいませんよ」
ネフィーテには、未だ吸血衝動の典型的な症状が現れていた。牙が伸び、瞳は光を帯びている、吸血衝動に伴う苦痛から、額に脂汗が滲んでいた。
「クソッ、その剣を離せっ。邪魔だ、怪物……!」
「残念ですが、離す訳にはいきません。王を守ることは――私の使命なので」
そのとき、パキンッと音を立てて剣が割れた。剣の破片がぱらぱらと床に落ちていく様子を、ルアンが唖然と見つめる。その光景を遠くで見ていた人々も、剣を折る力技に思わず息を飲んだ。
そこで、国王が口を開いた。
「ネフィーテはフェルシス王家の純粋な血を引く、れっきとした王子だ。――ただし、三百年前の話だが」
「さ、三百年……」
「三百年前、我が国は隣国と領土をめぐって激しく争っておった。そこで、当時二十四歳だったネフィーテ王子は、偶然吸血鬼から力を授かり、不死の肉体を得て、我が国を勝利に導いたのだ。その後も、王家に危難が訪れた際には人知れず力を貸してくれた。例えば――今のようにな」
そこで、ネフィーテが吸血鬼でありながら王子という肩書きを与えられていた本当の理由が、
明らかになった。王宮に留まってきたのは、人間に危害を加えないようにするためだけではなく、王家の血族を守るためでもあったのだ。
オーガスタは、ネフィーテが王家とは無関係の血筋で、肩書だけの王子だと思っていたし、生まれた時から吸血鬼なのだと考えていた。そのようにネフィーテは、ノエに教えていた。きっと、元人間であることを知ったノエが胸を痛めるのを懸念して、真実を隠したのだろう。
(ネフィーテ様が――元人間だったなんて……)
吸血鬼は冷酷非道で凶暴な性質を持ち、人々に恐れられてきた。ネフィーテがなぜ、他の吸血鬼と違って理性的で思いやりがあるのかずっと疑問に思ってきたが、吸血鬼にそぐわないネフィーテの性格は、元々人間だったことに由来するのだろう。
人間はしばしば、不死に憧れを抱く。しかし、実際に悠久の生を手にしても、良いことばかりではない。沢山の大切な人たちに先立たれ、ネフィーテは普通の人間として死ぬことができなかったのだ。
「人間が吸血鬼になるなんて話、聞いたことがない。そんなの、作り話だ!」
「昔は、吸血鬼を熱狂的に信仰する宗教団体がいました。私は彼らの儀式を通して、欲しくもない吸血鬼の力を得てしまったのです。多くの人間を代償とする野蛮極まりない儀式が、たまたま成功して生まれた化け物が――私です」
玲瓏と告げられたネフィーテの言葉に、人々は恐ろしい想像を膨らませて身震いした。戦争が激化した時代に、追い詰められた人間は、困難を打開するために手段をいとわなくなることがある。
化け物と自嘲気味に呟くネフィーテの目は、計り知れない悲壮感が漂っていた。
するとルアンは、歪んだ笑顔を浮かべながら、切々と国王に言った。
「じゃあ、僕を殺してくださいよ、陛下。つまりは僕みたいな役立たずより、そっちの怪物の方が大切なんでしょう? かつての英雄や陛下を害そうとした僕は、いらないんでしょ――」
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、国王はルアンを強く抱き締めていた。その腕の中で、ルアンが戸惑って目を丸くしている。
「すまなかった」
「!」
「決してお前を想っていないわけではなかった。出自のことでお前が揶揄され、傷つくのを恐れて、王宮から遠ざけておったのだ。だがそれは、お前と向き合うことから逃げていたのと同義。全て、私が間違っていた」
「…………っ」
その瞬間、いつもルアンが貼り付けている軽薄そうな笑顔が崩れた。
彼は、今にも泣き出しそうな顔をして、枯れた声で絞り出すようにして言った。
「こういう晩餐会で、僕だけ呼ばれないのは、嫌われているからだってずっと思ってた。王宮から追い出されたのも、妾の子の僕が疎ましいからだって……」
「違う、違うんだ」
「こんなやり方は間違ってるって分かってた。でも、でも……ひとりは、寂しいよ。除け者になんてしてほしくなかった。僕はただこうして、父上に抱き締めてほしかったんだ……っ」
そのとき、ルアンの瞳から一筋の涙が零れ落ちたのだった。
十六歳の王子ルアンの本心が、はっきりと現れた瞬間だった。だだっ広い食堂に、ルアンがぐすぐすと泣く声が響いた。
(子が親の愛情を求めるのは自然なことだ。親子なのに、簡単に触れ合うことが許されないなんて……)
