20 珍しい客人
オーガスタがネフィーテの近衛騎士になって、すでに四ヶ月が過ぎようとしていた。
その日、オーガスタには気がかりなことがあった。
『お前は、第三王子が第四王子を嫌っていることを知ってるか?』
この言葉は、三日前に王宮でオーガスタを待ち構えていたサミュエルが言ったものだ。
もう関わらないでほしいと伝えたはずだが、サミュエルが性懲りもなくオーガスタの前に現れた。
『は……何を突然?』
『忠告しておく。せいぜい、気をつけるといい』
そのとき、サミュエルの口角が持ち上がる。彼が意地悪に微笑んだのを見て、ぞわぞわと全身が総毛立つ。しかし、オーガスタは深追いせず、その場を後にするのだった。
サミュエルが何かを企んでいるのか、ただの冷やかしかは分からなかった。いやしかし、仮に企んでいるなら、それを実行する前にオーガスタに言ってしまうなんて、隠し事ができない幼児のような愚かな行動だ。念の為警戒はしておくが、ひとまず、サミュエルがただオーガスタを煽って楽しんでいるだけだろうと結論づけた。
「踏み込みが浅いですよ」
サミュエルの言葉を反芻していたオーガスタは、ネフィーテの声で我に返る。
「……は、はい」
今日はネフィーテに、剣の練習相手になってもらっていた。
塔の中には軽い運動ができる部屋があり、木剣が交わる音が響いた。
「稽古中に考え事をするのは、怪我の原因になりますよ」
「すみません」
オーガスタとネフィーテの剣がぶつかり合い、拮抗状態が続く。オーガスタは一旦距離をとり、突きの構えに変えた。そのまま姿勢を低くして、ネフィーテの懐に踏み込んだ――はずだった。
「まだ浅いです」
優しげな声が頭上に降ってきたかと思えば、剣を握るオーガスタの腕に衝撃が走った。鈍い音とともに、オーガスタの剣は弾かれる。くるくると旋回しながら飛んで行き、壁にぶつかって、ガシャンと音を立てて落ちた。
「完敗です、ネフィーテ様」
彼との打ち合いでオーガスタは疲れ果て、汗で髪が額にべったりと張り付いている。しかし、ネフィーテは全く汗をかかず、余裕たっぷりににこにこと微笑んでいた。
王国騎士団の新人の中では無敗のオーガスタも、ネフィーテには到底敵わなかった。
(やっぱりネフィーテ様は強いな)
前世はただの孤児だったが、今世は優秀な騎士家系に生まれ、恵まれた環境で技術を磨いてきた。それでも全く歯が立たないのだから、ネフィーテの強さは本物だ。
「君はとっても強いんですね」
「ネフィーテ様に言われても、全然嬉しくないです」
「そうですか? 私も君に追い抜かれないように頑張らないといけませんね」
「これ以上強くなって一体どうするつもりですか? 軍隊とでも戦う気ですか?」
「はは、それも面白そうですね」
ネフィーテなら、軍隊相手でも引けを取らない気がする。
吸血鬼は人間の身体能力をはるかに上回る。オーガスタがどんなに必死に鍛錬を重ねたところで、彼に勝つのは難しいだろう。
するとそのとき、修練室の扉の方からぱちぱちと拍手する音がした。
「わー、お見事。いい試合だったよ」
勝手に入ってきたのは、第三王子ルアンだった。
塔の中は基本的に立ち入り禁止だが、王族と王族の許可を得た者のみ入ることが許されている。もっとも、吸血鬼を恐れて、ほとんどの者が近づいてこなかったのだが。
ルアンはすらりとした体躯で、どこか女性的で繊細な美しさがあり、掴みどころのない雰囲気を醸し出している。
(そういえば、サミュエル様が第三王子がどうとか言ってたな)
オーガスタは警戒し、木剣を握り締める。もしネフィーテに危害を加えようものなら、王族相手であろうと容赦はしない。
すると、ネフィーテは護衛であるはずのオーガスタを庇うように前に立ち、ルアンに尋ねた。
「どうして君がここに?」
「兄弟に会うのに、理由なんていらないでしょ? そんなに警戒しないでよ」
ルアンはへらへらと笑いながらこちらに歩いてきて、ネフィーテのことを上から下まで値踏みするかのように見た。
「ふうん。十六年生きてきて初めて会ったけど、案外普通の人間みたいな見た目をしてるんだね。――怪物のくせに」
「おやおや、初めて会った相手に随分と不躾ですね」
「生憎、僕は礼儀を教わってこなかったからね。どう接していいかよく分からないんだよ」
ふたりともにこにこと微笑んでいるが、目の奥は笑っていないように見えた。すると、ルアンはオーガスタに顔を向けた。
「久しぶりだね、オーガスタ嬢。相変わらず男前だ。騎士服を着ていると、男なのか女なのか分かんないよ」
「……お久しぶりです。ルアン様」
ルアンとは一度、社交の場で話をしたことがある。彼は他の王子や両親と折り合いが悪く、王族が参加する集まりには決して顔を出さなかった。出せなかった、という方が正しいのかもしれない。娼婦の子であるがゆえに、肩身の狭い思いをしているようだった。
今夜も王宮では華やかな晩餐会が行われているが、ルアンは招待されていない。もちろん、ネフィーテも。
