求めるもの
潮目が変わったのは、いつだったろう。
のちにコンラートは思い返した。
両親から溺愛され、可哀想な兄を庇う立場だった自分。
父や教師たちからひどい扱いを受ける兄に、同情を寄せていた自分。
だが、依怙地な面もあれど人並外れて優秀な兄を、自分だけは誇りに思っていた。
なのに。
いつのまにか兄は完全に自立し――そう、孤立ではなく自立していた。
向けられた虐待行為を、身につけた知識と腕力と、圧倒的な魔法使いの才能とで捻じ伏せて。さらに軽蔑と侮蔑をもって、両親や教師たちの自尊心を完膚なきまでに叩きのめした。
そうして、兄に手出し口出しできる者は、誰ひとりいなくなっていた。
それは兄がようやく掴み取った勝利で、喜ぶべきことだった。
なのにコンラートの心は、暗く重く沈んだ。
兄が竜を探しに走り出す、その足取りとは対照的に。
コンラートが兄を想うとき、必ずついてくる光景がある。
屋敷を抜け出す兄を、よく追いかけた。
「一緒に行きたい」と言っても断られるだろうから、こっそりと。
ついてきていると気づかれていたかもしれないが、どちらにせよ、コンラートの脚力では置いてけぼりにされることが殆どだった。
それでも、頭上を往く竜に遭遇するという貴重な経験ができたのは兄のおかげだ。
兄を追っていたおかげで、兄に会いにきた竜を見ることができた。
呆然とするほどの巨体が降り立った先には、竜の歌に耳を傾ける兄。
初めてその場面に出くわしたときの衝撃は、閃光のように脳裏に灼きついて、ときを経ても褪せることがない。
光溢れる森。むせ返るほどの緑の匂い。
淡い紫の鱗を木漏れ日のように煌めかせて歌う竜。
コンラートには、ただ吠えているようにしか聞こえないその声に、兄はうっとりと目を閉じて、長い睫毛を震わせ聴き惚れていた。
綺麗な鼻筋の横顔の、唇が微笑みのかたちにひらく。陽を受けた銀髪が風と戯れ、かたちの良い額を晒した。
それはなんと美しい光景だったことか。
全身を雷に打たれたようで、身動きひとつできなかった。
巨大な竜と、若木のような兄。
誰とも心を通わせない兄が、人外のものには微笑みかける。これが至高の幸福という顔で。
兄のそんな表情を、コンラートは知らなかった。
弟すら知らぬ表情を、竜たちだけが独占する。竜たちはいつだって、望む通りに兄の愛情を引き出せる。
兄の頭には竜のことしかない。
兄が求めるものは竜しかいない。
そう思い知ったのは、そのときだ。
同時に、叫び出したいほどの渇望に苛まれた。
兄への。
そして、兄にはなれないことへの。
変わったのは、兄だけではなかった。
「お前の兄は呪われている。実の親に対して、あれほど不遜で恩知らずとは」
「なまじ優秀なばかりに性質が悪い」
「コンラート。お前たちは双子だ。兄にできることが、お前にできないはずがない。お前ももっと努力するのだ。そうすればきっと、兄に勝てる」
父の言葉と態度も、変遷していった。
「なぜもっと努力しない? なぜ、お前は竜の歌を解けない?」
「双子だろう。兄とそっくり同じ血が流れているのだろう。ならできるはずだ」
「怠けるな、泣き言は聞きたくない。もっともっと努力しろ」
自分のことは棚に上げ、コンラートに魔法の才がないことを責め、兄にしてきたように、睡眠時間もなくなるほどの勉学と鍛練を強いてくるようになった。
コンラートは、自分が握った『贈りもの』を探し続けていた。
それが何かを知るために、父から押しつけられずとも、できる限りの努力はしていた。
魔法使いの才はなくとも偉人と評される祖父を見習い、経理、経営、畑作の研究、歴史に語学と、領地運営に役立ちそうなことならなんでも、意欲的に学んだ。
後継者は兄だとわかっていても。
――いや、違う。
だって兄の頭には竜のことしかない。
兄が求めるものは竜しかいない。家のことなど眼中にない。
美形で将来有望で、伯爵家の後継者である兄に近づこうとする者は、父が考えているよりずっと多い。
しかし兄は、誰のことも愛さない。
竜以外、何者も愛さない。愛せないのだ、彼は。
幼なじみの子爵家令嬢、リーゼロッテのことも。
