『竜の書』をくれたのは
馬車に戻るとクロヴィスから、「竜の書を見てみろ」と言われた。
幼竜の鱗と――それにラピスの瞳とも同じ、明るい水色の表紙の『竜の書』は、ラピスの横に置いてある。
言われた通りにひらいてみると、白一色だった本に、文字の入った頁が出現していた。
「あっ! あれ? あれれっ?」
「読んでみろ」
「えっと、『親でも兄弟でもないが同類のよしみで連れていく』……んん!? 『プレトリウス山の麓 東側の森』……ええぇ!? なんでぇ!?」
驚きのあまり大声を上げてしまい、「落ち着け」とおでこを小突かれた。
「す、すみません! え、で、でもどうして!? 確かに真っ白しろの本だったのに、さっき竜たちから聴いたばかりのことが書いてあります! いつのまに!? もしかしてお師匠様が、目にも止まらぬ早業で書き込んだのですかっ? 魔法ですかっ!?」
「俺はそんな無意味なアホ魔法は使わん。個人の竜の書とはつまり、そういうものだ。自分が解いた竜の歌が、自動的に記されていく本。世界で一冊、ラピんこのためだけの魔法書だよ」
「僕だけの……魔法書」
夢を見ているみたいな、ふわふわした感覚だった。
ラピスのために出現した本。ラピスと竜の絆が生んだ本。
高鳴る胸に押し当てて、そっと抱きしめると、クロヴィスが優しく微笑んだ。
「大抵は初めて歌を解いたときに、相手の竜から授かるものなんだ。どんな簡単な歌でも、解けば授かる。だからラピんこはもっと早くに授かっているはずなんだが……まさか失くしたんじゃなかろうな?」
「いいえ! こんな本は全然、記憶にないですっ」
ぶんぶん首を横に振っていたら、ぽろりと記憶がこぼれ出た。
昔はいつも、母と一緒に竜の歌を聴き、解いていた。ということは……
「母様も、竜の書を持っていたのかなぁ……」
「ん?」
ラピスは改めて母のことを話した。
歌を解くのがとても上手で、竜に関することは絶対に口外しないよう、注意されていたことも。
すべて聴き終えると、クロヴィスは得心した様子でうなずいた。
「ふむ。お前の母御は、とても賢明だ。良い親だ」
ラピスの胸で、喜びの花が咲き誇る。
師匠が母を褒めてくれたので、率直に嬉しい。
「いいか、ラピんこ」
「あのう、僕の名前はラピスなのです、お師匠様」
「わかったラピんこ。お前は自分の才能をまったく理解していない。お前はいとも簡単に竜と出会い、交流し、その歌を解いているから。だが、普通はそんなことはできはしない」
「え……」
「普通はな。俺様のように溢れんばかりの才能に恵まれれば別だが。竜の歌を解く――すなわち竜言語を解す能力者は、魔法使いの中でも特に『聴き手』と呼ばれる」
「聴き手」
「聴き手になれるかどうかは、生まれ持った資質と育った環境による。まあ、ほんのちょっぴり解くことができる程度の人間なら珍しくもないし、その程度でも聴き手と名乗ることはできる」
クロヴィスは「ほんとにちょっぴりでもな」と、親指と人差し指をすれすれまで近づけてみせた。
「本来は『たくさんの歌を解いた者』に与えられる肩書だったが、お前や俺のように、おチビの頃から苦も無く解いてみせるなんてのは、ものすごい少数派だ。それこそ『ドラコニア・アカデミー』が知ったら放っとかん。お前の継母は子らをあそこに入れたがっていたが、お前なら、アカデミーのほうから『うちに入ってくれ』と頭を下げて頼まれたろう。……あの女がそれを知らなくて幸いだったが」
「え」
「聴き手の才に恵まれた者をアカデミーに入れれば、多額の謝礼金が贈られる。なめし革工房の親方にもらう金なんか阿呆らしいくらいの。そのくらい、稀な存在なんだ、優秀な聴き手というのは」
ラピスは戸惑い、言葉に詰まった。
クロヴィスが嘘をついているとはまったく思わない。
だが、竜の歌を理解することがそんなに特殊なことだなんて、考えたことがなかった。
青空を見ると心まで照らされるように。
清らかな水の流れが、心身の淀みまで浄化してくれるように。
舞い降りた雪を手のひらで受けとめると、楽しくなるように。
澄んだ空気や、草木の香りの風や、森や山や。自然の中に身を置いたとき美しいと感じるすべてが、癒しと元気を与えてくれるように。
竜の歌を解くのは、ラピスにとってごく普通のことだった。
「だからお前の母御は、お前の才能を隠したんだろう。お前がきちんと判断できる年になる前に、周囲の思惑で人生をねじ曲げられたり、ちやほやされてうぬぼれて、馬鹿みたいに利用されることのないように」
ラピスの竜の書についても、母なら知っていただろう……と話し続けるクロヴィスの声を聴くうち、脳裏に遠い日の母の姿が甦った。
躰が弱くて、床につきがちで。
体調の良いときは、森に行きたがった。
竜について誰にも話すなと言っていた。
でもいつも、竜のことを教えてくれていた。
(なんだか、急いでいたみたい)
ふと思う。
別れのときが、早くに訪れると知っていて。
急いで、いろんなことを準備してくれていたのかもしれない。
目がじわりと熱くなった。
母と話がしたいな、と。
久し振りに、ラピスは心から切望した。
きっと母も、クロヴィスを大好きになってくれたに違いない。
三人なら、さぞ竜談義で盛り上がれたろう。
母に会いたい。優しい声を聴きたい。抱きつきたい。良い匂いを吸い込みたい。
会いたい。
……会いたい。
――愛する人はきっと、亡くなるとき、残される者に『恋しい』という魔法をかけていくのだ。