「婚約解消したって聞いたけど、もう結婚は諦めたの? あー……結婚してくれる男の人がいないから、ここにいるとか?」
「え、ええと……それは」
「やっぱりそうだよね。だって君、全然かわいくないし」
「…………」
意地悪を言われるのには慣れているが、ここで肯定してしまえば、ネフィーテが以前言ってくれた『かわいい』という言葉を否定することになる。
ネフィーテがいる場でどう答えていいか分からずに言い淀んでいると、ネフィーテがオーガスタの腰をさらった。そして、いつもは穏やかなネフィーテの眼差しに初めて、鋭さが帯びる。
「私に対してなら何を言ってくださっても構いません。ですが、彼女への謗りは許しませんよ。私は常に理性的であるように努めてはいますが、彼女のことに関わると、そうはいかないかもしれません。現に私は今とても――不愉快だ」
地を這うような、静かな怒気を含む声が、空気を揺らす。彼がオーガスタのために怒ってくれているのだと伝わってくる。彼の凄みにルアンが思わず息を飲んだ直後、ネフィーテはいつもの柔らかな笑顔を浮かべた。
「ですので、用件があるなら早く済ませてお帰りください」
「は、はは……怖い怖い。そんなにその人のことが大事なんだ?」
「用件は」
「分かった、分かったから怒らないで。意地悪を言ったのは謝るって」
そしてルアンは、はぁと大きく息を吐き、言った。
「用件の前にほら、せっかくかわいい弟が遊びに来たんだから、もてなしてよ。兄さん?」
普通王子の数字は、生まれた順番で付けられる。だが、ネフィーテはルアンが生まれるよりずっと前から存在していた。
ネフィーテは第四王子という肩書きではあるが、十六歳のルアンからすると兄と呼べるだろう。
オーガスタは、ルアンの様子に不信感を抱いた。
◇◇◇
突然押し掛けてきたルアンは、リビングのソファに足を組みながら座り、背もたれに両手を広げた。まるで自分の家のようにくつろぐルアンの態度は、オーガスタを困惑させた。
(なにこの態度。嫌な感じ……)
しかし、近衛騎士に過ぎないオーガスタは、立場上、不満を口にすることができなかった。
「あのさー、ここは客人に茶の一杯も出ないの?」
「やれやれ、それが人にものを頼む態度ですか? 喉が渇いたならそう言えばいいでしょう」
ネフィーテは呆れつつも、紅茶を準備し始めた。兄と呼びながら、ネフィーテを使用人のように顎で使うルアンの態度に、オーガスタの苛立ちが募っていく。
「何これ、まずいんだけど。捨てといて」
ルアンは口に含んだ紅茶をぶっとわざとらしく吹き出し、顔をしかめる。
せっかくネフィーテが用意した紅茶を台無しにされ、オーガスタの額にくっきりと怒りの筋が浮かび上がった。
(なんて失礼な……っ!)
必死に怒りを堪えるオーガスタとは対照的に、ネフィーテは落ち着いていた。「口に合わなかったようですみません」と悪くもないのに謝罪の言葉を述べ、カップを下げた。
そんなネフィーテの冷静な対応を面白くなさそうに見たあと、ルアンは室内を物色するようにきょろきょろと視線を動かす。
「塔の中って初めて入ったけど、こんな感じなんだ。案外、綺麗にしてるんだね。でも、ずっとひとりで引きこもってたら退屈しそうだ。少なくとも、僕だったら耐えられない。君もそうなんでしょ?」
「私にはこれで足りていますよ。私にはオーガスタという話し相手もいますから」
「さぁ、どうだか。本当は外に出て、人間の生き血が飲みたくて仕方がないんじゃない?」
「そうは思いません」
ルアンの挑発に乗ることなく、ネフィーテは淡々と答えた。ルアンは俯き、テーブルの上に置いた拳を握り締めながら、忌々しそうに呟く。
「ああ……そう。大切にしてくれる人もいて、楽しく過ごしてるんだ。吸血鬼の分際で、僕よりずっと、幸せそうに……」
彼の中のどす黒い一面が垣間見えた気がして、背筋が凍りそうになった。しかしルアンはすぐ、その顔に人好きのする笑顔を貼り付けた。
「もっと面白い話が聞けるって期待してきたのに残念だよ。もういいや。今日は僕、そっちのお姉さんに用があってきたんだ」
ルアンは視線をネフィーテからこちらに移し、にこりと微笑んだ。
「わ、私……ですか?」
「うん。長らく誰も近づこうとしなかった吸血鬼に仕えようなんて人、気にならないわけないじゃん。まぁ、それは置いといて、外で少し僕と話そうよ。――大事な用があるんだ」
「…………」
オーガスタには、なんの用か全く思い当たらない。しかし、ルアンは自分の好奇心が満たされるまでこの部屋に居座るつもりだろう。王族からの命令は絶対。どの道、オーガスタに拒否権などない。自分の我を押し通そうとするサミュエルと、似た匂いを感じた。
(これ以上、ここでネフィーテ様に迷惑をかけられるより、外に出た方がマシか)
オーガスタはネフィーテに確認する。
「少し、席を外してもよろしいでしょうか」
「――だめです」
思わぬ返答が返ってきた。