可憐で思いやりがあって、少年たちの憧れの的の彼女は、幼い日にお茶会で出会って以来、一途に兄を想い続けていた。一度も振り向いてもらえずとも。
コンラートが「双子なんだから、僕にしておいたら?」と誘ってみると、困ったように笑って……
「双子だからといって、あなたはあなた、クロヴィスはクロヴィスでしょう?」
当たり前の言葉であっさりふられた。
コンラートとて兄に負けぬほど人気があったから、女性にふられたのはリーゼロッテが初めてだった。
皆に自慢できるほど愛らしい上に、一途で身持ちが堅く、裕福で血筋も良くて家柄も申し分ないリーゼロッテ。
オルデンブルク伯爵家後継者の嫁として、文句のつけようがない相手。
実際、両家の間で兄とリーゼロッテの婚約はほぼ確定していた。
(でも、彼女では役不足)
だって兄の頭には竜のことしかない。
兄が求めるものは竜しかいない。
リーゼロッテは、いずれ結婚する頃には、兄からの愛情を得られると信じ切っていた。だが、無理な話だとコンラートは冷めた目で見ていた。
兄をとどめておける女など、いやしない。
一途にまごころを捧げようとする相手ならなおのこと、兄は避けて通る。そういう人だ。
(もうこの家に、兄上を縛りつけるものは何もない)
兄は自分でなんでもできる。
もう、自分が兄にしてあげられることは何もない。
この家は、兄の才能を食い潰すだけ。少なくとも、父が生きている限りは。
父は兄のやることなすこと否定し、妨害するから。
だからそう遠くない未来、兄はこの家を出て行くはず。
そしてきっと、二度と帰ってこない。
兄はこの家にも家族にも未練がない。
もう、誰のことも見ていない。
コンラートの躰に生傷が絶えなくなったことにも、気づいていないだろう。
父は兄の代わりにコンラートを責めるようになり、暴力は日に日にエスカレートしている。母は泣くばかりで止めてはくれない。
今ではコンラートが仕置き部屋に閉じ込められているが、兄が差し入れを持ってきてくれることはない。
ロウソクひとつない暗い部屋の中、昔の兄のように血のにおいを立ち昇らせ、兄の真似をして虚空を睨むのもよくあること。
そうしてしみじみ考えた。
どうしていつも、兄のことばかり気にしてきたのだろう。
どうして兄を追わずにいられなかったのだろう。
結局、兄は、何も返してはくれなかったのに。
優しくしてくれたのは、森で迷ったとき迎えにきてくれた、あのときだけだ。
自分は兄のためなら、なんだってしてあげたのに。
(――違う)
暗闇にいると、自分の心の昏さにも目が慣れる。
兄に『してあげた』……何を?
泣くばかりで躰を張って止めてはくれない母と同じ、我が身に被害の及ばぬ範囲で見ていただけではないか。
何をしても許されるとわかっていたから、差し入れもできた。それで自分が損することはなく、「優しい坊ちゃま」と評価されるばかりだと知っていた。
(いや、違う。兄上が好きだから、だから)
敬愛している。
どんな逆境にも挫けぬ兄を。
どれほど暗闇の中に閉じ込められようと、傷だらけになろうと、みずから光を放って立ち向かう兄を。
兄は、特別だから。
竜たちに愛されているから。
竜だけを愛する人だから。
……それに比べて、自分は。
仕置き部屋を出てどこへ行こうとも、竜が会いにきてくれることはない。たとえ竜が頭上を飛ぼうと、その歌を解くことは一生できない。
『わたしによく似た、お前』
父がそう言った意味が、今ならよくわかる。
悲しいほど似てしまった。自分が握った『贈りもの』を、見つけられないままいることまで。
だから、眩い贈りものごと、兄に惹かれる。
彼がいなければ困るのだ。
だって兄がいなければ、自分は空っぽで。
兄は家に縛られているべきだ。
孤高が彼をいっそう気高く美しくするのだから。
そして兄は、兄は兄は兄は――
☆ ☆ ☆
「ちょっと待て、どういうことだゴラァ! ちょっと視ないあいだに、ラピんこが号泣してるじゃねえか! ん? なんだこれ。どこにいるんだ? あいつ……。とにかく、てめえなんぞにかまってる場合じゃなかった。俺は弟子のところに行くからな!」
兄は数十年のときを経て、柄の悪さに磨きがかかり。
思いっきり、竜以外を溺愛する人間になっていた。




