12 孤独な王子 ※ネフィーテ視点
オーガスタとダクラスが部屋を出て行った翌日の夜、ネフィーテは音楽室でひとり、ピアノを弾いていた。
窓辺の古びたカーテンが風に揺れ、月明かりが時々その隙間から差し込む。音楽室の中央に鎮座するピアノの鍵盤を、ネフィーテのしなやかな指がなぞる。繊細で優しい音色が夜の音楽室に広がっていく。
(孤独を感じたのは、いつぶりだろうか)
日がな一日、ネフィーテがすることといったら、ピアノに絵画、読書くらい。技術は磨かれ、知識だけは増えていくが、それを披露する相手も、話す相手は誰もいない。
一曲弾き終え、そっと鍵盤から手を離し、音の余韻に耳を傾ける。余韻がなくなると、深い静寂がネフィーテを孤独感に苛めた。自分以外に誰もいない閑散とした部屋を見つめながら、憂いた表情を浮かべた。
王宮の開放廊下で倒れたところを気まぐれに助けた娘は、オーガスタという名のある公爵家の令嬢らしい。あのとき会ったのが初めてのはずなのに、なぜか彼女はネフィーテに心を寄せてくれていた。誰かに気にかけてもらえたことが、孤独に慣れていたはずのネフィーテの心を揺さぶった。
そして、懐かしい記憶の蓋が開かれる。
(オーガスタにまっすぐ見つめられたたとき、君の顔が思い浮かびましたよ。――ノエ)
百年前、ネフィーテが傍に置いていた少年のことを思い出す。
当時のネフィーテも、今と変わらず王子という肩書きを持ちながら、王宮に縛られていた。人間の血を特別に分けてもらっていたから、誰も傷つけずに済んでいた。だからその見返りに、ネフィーテは王家に忠義を尽くさなければならなかった。
ネリア王国は他国と戦争状況にあり、人間を超越する身体能力を誇っていたネフィーテは、王の命令で度々戦地に赴いた。
そこで、吸血衝動に襲われ、建物の陰に隠れて耐えていたとき、彼に出会う。
『お兄さん。もしかして、吸血鬼なの?』
『ええ、そうですよ。早く……私から逃げなさい。私が理性を失う、前に……』
戦地では、ネリア王国の騎士たちから注射器で採取した血液を飲むことで、活力を維持していた。しかし、戦争が激化したことで、血を摂取する暇がなく、仕方がなく死肉から血をすすっては飢えを凌いでいたが、とうとう限界が来ていた。
目の前に現れた小さな少年は、牙を剥き出しにした怪物に恐れおののくことなく、むしろ心配そうに眉をひそめた。
『とっても苦しいんだね。かわいそう。僕の血を分けてあげる』
『君、何を――』
少年は、驚くべき行動を取った。
落ちていたガラスの破片で自らの腕を傷つけ、ネフィーテの口に当てがう。新鮮な子どもの血の匂いに本能が抗えず、少年の手に牙を立て、吸血した。
少年は腕の傷の痛みでしばらく泣いていた。彼の腕の傷を見て、罪悪感と自責の念に苛まれる中、少年は目に涙を滲ませながら言った。
『血をあげたから、お願い。僕のこと、吸血鬼の仲間にして』
『……!』
ネフィーテは思わぬ懇願に拍子抜けした。話を聞くと、ひとりで生きるのは寂しいからだと言った。ネフィーテもずっと、孤独だった。少年の訴えがやけに胸に響き、面倒なことになると分かっていながら、少年を拾うことにしたのだった。
人間を吸血鬼にする方法はある。だが、自分と同じように、人ではなくなる苦しみをこの子に味わわせる訳にはいかない。
『君を吸血鬼にしてあげることはできませんが、私と一緒にいて寂しさが紛れるのなら付いてきなさい。ですがきっと、苦労しますよ』
『それでも、ひとりぼっちになるよりいい』
少年はためらわずに、ネフィーテが差し伸べた手を取った。
それから、彼にノエという名前をつけて、王宮の塔でともに暮らし始めた。最初は痩せこけていたが、少しずつ元気を取り戻していった。温かい食事を与え、清潔な服を着せ、文字の読み書きやこの国の文化や歴史、政治のことなど、あらゆることを教えた。
彼が成長する姿を見守ることが、ネフィーテにとって何よりの楽しみだった。
