22 毒を盛られた王子
(判断を、間違えた。ネフィーテ様の身に何かあったら、私……)
オーガスタは庭園から塔に向かって走りながら、不安と自責の念に沈んでいた。
あの場を収めるために、ルアンの言うことを聞いて付いて行ってしまったが、浅はかだったと痛感する。
もしこのまま目を離した隙に、ネフィーテに何かあったら、オーガスタは近衛騎士失格だ。それどころか、あまりのふがいなさからネフィーテに顔を向けることができなくなる。どうしてこんな肝心なときに、考えが及ばなかったのだろう。
(きっと大丈夫。ネフィーテ様は私なんかよりずっと強いんだから。きっと……)
そんなことを言い聞かせ、ネフィーテの無事を祈ることしかできなかった。
塔に戻り、螺旋階段を駆け上がって、玄関の扉を開け放った。
(これは……)
息を整える暇もなく、オーガスタは目の前の光景に呆然とした。
つい先ほどまで整然としていた部屋が、すっかり荒れ放題だった。食器が飾ってあった棚は倒れ、割れた食器が床に散乱している。大切にされていた調度品も破壊されていた。
リビングにネフィーテの姿はない。オーガスタは急いで彼を探し始める。
「ネフィーテ様!? どこにいるんです? 返事をしてください! 一体何があったんですか……!?」
画室、音楽室、図書室、寝室……と手当たり次第に部屋を確かめていくが、どこにも彼の姿はなかった。
次に、厨房に行く。厨房は他の部屋より特に荒れていて、惨状が広がっていた。すると、倒れた掃除用具入れが、ガタガタと揺れていることに気づく。その中に何かがいるのだと予感し、オーガスタは中を確認することにした。
ちょうど開け口の部分が下を向いているので、箱を横にひっくり返し、急いで開く。するとその中に、小刻みに震えながら隠れている――サミュエルを見つけた。
「サミュ、エル……様……」
彼を見た瞬間、驚きとともに疑念が湧いていく。三日前、これから災難が起きることをほのめかしてきたサミュエルが、本当に悪巧みを実行したのではないかと思い、オーガスタは彼の胸を掴んで掃除用具入れから引きずり出す。
「どうしてここにいるの!? ネフィーテ様に何をした!?」
「うっ……は、離せ……」
この塔は、王族と関係者以外は立ち入り禁止だ。もしここに忍び込んだとしたら、先ほど訪ねてきたルアンが協力している可能性がある。
サミュエルがネフィーテに危害を加える目的でここに侵入したのではないかと、疑いが募っていく。
彼はオーガスタに服を引っ張られ、息苦しそうに顔をしかめた。オーガスタの手から解放されようと身じろいだそのとき、彼の懐からガラスの小瓶が滑り落ち、ころころと床に転がった。
「あっ、それは――」
サミュエルより先に反応したオーガスタが小瓶を拾い上げると、彼は血の気が引いた顔した。
「これは何?」
「それ、は……」
顔を近づけて迫ると、サミュエルはあちらこちらに視線を泳がせて、言葉を詰まらせた。迷いに迷った挙句、ただの栄養剤だと答えたが、明らかに怪しい態度だったので、もちろん信じなかった。
「今私は冷静じゃないの。お願いだから、これ以上怒らせないでよ」
「ひっ…………」
サミュエルはその場にへたり込み、ぱんっと両手の手のひらを擦り合わせて懇願を口にした。
「た、頼む。見逃してくれないか? その小瓶も何も聞かずに返してくれ……でないと俺は、何もかも終わりだ」
「見逃すとか見逃さないことか、そんなことはどうでもいいよ。ネフィーテ様に何かあったの!? 答えて!」
「……………」
しばらく沈黙が続いたあと、サミュエルは観念したように話し始めた。
サミュエルはルアンに命じられ、小瓶の中の毒をネフィーテが飲む血に混ぜたのだという。ルアンがネフィーテとオーガスタの気を引いている間に、塔から離れるつもりだったが、タイミングを逃し、脱出しないうちにネフィーテが厨房に来てしまったので、掃除用具入れに隠れた。
ネフィーテは毒入りの血を飲み、そこからは七転八倒の苦しみだった。彼は暴れているうちに掃除用具入れを倒した。そして、サミュエルが最後に聞いたのは、ガラスが割れる音だったという。
