16 新しい生活のはじまり
数日後、オーガスタは王宮に住まいを移した。王宮には使用人や騎士のための部屋が数百室あり、オーガスタはそのうちの一室を借りることになった。
今日から、ネフィーテの近衛騎士としての任務が始まる。この特別な任務に、オーガスタは心を躍らせていた。
自室で目覚めたオーガスタは、清々しい気分でカーテンを開き、朝日ではなく――月光を浴びた。
吸血鬼は夜の支配者だ。
彼らは太陽が苦手で、基本的に夜が活動時間となる。太陽を浴びても肉体が滅びるわけではないが、皮膚が焼けたり、体調が悪くなったりするのだ。
オーガスタは部屋に置かれた鎧を目でひと撫でし、覚悟を決める。
寝癖を整え、甲冑に着替えて、夜の帳が包み込む塔へと向かった。
前回、ここに来たときは、入り口で騎士に阻まれたが、今回は身分証を提示して、すんなりと中に通してもらえた。しかし、甲冑姿の謎の女騎士を、どこかいぶかしげに見ていた。
石作りの螺旋階段を上がり、彼の部屋の扉の前に立つ。
解錠してから一度深呼吸をし、ノックをした。返事はなかったが、代わりに扉が開き、ネフィーテがその奥に立っていた。
「お久しぶりですね……って、その格好は……」
「……! お久しぶりです! ネフィーテ様!」
オーガスタは敬礼をしながら、意気揚々と答える。
銀色の甲冑に身を包んだオーガスタの全身を、彼は戸惑いながら上から下まで観察する。
「ネフィーテ様をしっかりお守りできるように、気合を入れてきた次第です」
「戦闘に行く訳じゃないんですから、もっと楽な格好でいいですよ」
ネフィーテはくすと微笑み、オーガスタの顔を隠す金属を指でそっと持ち上げた。彼はあらわになったオーガスタの瞳を見つめながら、「こんばんは」とからかうように挨拶をした。変に気合を入れてきた自分が恥ずかしくなって、頬が赤くなる。
(次からは普通の騎士服で来よう。……恥ずかしい)
彼は半年前と変わらず、にこにこと柔和な笑顔を浮かべている。ネフィーテの再会に舞い上がりそうになるが、すぐに浮き立った心を諫め、騎士の礼を執る。
「この度、ネフィーテ様の近衛騎士に任命されました。オーガスタ・クレートと申します。よろしくお願いします」
「ご丁寧にどうも。さぁ、中に入ってください」
「はい!」
ネフィーテに促され、部屋の中に入る。塔の中は螺旋階段を上がった先に玄関口があり、その奥にネフィーテの居住区が広がっている。部屋はひとつではなく、複数の部屋が繋がっている。扉を入ってすぐはリビングになっており、他には寝室、浴室、音楽室、画室など、生活や娯楽に必要な設備が整っている。
内装は、オーガスタがノエとして生きてきたころと大きく変わっていなかった。
そして、リビングにはオーガスタを歓迎するための華やかな装飾が施されていた。あちこちに色とりどりのリボンが結んであり、壁の中央には『ようこそ』の文字のプレートが飾られている。
「あ、あの……これは……?」
「君を歓迎しようと私なりに色々と考えてみたんです。部屋を飾り付けたんですが、少し張り切りすぎたかもしれませんね」
恥ずかしそうに小首を傾げ、「子どもっぽかったでしょうか」と笑うネフィーテがあまりにも愛おしくて、口から心臓が飛び出してしまいそうだった。
「いえ! 私のためにしてくれたことがすごく嬉しいです!」
「ならよかった」
オーガスタはネフィーテと微笑み合った。
「立ったまま話していては疲れるでしょう。そこのソファに座ってください」
「そ、そそそ、そんな! ネフィーテ様がお立ちなのに、私だけ座るなんてできません!」
「なら私も座ります。それなら平気ですか?」
「それなら……」
兜をソファの端に置き、その隣に遠慮がちに腰を下せば、彼は「飲み物を用意します」と言って部屋を出て行こうとする。オーガスタは主人にそんなことをさせる訳にはいかないと食い下がった。しかし、彼はにこやかな笑顔で有無を言わさず、オーガスタを座らせたまま紅茶を淹れ始めた。
(どうしよう。ネフィーテ様にこんなに色々としてもらう訳には……)
ローテーブルの上に置かれたカップに、こぽこぽと紅茶が注がれていく。その様子を見つめながら恐縮していると、ネフィーテが言った。
「そう遠慮せず、ここでは気楽に過ごしてください。幸い、人の目もありませんから、君の勤務態度を誰も咎めたりしないですよ。はい、紅茶です。砂糖は要りますか?」
「ふ、ふたつ」
「分かりました」
