13 満月の下で約束を
翌朝、明るくなってからオーガスタは父と公爵邸に帰った。帰りの馬車で、ダクラスと向かい合って座った。ふたりの間に会話はなく、車輪が石畳を踏む音だけが静かに響いていた。
(どうせまた、病院に戻ることになるんだろうな)
父の言うことを聞かず、あれだけ好き放題したのだ。きっと失望されているに違いない。次に病院に入ったら、より強力な拘束がついて、二度と病院から出られなくなるかもしれない。
母が亡くなってから、父は母の分までオーガスタを大切に育ててくれた。ネフィーテへの想いを理解してほしかったが、本当は、どうしても受け入れられないものを無理に押し付けるべきではないと分かっていた。
(結局、父上を傷つけちゃった)
けれど、自分の思いを父に伝えたことに後悔はなかった。
窓に頭を預け、昇る朝日を眺めながら、オーガスタは少し憂いを帯びた表情を浮かべる。
すると、ダクラスが沈黙を破った。
「言っておくが、お前を我が家から除籍するつもりはない」
「え……」
「やはり……何があっても、お前は大切な娘だ。……お前はなぜ、そこまで第四王子に肩入れする? 話してみなさい。事情を知らなければ、歩み寄ることができないからね。屋敷の使用人たち全員から、頭を下げられたよ。『お嬢様は嘘を吐く人じゃない』、『お嬢様の話を聞いてやってくれ』とね。お前はみんなに、信頼されているんだね」
窓からダクラスの方へ視線を移せば、彼は真剣な表情を浮かべていた。ようやくオーガスタの話をまともに聞こうという気になったのだと分かった。恐らく、実際にネフィーテに会って心境に変化があったのだろう。そして、オーガスタを慕う使用人たちの懇願もその一助となったに違いない。
(みんな……)
オーガスタは姿勢を正し、膝の上でぎゅっと拳を握った。
「恩人だからです」
「彼がかい?」
「はい。ネフィーテ様は覚えていないかもしれませんが、実は小さいころ、彼に助けていただいたことがあるんです」
嘘は言っていない。ただし、これは今世ではなく前世の話だ。
前世のオーガスタ――ノエにとってネフィーテは世界の全てだった。ノエは薄汚い孤児だったのに、彼は文字の読み書きや勉学を教え、惜しみなく愛情を注いでくれた。
「吸血鬼は確かに恐ろしい存在です。でも全員がそうとは限らない……と思います。良い存在や悪い存在がいるのは、人間だって同じはずです。……それともまだ、私が洗脳されていると思いますか?」
「分からない。だが、私はお前のことを信じてやりたいと思った。父として、娘のやりたいことを頭ごなしに否定するのではなく、できるだけ応援したいと……そう思い直した」
父の言葉に、オーガスタは身を乗り出す。
「じゃあ、もう病院には行かなくていいんですか!?」
「入院はさせないが、通院はしてもらう。それから……目指してみるか? 第四王子の近衛騎士を」
「……!」
ダクラスからの予想外の提案に、オーガスタは目を見開いた。
「現状、王国騎士団に第四王子の近衛騎士を希望する者はひとりもいない。お前の実力があれば、半年もかからずにすぐにその地位を得られるはずだ」
「い、いいですか……!? 本当に……!?」
「お前はソフィアに似て頑固だからな。どうせだめだと言っても聞かないんだろう? それに第四王子は他の吸血鬼とは何か違って、同情の余地があるかもしれない……そう思ったんだ」
「ありがとう、父上!」
オーガスタは喜びのあまり、ダクラスに飛びついた。彼は娘の体重を受け止めながら、「困った娘だ」と苦笑を漏らした。
オーガスタは父から離れて、ひとつ気になっていることを伝えた。
「ネフィーテ様に吸血衝動が出たのは、人間ではなく動物の血が届いていたのが原因です。これ、もしかして……悪意のある誰かがわざとやったのでは? 動物と人間の血を入れ違えるなんて、普通ありますか?」
すると彼は、顎に手を添えて考え込んだ。
「……今までこのようなことが起きなかったのを踏まえると、可能性はある。だが、もし故意だとしたら、何が目的だ?」
「分かりません。例えば、ネフィーテ様を暴れさせ、その騒ぎに乗じて何かしようとしていたり……なんて」
あくまでひとつの仮説として伝えたつもりだったが、ダクラスは表情を曇らせ、深刻さを醸し出していた。
◇◇◇
その日の夜、入浴を終え、寝る支度を済ませたオーガスタは、寝室のベッドに横たわり、天井を眺めていた。
精神病院の隔離室とは異なり、実家での時間はずっと居心地よく感じられる。
近衛騎士を目指すことになったが、ダクラスから条件を提示された。それは、第四王子の近衛騎士の役割が、『護衛』ではなく――あくまで『監視役』であることを肝に銘じること。
吸血鬼であるネフィーテは、人間に危害を加える恐れのある存在として、王宮内の塔に幽閉されている。オーガスタは彼を守ることではなく、彼から人間を守ることを優先しなくてはならない。
(どんな形であっても、あの方の傍にいられるなら、それでいいか)
ネフィーテを思いながら、おもむろに天井に向かって手を伸ばした刹那。
――コンコン、とガラスを叩く音がした。人の気配が一緒にしたので、オーガスタは急いで寝台から起き上がり、耳を澄ませた。
(こんな時間に何? まさか泥棒……?)
