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11 怪物なんかじゃない

 

「……あっ、うう――っぐ、はっ、ハァ……」


 ネフィーテは部屋の隅でうずくまり、苦しげに呻いていた。赤い瞳は鋭く輝き、二本の牙を剥き出しにしている。これらの症状は、吸血衝動が現れたときに見られるものだ。吸血衝動には、壮絶な肉体的苦痛が伴う。

 ノエだったころ、吸血衝動に苦しむ彼を見たのは、一度だけ――出会った日だった。


『お兄さん。もしかして、吸血鬼なの?』

『ええ、そうですよ。早く……私から逃げなさい。私が理性を失う、前に……』

『とっても苦しいんだね。かわいそう。僕の血を分けてあげる』


 戦争中で血を摂取するのが遅れ、ネフィーテは建物の陰で血を求める本能と戦いながら苦しんでいた。そんな彼に、孤児だったノエは血を分け与えたのだった。


「ネフィーテ様、大丈夫ですか!?」

「!」


 オーガスタの姿を視界に捉えたネフィーテは目を見開き、もともと白かった顔がさらに蒼白になった。


「来ては……だめです……」

「吸血衝動が起きているのでしょう? 血を飲まなければ苦痛は治まりません。血を飲んでいらっしゃらないのですか?」

「間違えて、動物の血が……混ざっていたよう……です」


 ネフィーテの視線の先にはテーブルがあり、グラスに赤い血が注がれている。

 彼は吸血鬼の伝説に反して、人間に噛み付いて直接血を吸うことを嫌う。しかし、血を飲まなければ、こうした発作が起きてしまうので、病院などからひそかに提供された血を摂取していたのだ。

 そこにどうやら、動物の血が混じってしまったらしい。吸血鬼は人間の血でないと、渇きを癒すことができない。


(動物の血? どうしてそんなことが……)


 そのとき、ネフィーテはオーガスタの右手から血が滴り落ちているのに気づいた。血を見た瞬間、彼が生唾を飲み込む音がした。


 ネフィーテはおもむろにオーガスタの手を取ると、まるで吸い寄せられるかのように顔を近づけ、傷口に唇を押し当てた。彼の中に渦巻く血の渇きが蘇り、恍惚とした顔で呟く。


「欲しい……」

「…………ネフィーテ、様」


 求められているのはオーガスタではなく、人間の血だと分かっていても、彼の瞳に浮かんだ熱に、ぞくりと全身が痺れる。

 手のひらに触れる、肌と粘膜とも違う暖かな感触。触れられている場所が異様に熱く感じた。


 彼は舌で傷口を舐め、血を飲み込んだ。その度に、彼の喉仏が妖しく上下するのを見たオーガスタの心臓は加速し、思考が白く霞んだ。


「私なんかの血でいいなら、いくらでも差し上げますから」


 その言葉が、ネフィーテの欲望を突き動かす。

 ネフィーテは牙を立て、今にもオーガスタの手に噛みつこうとした。しかし、牙が皮膚に触れる寸前、彼ははっと我に返って、オーガスタのことを突き飛ばした。


「わっ――!?」


 オーガスタは尻餅をつく。一方のネフィーテは、苦しそうに声を上げた。


「早く出て行きなさい。私は誰も、傷つけたくない……っ!」


 それは彼の悲痛な心の叫びだった。ネフィーテばずっと、誰ひとり傷つけまいと、自分の心を傷つけながら、吸血鬼としての自分と戦い続けてきたのだ。


 そのとき、オーガスタの後ろから靴音がして、聞き慣れた父の声が降り注いだ。


「信じられない。吸血衝動に抗っているのか……? 彼は……」

「はい。自分の弱さと戦う彼が、怪物に見えますか?」

「…………」


 ダクラスは何も答えなかった。代わりに、彼はテーブルの前まで歩み寄り、空のグラスを用意した。そして、オーガスタに問う。


「人の血を飲めば、まともに会話ができるんだね?」

「はい。あの症状は、人間の血をしばらく飲んでいないと起こるものなので。あの……一体何をするつもりですか?」


 すると彼は、腰に差していた剣をするりと引き抜き、グラスの上に手をかざして、剣で自らの手の甲を刺す。グラスの中に赤い液体が静かに注がれていくのを、オーガスタは呆然と眺める。