(ガラスが割れる音……)
オーガスタは庭園にいるとき、その音を聞いた。リビングの大きな窓が実際に割れていたのを思い出す。
「第三王子殿下によると、その毒は吸血衝動を誘発する効果があるそうだ。今ごろ王宮内は、大騒ぎだろうな」
「…………」
仮にも王族であるネフィーテに毒を盛るとは、なんという愚行か。まさか元婚約者が犯罪者になるとは思いもしなかった。ずっと、クレート公爵家の財産を当てにしてきたからこそ、その後ろ盾を失い、このような凶行に及んだのだろう。
(この人はどこまで私を失望させれば気が済むんだろう。まさか、こんなに馬鹿だったなんて)
ルアンは先ほど、ネフィーテを利用して王家に復讐すると言っていた。彼の真意を正確に測ることはできないが、第四王子が吸血鬼であることが国民に知られたら、王家への信頼は揺らぐだろう。
何より、人を傷つけることを拒んできた優しいネフィーテに、誰も傷つけさせたくなかった。オーガスタは無言で立ち上がり、サミュエルにくるりと背を向けた。
「お、おい、待て、小瓶を返してくれ!」
あまりにも馬鹿げた元婚約者に構っている暇はない。オーガスタは血液の予備の瓶を手に取り、部屋の外に控えていた騎士にサミュエルを拘束しておくように指示して、ネフィーテを探しに走り出した。
◇◇◇
今日は、王家主催の晩餐会が開かれている。国王は賑やかなのが好きで、しょっちゅう舞踏会や晩餐会を開いては、人を集める。ネフィーテは血を求め、大勢の人の気配がする晩餐会の部屋に行ったのかもしれない。
食堂に近づくと、使用人たちが逃げるように廊下を走っていた。使用人たちとすれ違いながら、ネフィーテは食堂付近にいるのだと確信する。
「きゃあああっ! 化け物……」
そして、食堂の扉の前に人集りができており、メイドの悲鳴がオーガスタの鼓膜を震わせた。
「退いてください! そこ、通して……!」
オーガスタは群衆を掻き分けた。食堂に入ると、壁際でネフィーテが唸り声を漏らしながらうずくまっていた。王宮の騎士がネフィーテに剣を向けている。
「そこの君! 行ってはだめだ。そいつは吸血鬼だ!」
騎士の誰かがオーガスタを制止するが、オーガスタは無視して、ネフィーテに寄り添った。
「ネフィーテ様、しっかりしてください」
「グッ……ウウゥゥ……」
視線がかち合ったとき、彼はもうネフィーテではなく――別の生き物なのだと悟った。
目を血走らせ、牙を剥き出しにするネフィーテに、元の優しい彼の面影はない。まるで野生の獣と対峙しているような気分だった。
(ネフィーテ、様……)
食堂の中には、使用人だけではなく王族や上流貴族がいて、阿鼻叫喚のような状態だった。一刻も早く食堂から逃げ出そうと躍起になって、扉の前で押合い圧し合いしている。
オーガスタは、狼狽える自分の心をどうにか奮い立たせながら、厨房から持ってきた人間の血液入りの瓶の蓋を開けた。
「ネフィーテ様、これを飲んでください。そうすればきっと……きっと、楽になりますから」
理性を失って言葉すら通じなくなっているのか、彼は差し出した瓶を手の甲で乱暴に払った。瓶は弾き飛び、床に落ちて割れた。それからネフィーテは、赤い目をギラギラと光らせながら、オーガスタの腕を掴んで、顔を近づけてきた。
彼に血を与えることに抵抗はない。けれどもネフィーテは、人を傷つけ吸血することを嫌っていた。この公然の場でそれを許せば、ネフィーテは本当に怪物呼ばわりされてしまう。
(だめ……っ。こんな場所で、吸血させる訳にはいかない)
オーガスタはハンカチをネフィーテの口に押し当てて懇願した。
「だめです、ネフィーテ様。正気に戻ってください!」
「グゥゥ……! ぐ……っ、ふ」
暴れるネフィーテの口をどうにか抑え、必死に訴えかける。
オーガスタはふと、あることに気づいた。
吸血鬼の身体能力は人間をはるかに上回る。オーガスタのことを吹き飛ばしたり、組み敷いたりするのは簡単なはず。けれどそうしてこないのは、彼の中に――ネフィーテの理性がまだ残っているからではないか。
(きっとネフィーテ様も戦っているんだ。お願い、戻ってきて。戻ってきて……っ!)