再びコンコン、と音がし、それが窓を叩く音だと理解する。
オーガスタは警戒しながら部屋に飾ってあった騎士の甲冑の剣を片手に持つ。そっとカーテンを開くと、窓の外の小さなバルコニーに――ネフィーテが立っていた。
「……!」
思わぬ来客にはっとし、慌てて剣を床に放り、窓を勢いよく開け放つ。
「ネフィーテさ――」
「しっ」
名前を呼びかけたところで、ネフィーテが人差し指の腹をオーガスタの唇に押し当てて、声を封じた。そして、まるで小さな子どもを諭すように囁く。
「人に気づかれてしまいますから、お静かに」
オーガスタは彼の言葉に素直に従い、唇を引き結んでこくこくと頷く。そして、小さな声で尋ねた。
「どうして、こちらに……?」
「住所を調べたんです。突然押し掛けてしまいすみません。君にどうしても、もう一度会いたくて」
聞き間違いだろうか。崇敬するネフィーテがたった今、オーガスタに会いたいと言ってくれたような気がする。オーガスタの願望が強すぎるあまりに、幻覚と幻聴が起きているのだろうか。
「嘘……。本当に、ネフィーテ様……ですか? 都合のいい、夢なんじゃ……」
「確かめて……みますか?」
オーガスタは、動揺しながらも思わず頷いた。
「――はい」
ネフィーテはこちらに手のひらをかざした。
オーガスタが恐る恐る右手を伸ばすと、彼は自身の左手をオーガスタの手のひらに重ねた。ぴったりと重なる手のひらから、熱が伝わってくる。オーガスタの手は普通の女性より大きいが、ネフィーテの手はそれより更に大きい。
(あったかい。これは、夢じゃない)
ネフィーテと触れ合えていることが、まるで奇跡のように思えて、オーガスタの心を高揚させる。同時に、胸の鼓動が激しく脈打つ。今がもし昼間なら、顔が真っ赤になっていることに気づかれていただろう。
「ずっと、自分の気持ちを偽って生きてきました。でも、もしここでまた嘘をついたら、永遠に後悔する気がしたんです。ひとりはとても寂しい。もし君が良いと言うのなら……いつかきっとまた、私に――会いに来てくれませんか」
その言葉が終わると、風がひと吹きして、艶やかな銀髪が風に揺れた。月明かりが、彼の壮絶な孤独ごと美しく照らしている。
ネフィーテの寂しげな表情が、オーガスタの胸を切なく締め付ける。けれど同時に、ネフィーテが自分の望みを口にしてくれたことが、この上なく嬉しかった。オーガスタの懇願は、確かに彼の心に届いていたようだ。
(嬉しい、嬉しい……。ネフィーテ様が私に会いたいと言ってくれた。やっぱり、夢みたい)
かつて、ノエが知る彼は、自分の心の内をほとんど語らなかったから。
「はい! もちろんです! 約束します……!」
「静かに」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
ネフィーテに注意されたばかりなのに、また大きな声を出してしまい反省する。
しおしおと項垂れたあと、気を取り直したオーガスタは片手の小指を差し出した。異国の文化では、約束を交わすときに、互いに小指をひっかけ合う『指切り』をするのだと、ネフィーテが前世で教えてくれた。
オーガスタが指を差し出したことに、彼は一瞬、驚きの色を浮かべたが、すぐに自身の小指を絡めた。
「必ず会いに行きます。だからきっと、待っていてください」
約束を交わすふたりを、満月が優しく照らしていた。