 ダクラスは自分の血が入ったグラスを、ネフィーテの口元に押し当てた。


「飲んでください。もし拒めば、無理矢理にでも飲み込ませますよ」

「…………」


 そう言って、彼はグラスを少し傾ける。ダクラスに促され、ネフィーテは閉じていた唇を開き、血を飲んだ。

 次第に目の光が収まり、伸びていた牙も縮んでいく。


 吸血衝動が治まったあと、ネフィーテは申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「おふたりとも、お騒がせして申し訳ありません。もう、平気です。いけません、血が出ていますね。早く手当てをしなくては」


 ネフィーテはダクラスの手の傷を見て、心配そうに手を伸ばす。しかし、ダクラスは手を背中に隠し、ネフィーテの心遣いを拒絶した。


「構いません。すぐに治りますから」

「そうはいきません。ちょっと待っていてください」


 ネフィーテは立ち上がり、別の部屋から救急箱を取り出してきた。そして、きわめて丁寧な手つきでダクラスの手を治療し、包帯を巻いていく。父の治療が終わると、オーガスタを呼んだ。


「お嬢さんもこっちに来てください。菌が入ると大変ですよ」

「は、はい」


 オーガスタは言われるがままに椅子に座り、手当てをしてもらう。清潔な水で傷口を清め、軟膏を塗り、包帯を巻いてくれた。手当ての合間、ネフィーテは言った。


「君は私の正体を、知っていたんですね」

「はい」

「吸血鬼が、怖くないんですか?」


 吸血鬼に殺されたときの記憶が蘇り、ぞわりと背筋が粟立つ。そして同時に、ネフィーテに優しくしてもらった記憶が頭の中を流れた。


「怖いです。でも、あなたは怖くありません」

「そうですか。……変わった人がいるものです」


 ネフィーテは優しげに目を細めた。どこか嬉しさが滲む表情に、オーガスタは胸の奥を甘くつつかれる感覚がした。ふたりの様子を、ダクラスが静かに見守っていた。


 包帯を巻き終えると、ネフィーテが言った。


「そうだ、あなたに渡したいものがあるんです。――これを」


 そう言って、ネフィーテは服のポケットから古びた宝飾品をいくつか取り出し、包帯を巻いたオーガスタの手に握らせた。


「あなたのご実家の借金のこと、あれからずっと考えていたんです。残念ながら、私に財力はありませんが、金目のものがいくつかあったので、売って返済の足しにしてください」

「…………」

「すみません。あまり力になれなくて」


 ネフィーテがオーガスタのために考えてくれたこと、相談したことを覚えていてくれたことが嬉しくて、泣き出しそうな気分になった。

 オーガスタは宝飾品をネフィーテの手に返し、首を横に振りながら、「それは受け取れません」と伝えた。


「どうしてですか? 遠慮しなくていいんですよ」

「違うんです。本当は、実家に借金なんてないから」

「え……」

「そう言えば、同情して雇ってくれるんじゃないかと思って、嘘を吐いたんです。騙してしまって、すみませんでした」

「…………」


 こんなに優しい人を騙していたことが心苦しくて、顔を見られない。深く頭を下げていると、ふっと小さく笑う声がして、「顔を上げてください」と言われた。おずおずと顔を上げれば、ネフィーテがふわりと微笑んでいて。