オーガスタは彼の口にハンカチを押し当て続けた。
「そこの君、退きなさい! 我々があとは対処する。すぐに避難を!」
「嫌です、離れません……っ」
騎士のひとりがオーガスタの身体を強引に引き剥がそうとする。また別の騎士が剣を振りかざしたとき、食堂に居合わせたダクラスが止めに入った、
自らの剣で騎士の剣を受け止めながら言った。
「剣を下ろしなさい」
「団長!? どうしてですか? 奴は吸血鬼です。きっとどこからか王宮に忍び込んだに違いありません。我々で戦って追い出さなくては」
「待て。彼は普通の吸血鬼ではない。君たちが攻撃していい相手ではないんだよ」
「人命がかかってるのに何悠長なことをおっしゃってるんですか! 今回ばかりは指示に従えません。そこを退いてください! 団長!」
ネフィーテは吸血鬼でありながら、王位を与えられている。
彼を傷つけることは、王家への不敬と取られかねないのだ。
「それに……まだ彼の中の理性が衝動と戦っている。彼は――必ず戻ってくる」
ダクラスは騎士たちの攻撃を止めながら、後方にいるネフィーテに言った。
「早く戻ってきなさい! 娘の信頼を裏切るような真似はしないでいただきたい。聞こえますか!」
しかし、オーガスタの腕の中にいるネフィーテは、獣のような唸り声を上げるばかりだった。父がネフィーテを攻撃から守ってくれるのはありがたいが、この時間稼ぎはそう長く続かないだろう。
そしてそのとき、聞き覚えのある声が食堂内に響いた。
「ご覧になりましたか? この怪物が、第四王子の正体です。フェルシス王家は怪物にあろうことか王位を与え、王宮に住まわせてきた。通常、王子の数字は出生順に付けられる。でも、奴は第四王子なのに、僕が生まれる前からあの塔にいました。なんとおぞましい! ――これが信じられますか?」
その声の主はルアンだった。彼は国王の元まで歩み寄り、楽しそうな口調で続けた。
「国王陛下。塔に隠れていた奴を引きずり出して、怪物の正体を暴いてみせました。王家の権威は失墜し、これを口実に支配関係を覆そうとしのぎを削る輩が出てくるかもしれませんね。ふっ、あははははっ! ざまぁみろ!」
ルアンの声が響き渡り、逃げ遅れた者たちもその迫力に静まり返る。
「…………なのだよ」
「はい? 聞こえませんよ」
「恩人、なのだよ。彼は私たちフェルシス王家の」
「え……」
「彼を王宮から追い出すつもりはないよ。もし彼のせいで王家が滅びるというなら、私たちはその運命を受け入れねばなるまい」
国王の静かな言葉に、ルアンがはっと息を飲む。人々に正体を知られても、国王がネフィーテを王子でいさせることが、想定外だったのだろう。
「怪物を王宮に留まらせれば、王家の醜聞に繋がります。それでも、ですか?」
「それでも」
「……恩人って、一体奴は何をしたというんです……」
ルアンは歯ぎしりをし、悔しそうに顔を歪ませたあと、するりと剣を引き抜いて国王に向けた。
国王に剣を向けるという恐れ知らずな行為に、周囲はどよめく。
「笑わせないでください。僕のことは王宮から追い出したくせに、その怪物は王宮に残すんですか? 恩人だかなんだか知りませんが、血の繋がりがある僕より、血が繋がっていない化け物を優先するんですか?」
「血なら――繋がっていますよ」
そのとき、国王を庇うように立ち、ルアンの剣を手で直に掴みながら――ネフィーテがそう言った。




