優しきもの
「……あの子が泣いているというのなら、僕の弟子が役目を果たしたのでしょうね」
「弟子?」
大股で星殿を出て行こうとしていたクロヴィスが、剣呑な目つきで振り返る。黒衣の裾が主を追うように翻り、どんな仕草もいちいち絵になる男だと、コンラートは目を細めた。
「それが、アリスン国防長官の孫娘ってことか」
「さすがですね。話が早い」
「何も知らない小娘を、呪法の共犯者にするとはな。何十年もの歳月も、お前の下衆っぷりを矯正できなかったと見える」
「おや。兄上こそお変わりなく、何十年越しの嫌味でしょう。リーゼロッテのことなど、すっかりお忘れかと思っていましたよ。僕たち家族のように」
ぴくりと寄せられた眉根の下で、隻眼が冷たく光り、害虫でも見るような目がコンラートを射た。
「――ラピスに何をした」
「何も。ただ『竜の書』を焼くよう、勧めさせただけです」
途端、劫火に襲われた。コンラートをなめる炎は魔法による幻だが、反射的に声を上げそうになるほどの熱を孕んでいた。
殺意を剥き出しにした視線をコンラートに突き刺したまま、クロヴィスが胸の内で何かを探っているのがわかった。魔法で弟子の状況を確かめているのだろう。
次の瞬間、星殿の外に雷が落ちた。
閃光が宵闇を引き裂き、轟音が大地を揺るがす。廃神殿が悲鳴じみた音をたてて鳴動し、雨のように砂礫や漆喰の欠片が降ってきた。
「僕の話は正しかったでしょう?」
正しいと知ったからこそ、兄は怒りにまかせて雷を落としたのだ。
それほど激怒してすら、コンラートを実際に丸焦げにしないところが兄らしいが。
代わりに天井から降る砂礫が勢いを増し、外套を廂代わりにかざすと、剥き出しの手の甲を石礫に打たれて血が流れた。
呪術で躰を強化しているので痛みは感じないが、傷自体は防げない。
傷を舐めながら兄を見て、思わず苦笑した。
指先ひとつ動かさず端然と立つだけの兄には、土埃すら届いていない。
「魔法というのは、本当に便利なものですね」
もちろん、望むまま雷を呼ぶのも、瞬時に結界を張って身を守るのも、大魔法使いだからこその技であろうけれど。
「僕が握りしめた贈りものには、魔法の才がなかった。だからお祖父様に言われた通り、自分が持っているはずの贈りものを探し続けました。そしてようやく見つけたのが、今のこの姿。まさか大魔法使いの曾祖父と兄をもつ僕に、呪法の才があるなんてね。ひどい皮肉だと思いませんか?」
にこりと笑いかけるが、兄の表情は仮面を貼りつけたように動かない。
じき、その白皙も夜闇につつまれるだろう。
「……兄上とこうして見つめ合うのは、あのとき以来でしょうか」
兄と弟の関係が決定的に断絶した、あの日。
あの日は砂礫ではなく、本物の雨が降っていた。
★ ★ ★
「リーゼロッテが、身ごもっている……!?」
二人が十五の年だった。
怒れる父に呼び出された兄が、問答無用で殴り倒されるのを、コンラートはなんの感慨もなく見つめていた。その隣で、号泣する母を女官長がなだめている。
「この恥知らずが! 遠からず婚約者となる娘だというのに、なぜ待てぬ! なぜ婚姻前に辱めた! わたしが先方からどれほど責め立てられ、恥をかかされたかわかるか!? お前は獣だ!」
「てめえは生きてること自体が恥のくせに、今さら何言ってんだ。新たに恥をかく余地なんぞてめえにはねえよ」
「なんだとっ!? それが父に向かって言うことか!」
再び振り上げた父の腕を、兄は難なく捩じ上げた。すでに兄のほうが父より背が高いし、腕力もある。父が大げさな悲鳴を上げたが、加減されているのは見え見えだった。
兄は呆れた様子でため息をついた。
「ちゃんと説明しろ。リーゼロッテが身ごもったというのは、確かなのか」
