願いを込めて
星殿に入る前から、なんとも言えないにおいが漂ってきた。
各地で被災者や病人の救助にあたってきジークは、すぐにその原因に気づいたらしく、ラピスの鼻を面布で覆ってくれた。
建物に入ると、においが何十倍も強烈になる。汗や体臭、血と排泄物などが入り混じり、饐えたにおいが充満していた。
その中に横たわり、あるいはぐったりと背を丸めて座り込む、たくさんの病人たち。
素朴な造りの星殿は、外見から想像したより広く、高さも奥行きもある。
椅子等が撤去された室内には、寝台もいくつか用意されてはいるが、全員が使える余地はなく、多くは藁と敷布を敷いた床に寝かされていた。祭壇以外の使える床は全部、病床代わりだ。
ラピスは、こうした生々しい痛苦に満ちた現場に立ち入るのは初めてだった。
痛みに呻き、苦しさに身をよじり、発疹を掻きむしり、喀血する人々。
自分より小さな子もいる。見ているだけでもつらくて、彼らの苦しみが我が身に迫ってきて、床に臥した母の姿とも重なり、震えがくるほど胸が痛んだ。
(でも、でも。この人たちは助かるんだ。助けるんだ!)
「大丈夫?」
「大丈夫か?」
顔色を変えたラピスに気づいたのだろう。町長とジークが心配そうに声をかけてきたが、はっきりとうなずいた。
手立てはある。できることがある。その方法を古竜が教えてくれた。それはなんて幸せなことだろう。
「大丈夫です! 早速、お薬の準備を始めましょう!」
凛々しく宣言したつもりが、「しんどくなったら、すぐ言うこと」と心配されたままだったが。まず段取りを確認していると、出入り口のそばにうずくまっていた老爺が目をひらいた。
「ああ、ベスターさん……戻ってきてくれたのか……」
「当たり前でしょう! ごめんなさいね、雪で家から出られなくなっていたの。でもね、心強い方たちが助けに来てくれましたからね!」
「心強い……?」
周囲の人たちもだるそうにこちらを向く中、町長はラピスとジークを手で示した。
「こちらは、王都の第三騎士団団長のアシュクロフト様と! あの、噂の大魔法使い様のお弟子さんである、ラピスくんよ!」
ズンと進み出て、「気にせず楽にしていてくれ」と会釈した大柄なジークに注がれた皆の視線が、次いで、ジークの横からぴょこっと顔を覗かせたラピスに下がった。
すかさず面布を外して頭を下げる。
「こんにちは、ラピス・グレゴワールです! すぐにお薬の準備を始めるので、もう少しお待ちください!」
ぽかんと口をあけた人々に向かって、にっこり笑う。
すると、最初に話しかけてきた男性が、落ちくぼんだ目を潤ませ、両手を合わせた。
「ベスターさん……天の御使いを連れてきなすったか……」
「ええっ!? 違いますよ、ラピスくんはね」
町長が訂正しようとするも、次々、横たわったまま手を組む人たちが続出する。
「なんとまあ、眩しいような御子だよお……」
「最後に目にするのが、こんな綺麗な天使様で、よかっ……ゴフッ」
「ちょっとお待ちなさい! 誤解よ、ここはまだあの世ではないわ! 気をしっかり持って!」
町長があわてて駆け寄る。
彼らが心配ではあったが、なぜか励まそうとするたび涙を浮かべて拝まれるので、(病気の方に気を遣わせちゃいけないな)と、やはり薬作りを最優先することにした。
だがそのとき、ジークがハッと息を呑んで、「プレヒト!」と叫んだ。
(プレヒトさんって確か、伝書鳩でロックス町の現状を知らせてくれた騎士さん!?)
