継母vs.師匠
「どういうこと……いったい、どういうことなのよ!」
グウェンの唸り声も、どこ吹く風。
目の前でふんぞり返って茶を飲んでいる男が、せせら笑う。
「呑み込みの悪い女だ。これからは俺が、ラピん……ラピス・カーレウムの師匠となり、後見役となる。本人も了承済みだ。それだけのことが理解できないのか?」
カッとして、グウェンは机を叩いた。
震動でカップが耳障りな音を立てて倒れ、ドレスに茶が跳ねる。
苛立ちのあまり舌打ちすると、男が馬鹿にしたように「なんとまあ」と鼻で嗤ったので、怒りで震えが這いのぼってきた。
「そんなことはわかってるのよ! わたしが言ってるのは、なんで突然、あのクロヴィス・グレゴワールが出てくるのかってことよ! だいたいあんた、どう見ても年が違うじゃないの! あの大魔法使いは、七十は越えてるはずよ!?」
「ほう。馬鹿のくせに俺の名声を知っていたか。当然のことだが褒めてやろう」
「なんですって! あんたがもし本人なら名声じゃなく悪名のくせに、自覚がないわけ!?」
「たとえ聖人君子を前にしても、人格を批判する輩はいるものだ。だがクロヴィス・グレゴワールが誰より優れた大魔法使いだという事実は曲げられない。違うか?」
くっ、とグウェンは言葉に詰まる。
その通りだ。この国に住む者で魔法に興味を持つ者、もしくはグウェン親子のように『ドラコニア・アカデミー』に入りたいと願う者なら、その名を避けては通れない。
――クロヴィス・グレゴワール。
誰より強い魔法を操り、いくつも難解な竜の歌を解いた、伝説の大魔法使い。
未だ彼ほど貴重な『竜識』――つまり竜の歌によってもたらされた知識や情報を、数多く集めた者はいないとされる。
彼以降、『大』魔法使いの称号は、誰にも贈られていない。彼に匹敵するほどの功績をおさめた者がいないからだ。
ただ、目の前にいる男は明らかに、若すぎるのだが――
その疑問を脇に置けば、グレゴワールという男に必ずついて回る人物評に、この男はぴったり当て嵌まっていた。
すなわち。
無礼者。傲岸不遜。反逆者。稀代のペテン師。国への背信。王族への不忠。裏切者。その他諸々。
多大な功績もかき消されるほどの悪評の嵐だ。
グウェンの混乱を見透かしたように、冷笑が向けられた。
「教えてやろう。大魔法使いの躰には、『竜氣』が蓄積している。よって躰が若く保たれる。ジジイの姿にも、なろうと思えばなれるがな?」
「……あんたが本物のクロヴィス・グレゴワールだとして」
握ったこぶしが震えるのは、怒りのためばかりではなかった。
グウェンは今になって気づいてしまったのだ。
男がカップを持つ手に光る、指輪と腕輪に。
どちらも金と紫玉を用いた、『五本指の竜』の意匠。
五本指の竜を用いることは、王族と大魔法使いにしか許されていない。
そもそも、この男が突然やって来て、「ラピスを弟子にする。女主人を呼べ」と門番に告げた際、グウェンは何を馬鹿なと門前払いを命じた。
しかし門番は、指一本動かさぬこの男に吹っ飛ばされたのだ。
それを窓から目撃し、大あわてで、すぐ追い払うよう執事に命じたのだが。
男はなぜかひとりでに開放された正門から、黒光りする馬車で入り口のすぐ前まで乗りつけると、誰に阻まれることなく屋敷に入ってきた。
その威容。
黒い外套を纏った長身に、月光のような銀髪。
滴る血のような瞳。
整いすぎるほど端麗な容姿だからこそ、片目を覆う黒い眼帯が凄みを増し、禍々しいほどの圧が放たれていた。
(なんなのよ、この男は)
気迫に呑まれ、気の強いグウェンが侵入に抗議することもできず、使用人たちもそろって魅入られたように固まっていた中で。
騒ぎを聞きつけたらしく、庭掃除から息を切らせて戻ってきたラピスだけが、能天気な声を上げた。
「わあっ! 本当に来てくださったのですね、クロヴィスさんっ!」
見たこともないような笑顔で男に飛びついたものだから、グウェンはもちろん、皆が呆気にとられた。
その間に執事が勝手に……
「坊ちゃまのお客様なのですね。大変失礼いたしました」
と応接室に案内してしまったのだ。
この執事は長くカーレウム家に仕え、家業の取引先にも精通しているものだから、グウェンもあまり強くは出られない。それをいいことに常にラピスを甘やかす。
おかげで女主人として応対しないわけにはいかなくなって、今のこの状況に至るのだ。
おまけに、出しゃばってきたラピスには部屋にいるよう命じたのに、「ラピスにも話を聞く権利がある」と言う男の脅しじみた響きに抗えず、同室を許してしまった。
今も部屋の隅でそわそわとこちらを窺っているラピスを怒鳴りつけたくてたまらなかったが、無視することでグウェンはどうにか腹立ちをこらえた。
(本当に憎たらしい子だわ……竜の件といい、この男といい。神経を逆撫ですることばかりする!)
