美しいもの
ゴルト街から南西に向かって、騎馬で二日ほど。
レプシウス山脈の連なりを見渡す丘に、かつてシタークと呼ばれた廃村がある。
風葬のごとく朽ちゆく石壁の建物は、原形を残さず巨大なアリ塚のようになったものもあれば、外観だけはかろうじて、在りし日の姿を保っているものもある。
中でも神殿は、職人の魂が宿ったものか、飾り細工の天窓や漆喰の壁に描かれた『創世図』が、奇跡のように保たれていた。
中に入ることのできる唯一の建物だが、風が吹くだけで天井からバラバラと砂礫が落ちてくるのは、『そろそろ限界だ』と告げる星殿の悲鳴かもしれない。
訪う者が消えた今も、夕日はおごそかに祭壇を照らす。
信徒を待つようにそこに立っていた老人は、灰色の外套と相俟って、亡霊そのものに見えた。
彼はクロヴィスが足を踏み入れると目を細め、満足そうに両腕を広げた。
「ようこそ兄上。必ずいらっしゃると思っていました」
クロヴィスは無言でかつての双子の弟を見た。
金髪が灰をかぶったような白になったのは、単に老化現象だろう。
だが澄んだ青灰色の瞳がひどく穢れた灰色になったのは、加齢や病のためでなく、呪法のせいだ。
聴き手の体内に竜氣がたまるように、呪術師の身の内には呪いという穢れがたまる。身の内にあるものは、必ず表面に表れる。
「……どうですか? この村、この星殿は。美しいでしょう? 僕の気に入りの場所なのです。この地は僕にとっての『始まりの場所』ですから。家を出て、神学校に入り、修道のため各地を巡りました。ひとり荒れ地で露宿し、星のひとつも見えぬ空を見上げては、『こんなとき竜の歌を聴けたなら、どんなに慰められることか』と何度も思いましたよ。そんな才能はないと思い知っていたのに、諦めの悪いことです」
僻みや当てこすりというふうでもなく、普通の家族の会話のように、コンラートは話し続ける。
クロヴィスはやはり黙したまま、濁った瞳を見つめていた。
「その旅の中で、シタークに足を運んだのです。すでに廃村であることは知っていましたが、行かねばならないという気になって。兄上やあの子ならば、こう言うのでしょう? 『竜のお導き』と。そうそう、あの子は本当に面白い子ですね! 兄上が誰かと暮らすなどとは夢にも思いませんでしたが……実際に会ってみて、なるほどと思いました。利発で、これ以上ないほど竜に愛されて。まるで昔の兄上だ。性格はまるで正反対ですが。だからこそ気に入ったのでしょう? 名は確か、ラピ」
「その穢れた舌に、我が弟子の名を乗せるな」
コンラートの顔に、皺深く苦笑いが浮かんだ。
「やっと喋ってくれたと思ったら、弟に向かってひどいことを」
「俺に弟はいない。父も母も。俺の家族はラピスだけだ」
灰色の目がスッと細くなった。
が、すぐに肩をすくめて、「世は無常ですからね」とまたも語り出す。
「この地もしかり。どれほど愛そうと、魂込めて創ろうと、生まれた瞬間から滅びが始まる。それがこの世の理です。僕はこの廃村に出会ったおかげで気づくことができました。これぞ僕が求めていたものだと。――人のいない世界。すべて崩壊する地。それがこんなにも美しいものだと、初めて知ったのです」
「人が嫌なら、お前だけ勝手に死ね」
「本当にひどいな。昔の兄上なら、絶対にそんなことは言いませんでした」
「ラピスを呪詛した奴が何をほざきやがる」
「おやおや」
先を促す灰色の瞳に、クロヴィスが「てめえは」と侮蔑を投げつけた。
「あの男に本当によく似た醜悪な汚物だ。思い通りにならないときは八つ当たり。奴は息子を壊そうとし、てめえは世界を壊している」
コンラートの顔に喜悦の色が滲んだ。