「よかった。あなたが路頭に迷うことになったらどうしようかと心配していたんです。正直に話してくれてありがとう。でも、嘘はだめですよ」


 ネフィーテは優しさを持ちながらも、間違っていることはきちんと言う厳しさもある。前世で、悪いことをして彼に叱られたことが何度もあった。


 懐かしい前世の記憶に浸っていると、今度はダクラスが口を開いた。


「そのように親切にして、私の娘をたぶらかしたのですか?」

「父上!」

「オーガスタは黙っていなさい」


 ダクラスはオーガスタの前に立ち、鋭い眼光でネフィーテを射抜いた。父の迫力に先ほど数名の騎士たちは萎縮していたが、ネフィーテは微笑みを崩さず、余裕さえ感じさせる。


「たぶらかした……ですか? 私がお嬢さんを?」

「そうです」

「まさか。私は彼女とたった一度しかお会いしていないのに、どうしてそんなことができるんです? それに、親切にしていただいたのは私の方ですよ」


 ネフィーテは視線をこちらに向けて、優しげな笑顔を浮かべてから、また視線をダクラスに戻した。


「誰かに気にかけてもらったのは百年ぶりのことです。心に温かいものが広がる感覚を思い出させていただき、感謝しています。素敵なお嬢さんに育ててくださったあなたにもね」


 彼は胸に手を置き、幸せを噛み締めるように目を伏せた。

 ネフィーテは誤解されても、嫌な顔ひとつせず、穏やかな笑顔を見せた。


「どうかもうお帰りを。私も、親子の仲を引き裂いてしまうのは不本意ですから。もう今後は、そこの扉を開けないことをお勧めします」

「あなたはそれで……良いのですか? このままずっと、孤独でも」


 ネフィーテは寂しそうな顔をしながら、窓の外をちらりと見た。日が暮れ始めた空をぼんやりと眺めているが、その眼差しはもっと遠くを見ているようだった。

 そして、何もかも諦めたような顔をして言うのだ。


「ふ。それが悠久の時を生きる吸血鬼の宿命なのでしょう。さぁ、行ってください」


 ネフィーテに促され、ダクラスは部屋を出る。オーガスタがその場に留まろうとしていると、ネフィーテはオーガスタの背中をそっと押し、囁く。


「早くお父様と仲直りしてくださいね。なぜ君が私を想ってくれたのかは分かりませんが、君が親切にしてくれたことは忘れません。ですが、君は……私を忘れなさい。私と君は――生きる世界が違う」

「…………」


 優しく、けれど確かな拒絶の意思が込められた言葉。縫い付けられたように動かない足をどうにか叱咤して、オーガスタは部屋を出た。


「今日は世話になりました。では、お達者で」


 ゆっくりと扉が閉まっていく。


(やっと、会えたのに)


 希望を見つけて、でもやっぱり願いは叶わなくて。現実はいつもままならない。


 だが、扉がほとんど締まりかけたさそのとき、ネフィーテが寂しそうな顔をしたのをオーガスタは見逃さなかった。閉じかけた扉の隙間に手を挟んで強引に開き、ネフィーテの服を引っ張る。扉の外に片足を踏み出した彼の頬を、両手で包み込みながら訴えた。


「生きる世界が違うというのならせめて……っ、近づけるように努力をさせてください! たとえ叶わない願いだとしても、手を伸ばそうと足掻くことは自由なはずです。そうでしょう!?」


 先生、という呼びかけが舌先まででかかっていた。ノエはネフィーテのことを『先生』と呼び、色んなことを教わってきた。

 ネフィーテはノエによく言っていた。沢山の夢を描き、足掻きなさい、と。人にはあらゆる夢を叶える底力がある、と。だが、ネフィーテは教え子にそんなことを言っておきながら、自分の望みには向き合わなかった。


「ネフィーテ様が誰とも関わらずにひとりでいたいなら、それでいいです。でも――」

「でも……?」

「寂しいなら寂しいって、ちゃんと言ってください。自分の気持ちに嘘をつかないでください。嘘はだめ、なんでしょ?」

「…………」


 先ほどネフィーテに言われた言葉を、そのまま返す。

 もし会うことが叶わなかったとしても、どんなに遠く離れていたとしても、ネフィーテのことを思い続けていよう。けれど、伸ばされた手を掴む覚悟なら、できている。


 ネフィーテの赤い瞳の奥が揺れたのを見たあと、オーガスタは彼の頬から名残惜しげに手を離し、扉を閉めた。


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