彼の気遣いに甘えて、「砂糖は自分で入れられます」という言葉は喉元で留めた。
ちゃぽん……と水面に沈んでいく角砂糖を眺めていると、彼が言った。
「本当に君が私の元に来てくれるとは、驚きました。剣がお上手なんですね」
「そ、そんな……。全然、大したことないです」
ネフィーテに褒められると、つい舞い上がってしまいそうになる。緩みかけた口角を抑えながら、顔を横に振って否定した。
「どうか、暇人の話し相手になったと思って、気楽に過ごしてください」
「で、でも私は、ネフィーテ様の騎士です。ここには仕事をしに来ているので……」
「どうせ、私を守るのではなく、監視するように命じられているのでしょう。ただ眺めているだけでは退屈でしょうから。さ、どうぞ」
「…………」
図星を突かれて、言葉を返すことができなかった。ネフィーテは、オーガスタが何か言うまでもなく、自分の立場をよく理解しているようだった。
しかし、オーガスタがここにいるのは、彼を守るためでも見張るためでもない。そもそもネフィーテは、オーガスタを含む人間をはるかに上回る強靭な肉体を持っており、護衛など必要としていない。そして彼は、監視が必要なほど凶暴な性格でもない。
ふとオーガスタは、この人生で初めて目にしたネフィーテの姿を思い浮かべる。
人前ではこうしてにこにこと人好きのする笑顔を浮かべているが、ひとりきりで星を見ていた彼の姿には、壮絶な孤独感が漂っていた。
(私はただ、この人の孤独を癒して差し上げたい)
何かしてあげたいと思うのはおこがましいのかもしれないが、切実な願いだった。
オーガスタは、ネフィーテが淹れてくれた紅茶を飲みながら言った。
「分かりました。ではネフィーテ様も、どうか私に気楽に接してください」
「そうさせてもらえます。紅茶、熱くないですか?」
「はい。大丈夫。ん……美味しい」
美味しいのはもちろん、懐かしくて、安心する味がした。
「よかった。ああ、そうだ。このあと私の住まいを君に案内するので、自由に使ってください」
「……ありがとうございます」
◇◇◇
紅茶を飲んだあと、ネフィーテは塔の中の部屋をひとつひとつ丁寧に紹介してくれた。ネフィーテは仮にも王族でありながら、塔には使用人がひとりも仕えていない。だが、綺麗好きなネフィーテが頻繁に掃除をするため、隅々まで清潔に保たれている。
「私には時間だけはたっぷりあるので、毎日色んなことをして過ごしています。料理、掃除といった家事から、読書、音楽、絵画まで。オーガスタは絵を描くのは好きですか?」
「いいえ。絵とか芸術は、あんまり興味がなくて」
「ふ。そうですか」
図書室や音楽室、浴室などを案内されたあと、最後に連れて行かれたのは――画室だった。画材道具が大量に置かれ、キャンパスが無数に積み重なっている。絵だけではなく、様々な彫刻も置いてあった。
どれも、プロなのではないかと思うほど素晴らしくて、オーガスタの目を惹いた。
ネフィーテは、森の中の花畑が描かれたキャンパスを手で撫でながら言う。
「人があらゆるものを失っても、想像力だけは最後まで残るのだと思います。私には多くの制約がありますが、唯一、想像することだけは許されてきました」
「花が……お好きなんですね」
「はい。こんなに美しい花畑がどこかに存在していたら、ぜひ見に行ってみたいですね」
ネフィーテの絵には、花畑が描かれていることが多い。彼の想像の中にある花畑は、明るい色彩で彩られていて、暖かみがある。断崖絶壁の上にあったり、湖畔に広がっていたり、人里の近くにあったり、場所は様々だ。
ノエがここに住んでいたときも、ネフィーテはよく空想上の花畑を絵に描いていた。
ふと、広い画室の中で、布がかけられた大きな膨らみを見つけた。
(あれは……なんだろう)
その周りには膨らみがいくつかあり、何かが隠されているようだった。清潔な部屋にそぐわず、その部分だけ埃を被っている。まるで、意図的に放置しているかのようだ。
気づくと、足がそちらに向いていた。
「あの、これは……」
「――触らないで」
伸ばしかけたオーガスタの腕を掴み、ネフィーテが怒気を含んだ口で言った。しかしすぐに、はっと我に返った様子で、オーガスタの手を離した。
「すみません。これは、私が見たくないものなんです。見ると辛かった記憶まで蘇ってしまいそうで」
灰色の布の下には何が隠されているのか、オーガスタには分からなかった。
しかし、ネフィーテの声に、いつなく寂しさが馴染んでいるのは伝わってきたのだった。