「この期に及んでしらばっくれる気か! お前が女をとっかえひっかえして遊び呆けていることを、わたしが気づいていないと思ったら大間違いだぞ!」
怒鳴りつけるも鼻で嗤われ、父はますます怒り狂った。
暴れるのを抑えつけるのも煩わしくなったのか、兄は長椅子に向かって父を投げつけると、「野猿みたいにキーキー騒ぐな」と椅子の脚を思い切り蹴り上げた。
「どっちが獣だ。わめいてないでちゃんと説明しろ」
兄の迫力に父がたじろぐ隙に、母が叫ぶ。
「ほ、本当にあなたじゃないの!? 違うならはっきり言ってちょうだい! リーゼロッテにいくら尋ねても、泣くばかりで相手の名を言わないそうなのよっ」
名を言わないのに、先方の親は相手が兄であると決めつけて父を責め、兄を罵り、すぐにも婚姻するよう迫ったらしい。これほどの辱めを受けたのにリーゼロッテが庇う相手は、兄しかいないだろうと。
父もさぞ動転したこととは思うが、額面通り受け取って兄を殴りつけたなら、短慮にもほどがある。
「嫁入り前のうら若き貴族令嬢が妊娠したなんて、ひどい醜聞ですからね。向こうの親からしてみれば、相手が兄上であってほしいのでしょう」
コンラートが口を出すと、皆がぎょっとしたように顔を向けてきた。
どうやら、修羅場の中で自分の存在は忘れられていたらしい。
「兄上の嫁に納まれば、いっとき騒がれようと将来は安泰です。優秀な聴き手は、国が金を積んででも欲しい人材ですし、なにがあろうと出世は確実。実力さえあれば政治家のように醜聞で失脚することもありません。リーゼロッテも伯爵の奥方として名誉を取り戻せるでしょう」
「……コンラート?」
「何を言っているのだ、お前は」
困惑も露わな母と父の声が重なったが、それを機に父が元気を取り戻した。
「リーゼロッテの子の父が、どこぞの馬の骨だと言うのなら、我がオルデンブルク家で面倒をみてやる必要などない! いや、そんな傷物のふしだらな娘を嫁にするなど末代までの恥!」
「そうですわ。わたくしたちまで醜聞に巻き込まれますもの。恥ずかしくて、とても社交界に顔を出せません!」
兄を罵っていた口で、今度は少女を罵倒し始めた。幼い頃から可愛がり、彼女こそ後継者の嫁にふさわしいと褒め称えていた少女を。
だが、これぞ現実だ。
優しく愛らしい、花のような少女。少年たちの憧れの的だったリーゼロッテは、この先、傷物の娘として好奇の目に晒され、辱めを受けることになる。
たとえ王家に生まれようとこの国の上流社会では、醜聞にまみれた者は嘲笑され、徹底的に見下されるのだ。
そんな彼女を、救える者がいるとしたら。
それは、兄しかいない。
誉れあるオルデンブルク伯爵家の後継者にして、誰もが認める聴き手。
優秀な聴き手は、国王からすら一目置かれると聞く。
貴重な竜の歌を解けば、それは国益。その手柄の前に、どんな醜聞も脇に置かれるだろう。おまけに兄は、見る者を陶然とさせるほど美しい。
経緯はどうあれ兄の奥方になれれば、リーゼロッテの屈辱は最小になり。
むしろ女性たちの嫉妬と羨望を一身に浴びる、社交界の花となれるはず。
胡乱げにコンラートに向けられていた兄の瞳が、やがて、不気味な虫でも見つけたように見ひらかれた。
「お前……まさか」
ただごとでない気配に気づいた父と母も、話を途切らせ息子たちを見る。
コンラートはにっこりと笑みを浮かべた。
「簡単なことです。兄上が正式にこの家を継ぎ、予定通りリーゼロッテを娶る。それでリーゼロッテの恥を雪ぐことができます」
「――恥じるべきは彼女でなく、孕ませておいて名乗り出もしない男だろう」
怒気に満ちた紅玉と裏腹に、声音は冷え切っている。
コンラートは改めて、兄の嫁となる人は果報者だと感じ入った。
「優しい兄上。あなたの決断ひとつで、僕らの愛しい幼なじみを救えるのですよ?」