「さすが兄上。僕の一番の理解者は、昔も今も兄上です!」
「うわぁ、きっしょ!」
「貴き大祭司長を変質者を見る目で見るのも、あなただけでしょうね」
「何が大祭司長だ。てめえは破壊主義の変質者だ。見るだけで虫唾が走る」
「ああ……この姿ですか?」
節の目立つ指が、己の顔や胸を撫で、にやりと笑った。
「兄上に会えるだろうからと、おめかししてみたのですが。お気に召しませんか?」
「今すぐあの世に召されればいいのに」
「呪術では、兄上のようにはいかないので。我慢してください」
クロヴィスには視えていた。
コンラートに――いや、今はアードラーと呼ばれるこの男に不気味に貼りつく、どろりとした穢れの膜が。
この男は、体内に蓄積した呪いで『若返りの術』を行使している。
若返りと言っても、あくまで呪術。数刻、体力を上げるくらいの効果しかあるまいが。だが老人であれば、背筋が伸びて表情や声に張りが出るだけでも、格段に若々しい印象を与えるものだ。
「周囲の者たちから、よく噂されていましたよ。『大祭司長様は、やたらと印象が変わる。足腰も不自由そうで危なっかしいときもあれば、長旅も苦にしないほど若々しいときもある』と。体力が必要なときのための策だったのですが、今回は若々しい兄上に会うため、ちょっと見栄を張りました」
「見栄を張った結果、これ以上ないほどキモくなったわけか。吐き気がする」
「介抱してあげますよ、いくらでも。筋肉も強くしていますからね」
楽しそうにニイッと笑う老人に、クロヴィスは心底ゾッとした。
正直、つい先刻までは、かつて弟だった者に直接会えば、多少の情けを感じるかもしれないと危惧していた。たとえ醜い因縁があろうとも。
だが、それはいらぬ心配だった。
(ここまで気持ち悪い奴に成り果てたとは)
かつては普通の、素直で人懐っこい少年だった弟。
森で迷った彼を、あわてて捜しに行ったこともあったのに。今なら逆に、できるだけ猛獣だらけの森の奥へと蹴り込みたい。
ゾンネたちから聞いたアードラーの人物評とも、今目の前にいる男とは、かけ離れている。呪法が術者の人格まで破壊するものであるなら、呪いとはどこまで忌々しいものか。
「僕と違って兄上は、本当に美しいままですね」
「……人格を破壊すると言うより、もともと持っていた気色悪い部分を引き出し、まともな部分を押しのけて、本性が露わになるのかもしれんな」
「こんなときに何を研究しているのです?」
不意に、壁がギシリと音をたてた。
天井から落ちてきた砂礫を、アードラーは愛しげに手のひらで受け止める。
「兄上は、朽ちてゆく世界の理と真逆ですね。いつまでも若いまま……いや、むしろいっそう瑞々しく、その銀髪も紅玉の瞳も、輝きを増しているようです。でも」
頼りなく残っていた日の名残りも失せて、宵闇を連れてくる。
ロウソクひとつない仕置き部屋に、弟が差し入れを持ってきた頃を、クロヴィスは思った。
弟が自分に対し何を思っているのかなんて、クロヴィスにはどうでもよかった。
ただ、あの頃から、なぜか弟に警戒せずにはいられなかった。
嫌っていたわけではない。それなりに愛着もあった。
慕ってくれるし、家族で唯一優しくしてくれる弟なのになぜとは思いつつ――勘、本能、竜のお導き。理由は定かでなくとも、とにかく。
クロヴィスにとって弟は、苦手な人種だった。
祭壇からおりた老人が、歩み寄ってくる。
身長は昔からクロヴィスのほうが頭半分ほど高い。
伸び上がり無遠慮に寄せられた顔が、酔ったように微笑んだ。
「でも一番美しいのは、やっぱり。僕が壊した、その左目ですね」