――グウェンの父は準男爵だ。
だが「成金が爵位を買った」と社交界では嘲笑されていたし、この国では準男爵に相続制度はないから、苦労して手に入れた爵位は一代限りで終わる。
それでも父が爵位にこだわったのは、家格が家業に好影響を与えるだろうと期待したゆえだ。上流階級の客筋を掴みたかったのだ。
だが父は投資に失敗し、あっというまに家計は火の車となった。
だからグウェンは、冴えない醜男だが裕福な銀行家と結婚した。
長女ディアナと長男イーライも授かった。
しかし面白味のない夫に対する鬱憤は募る一方で、若い男との浮気に走った。散々楽しんだあと夫にばれて、離婚を言い渡されてしまったが。
無一文で放り出されてはかなわないと焦ったグウェンは、策を弄して夫に薬を盛り、娼婦と同衾させた。
おかげで「浮気はお互い様」となり、離婚の傷も浅く済んだ。
ラピスの父ジョゼフにも、財産目当てで近づいた。
前妻を喪い気弱になっていた男に酒を飲ませるのも、薬を盛るのも、実に簡単だった。そしてグウェンは目論見通り、街で一番の貿易商の妻となった。
(これまでわたしを馬鹿にしてきた者たちを、財力で捻じ伏せてやる)
カーレウム家にいれば、それができる。
虚栄心が満たされ、最高の気分だった。
が、誤算もあった。
ひとつは、ジョゼフがあっさり死んでしまったこと。
グウェンに商売のことはまったくわからないから、立場上は女主人でも、実務はほかの者に頼るしかない。そのぶん彼女への配当が減る。
もうひとつが、前妻の子ラピスである。
ラピスは、憎たらしいほど愛らしい少年だ。
性格も明るく素直で、皆に好かれている。
彼とイーライが比較されたとき、十人中十人がラピスを高く評価するだろうことは、口惜しいが認めぬわけにはいかない。
さらに屈辱的なことに、ジョゼフにとって最愛の者は、死ぬまで前妻のルビアだった。財産目当てで再婚したとはいえ、その事実は、グウェンの女としての自尊心をひどく傷つけた。
死んでなお夫の心を独占し続けたルビア。
その女に瓜二つという息子。
ラピスにこれ以上、良い目を見せてなるものか。
グウェンは最初からこの家を乗っ取るつもりでやって来たし、跡継ぎにはイーライを据える。当然だ。
……実はジョゼフは、財産の殆どをラピスに相続させるという遺言書をのこしていたのだが……それも方々に手と金を回して、握り潰した。
ラピスがイーライより高評価なら、貶めればいい。
彼がイーライより高みに在るというのなら、引きずりおろして這いつくばらせればいい。
だから粗末な生活をさせ、使用人と同様に扱って、教育の機会も取り上げた。
なのに、なぜ。
ラピスはどうして、竜の子を得るという幸運に恵まれたのか。
いつのまに大魔法使いなどと知り合って、師弟関係を結ぶまでにこぎつけたのか。
(――どうして、わたしの子ではなく、ラピスが……!)
相変わらず部屋の隅から不安げにこちらを見ているラピスに、憎悪すら感じる。
「……ラピスは、カーレウム家の大事な子供。あんたのような無礼な男に、預けるわけにはいかないわ」
(あの子を特別な存在になど、させてたまるものか)
その一心で出た言葉だったが。
黒衣の男の目が、すうっと細くなったとき、グウェンは危うく悲鳴を上げるところだった。
その目は、獣が獲物をいたぶる目。
白皙に浮かんだ酷薄な笑みに、背筋が凍りつくかと思った。