ノエに与えているつもりが、逆に多くのものを与えられていた。
ネフィーテは吸血鬼として疎まれ、利用され、時に虐げられながら生き、心に孤独を抱えていた。けれども、ノエが現れたことで、空っぽだった心は温かい何かで満たされるようになったのだ。
ノエと暮らし始めて八年が経ったころ。拾ったばかりのころは、つつけば壊れてしまうのではないかと心配してしまうほど痩せていて小さかったが、彼は大人になりつつあった。
『……今から出かけてきます。探し物をしに』
『探し物ですか? 気をつけてくださいね』
『はい。行ってきます。先生』
ノエは度々、塔の外に出て探し物をしに行った。塔に戻ってきた彼はいつも、身体のあちこちを土で汚し、頭に葉をつけていることもあった。何をしに行っているのかと尋ねても、『探し物です』の一点張りで、絶対に詳しくは教えてくれなかった。
夜遅く帰って来ることもあり、心配で付いていきたかったが、監視の対象であるネフィーテが王宮の敷地を出ることは許されなかった。
そして、探し物に行き始めてから半年後――ノエは死んだ。王宮から離れた森の奥で、遺体として発見された。一体森に何を探しに行っていたのかは分からなかったが、傷つけられていたノエの遺体をひと目見て――吸血鬼に殺されたことだけは分かった。
白い肌には吸血鬼の牙の痕がいくつも残っていた。どんなに彼は怖い思いをしただろう、痛かっただろう。ノエを救ってやれなかった自分が情けなく、ネフィーテはひたすら悲嘆に暮れた。
ノエを失ったあと、ネフィーテは自分の半身を失ったような気分だった。ぽっかりと心に大穴が開いたような感じ。ノエの喪失に嘆けば嘆くほど、彼のことを深く愛していたのだと思い知らされた。
また喪失の苦しみを味わうくらいなら、二度と大切な存在は作らない。そう決めたはずなのに、『近衛騎士にしてほしい』と言ったオーガスタのことが、ネフィーテの頭から離れなかった。
遠い記憶を回想しながら、ネフィーテは再び指を動かし、ピアノの音色に耳を傾けた。広い音楽室に、粒揃いが良く、優雅でなめらかな調べが響き渡る。
ネフィーテは鍵盤をなぞる指を止め、窓の外を眺めた。
暗い夜空に、満月が輝いている。
「……ひとりは寂しいものですね。ノエ」
星になった教え子に語りかける。もし彼がここにいたら、『そうですね、先生』と笑いかけてくれただろうか。あるいは、もう彼は自分を殺した相手と同じ種族であるネフィーテとは顔を合わせたくないかもしれない。
ようやく見出した淡い希望は、あまりにも儚く、呆気なく散ってしまった。気まぐれで情けをかけなければ、ノエは殺されなかったかもしれない。ノエは、吸血鬼を憎んでいるだろうか。
ノエが吸血鬼に殺されたことで、ネフィーテは自身を責め続けてきた。しかし、ネフィーテをがんじがらめにしているのは、ノエの怨念などではなく、自分が勝手に作った鎖だ。
(本当は分かっていた。無能な己を責め続けたところで、なんの解決にもならないこと。ノエは……二度と帰ってこないこと)
自分の心に問う。
心を偽るのは簡単だ。しかし、このまま自分の望みを無下にして、孤独な生活を続けたら、きっと後悔する。ただ願っているだけでは、孤独が癒されることはない。望みを口にし、手を伸ばさなければ、ずっと寂しいままだ。
吸血鬼と人は相容れない関係だと分かっていても、ネフィーテは人に魅入ってしまうのだ。ほんの少しでいいから、人の心に触れたいと願ってしまうのだ。
『生きる世界が違うというのならせめて……っ、近づけるように努力をさせてください! たとえ叶わない願いだとしても、手を伸ばそうと足掻くことは自由なはずです。そうでしょう!?』
これはオーガスタの言葉だが、まるでノエに言われているような気分だった。心の中で、何かが動き出す。
椅子から立ち上がり、何十年も前から壊れている鍵付きの出窓に手を添える。オーガスタが開放廊下で倒れたときも、ここから出たのだ。ネフィーテは窓を静かに開け、闇夜に姿を消した。