オーガスタの心が揺れる。ルアンがしたことは決して許されないことだ。それでも、オーガスタには彼の気持ちがほんの少しだけ、分かる気がした。
生きる世界が違う、大切な誰かに一途に胸を焦がし、どうしても振り向いてほしいと願う。しかし、どんなに手を伸ばしてみても、届かなくて……。ようやく触れたと思ったら、指先を掠めただけでまた遠くに行ってしまうのだ。
人間と吸血鬼は異なる種族。相容れないと分かっていても、オーガスタは彼の心に触れていたい。近づくために足掻き続けていたい。
一方のネフィーテは、抱き合う親子に背を向け、静かに歩き出した。そんな彼に、国王が声をかけた。
「待て、ネフィーテ。どこへ行く気だ?」
「塔へ戻ります。この状態では、いつ気がおかしくなって人を傷つけるか分かりませんので。事の詳細はまた後日――っく」
ネフィーテの身体がふらりと揺れ、彼は膝を床に着けた。そして、胸の辺りの服を片手で掴みながら、荒く呼吸をする。吸血衝動はまだ治まっておらず、このままではいつ理性が飛んでもおかしくはない。
オーガスタはネフィーテにすぐさま寄り添い、国王に向かって声を上げた。
「ネフィーテ様は、吸血衝動を引き起こす毒を盛られています。この食堂から人払いをお願いいたします。今から彼に――血を与えるので」
「わ、分かった」
国王の命令のあと、食堂の中にいた人々が外に出ていく。ダクラスもその誘導に協力していた。
その後、ネフィーテとオーガスタのふたりだけが食堂に残された。ネフィーテのもともと白い顔はさらに青白くなっていて、呼吸もひどく乱れていた。
「オーガスタ、君の血は要りません……から、今すぐに逃げなさい。君を襲いたくはない」
以前吸血衝動に襲われたときも、ネフィーテはこうしてオーガスタを遠ざけようとした。
けれどオーガスタは首を横に振り、その場にしゃがみ込んだ。
「私だって、ネフィーテ様が苦しいのは嫌です。お辛そうな姿を見ていると、胸が苦しくなります。……ここまでよく辛抱なさいました。もう人の目はありません。だから、私の血を飲んでください」
「……っ」
オーガスタはジャケットを脱ぎ、白いブラウスのボタンを外して片側の肩を露出させた。晒された白く滑らかな肌に、ネフィーテはぐっと喉の奥を鳴らす。
「傷つけたなんて、思わないでください。これはただの――私のエゴです」
甘い痺れを求める欲望が、オーガスタの中で弾ける。
前世を含めてネフィーテに二度、手から吸血されたことが記憶に焼き付いている。手のひらに触れた彼の唇の柔らかさも、温かさも、よく覚えてる。
ずるい言い方をすると、吸血は、オーガスタが好きな人に触れてもらうための口実でもあった。
「もう、我慢の限界です」
「はい。……今から起こることは全部、私のせいにしていいですから」
ネフィーテはするりと両手をこちらに伸ばし、片方を腕に、もう片方を首筋に添えた。親指の腹でつぅと肌を撫でられ、オーガスタはわずかに身じろぐ。
彼は顔を近づけ、吐息混じりに囁いた。
「本当に困った子だ」
そう、オーガスタは自分勝手でわがままだ。彼が牙で人を傷つけたくないと分かっていながら、吸血させようとしているのだから。オーガスタの方が彼よりよっぽど吸血鬼らしい。整った歯列の中で存在感を放つ牙が、妖しげに光る。薄くて形のいい唇も、長いまつ毛が縁取る赤い瞳も、筋の通った鼻梁も、何もかも美しい。
『とっても苦しいんだね。かわいそう。僕の血を分けてあげる』
ノエが吸血鬼に血を分け与えたのは、彼を助けたかっただけではなく、ネフィーテの人間離れした美しさを見て、幼心に魅了されていたから。ノエはネフィーテに、一目惚れしていた。
吐息が肌を撫でてくすぐったさを感じた直後、今度は牙が刺さる鋭い痛みが走った。
「…………っ、ん……っふ」
(痛い――)
オーガスタが顔をしかめ、思わず呻いても彼は吸血を止めてはくれなかった。
血を吸われて痛いはずなのに、ネフィーテの糧になっていることを喜んでいる自分もどこかにいて、オーガスタは罪悪感に苛まれる。ネフィーテへの実らない恋を拗らせるオーガスタの心は、ぐちゃぐちゃに搔き乱れていた。
(邪なことを思ってしまって、ごめんなさい。私だけ好きになってしまって……ごめんなさい)
左肩に愛おしい痛みを感じながら、オーガスタはそっと目を閉じた。