ラピスもジークの視線の先を追う。
そこには壁に寄りかかって半身を起こし、弱々しく手を振る青年がいた。
「団長、ラピスくん……」
笑ってみせるが、頬にも首にも発疹が出ている。
懸命に疫病の情報を送ってくれた彼も、その後感染していたのだ。
ほかにも、「来てくれたんですね、団長」と泣き笑いを浮かべている者が何人かいる。魔法使いの護衛にあたっていた騎士たちだろう。
床は病人たちでいっぱいで、足の踏み場もない。ジークは部下のもとへ駆け寄ることもできぬまま、固くこぶしを握り締めた。
「すぐに助ける。もう少し辛抱してくれ」
低いがよく通る声に、騎士たちは嬉しそうにうなずいた。
「信じています……団長と、ラピスくんだから」
☆ ☆ ☆
星殿や集会所は病人でいっぱいなので、屋外で湯を沸かすことにした。
ジークが手早くレンガと薪とで火を熾す準備を整え、大鍋をかける。それを同じ要領であと二つ用意し、三つの大鍋で始めた。
町長の声かけにより、未感染の人々も手伝いに出てきてくれて、「何が始まるんだ」と戸惑いながらも、頼んだ通りに薪や鍋を持ち寄ってくれた。
「魔法使いなんて勝手な奴らばかりだ。あてになるもんか」
胡乱そうに言う人たちもいた。けれどラピスが鍋に入れるための雪運びで悴んだ手に息を吐きかけていると、「どれ、やってあげるから」と手を貸してくれた。
「こんな小さいのに頑張ってくれて、ありがとな。ベスターさん家を占拠して威張り散らしてる奴らと大違いだよ」
「そうだよ。なんか……すごい可愛いし」
「だな……。見てるだけで癒されるな……」
いつのまにか、空気が和んできた。
さらにはラピスが魔法で点火し、「ん~。こんな感じかな?」と自在に火勢を操って雪を解かしたり、瞬く間に沸騰させたりすると、「おおー!」と拍手まで起こった。
町長が苦笑する。
「ごめんなさいね。こんな田舎にいると魔法を目にする機会なんてそうそうないものだから、いちいち驚いちゃって。それにみんな、追いつめられて緊張続きだったから……」
「僕も一緒です! 初めてお師匠様の魔法を見たとき、すごくびっくりしました~」
にこにこ笑いながら言うと、町長はなぜか「やだもうっ!」とジークの腕をパシパシ叩いた。
「可愛いすぎて困っちゃう! そう思いません!?」
「そうだな」
(そういえば……)
ふと思う。
クロヴィスは、ラピスが巡礼に参加すると決めて以来、急遽あれこれと魔法を教えてくれたけれど、それまで日常生活で魔法を使うことは殆どなかった。あんなに自在に魔法を操れるのに、火を熾すのも水を汲むのも自力だったのはなぜだろう。
(訊きたいな。お師匠様とお話ししたいな)
恋しさは不意に訪れるが、今はそんな場合ではない。
ラピスは薬の入った小瓶を取り出した。
『湯で満ちた大鍋にひとしずく』と教わった薬。
「みんなの病気が治りますように!」
氷点下の大気に抗うように立ち昇る湯気に顔を舐められながら、願いを込めて、ポチョンと一滴。
すると一瞬にして、湯がミルク色に変化した。
覗き込んだ町の人々も驚愕の声を上げる。
「ほわ~綺麗……。ね、ジークさん! 綺麗な色ですねっ」
「……ああ……そうだな」
精悍な面にも、ホッと力が抜けたような笑みが浮かんでいる。
爽やかな雪の匂いの湯気が、皆の心まで解きほぐしてくれるようだった。
乳白の湯をよく見ると、ちらちらと煌めく真珠の輝き。この薬を与えてくれた、あの優しい古竜と同じ色だ。
(これで正解なんだ)
そう確信できる色。
「あらまあ、とっても清々しい匂い! ……まあ、まあ……!」
目を丸くしてラピスと薬湯を交互に見る町長と、「ほんとに」「なんだろ、匂いだけでもスーッとするな」と騒ぐ町の人たちに、笑顔全開で協力をお願いした。
「この薬湯を、町の皆さん全員で召しあがってほしいのです! まだたくさん作れますから、ここに来られない方たちにも、みーんなに配っていただけますか?」
☆ ☆ ☆
「信じられない。急に痛みも苦しさも引いた……!」
「むしろ寝込む前より調子が良いような……」
「うちの子の熱も下がりました!」
古竜直伝の薬の効果は絶大だった。
服用して間もなく、星殿や集会所や自宅隔離されていた病人、そしてその家族たちが、次々に驚嘆と歓喜の声を上げて飛び出してきた。
熱が下がり、激しい関節痛や喀血の発作も治まって、発疹の痕跡はまだ残っているが腫れは引いている。滋養強壮の効果もあるのか、「躰が軽い!」とついでに雪かきを始める者たちまでいた。
その雪を使いたいので集めておいてくれるよう頼むと、快く応じてくれた。
「ほかにできることはないかい!?」
「ラピスくんとアシュクロフト団長が来てくれなかったら、この町は全滅していたかもしれないよ」
「大魔法使い様のお弟子さんが古竜の歌を解いて蝗災から村を救ったという噂も、今なら真実だとわかります」
「ありがとう、本当にありがとう!」
感謝と喜びの報告が次々ラピスとジークに届けられて、嬉しいことこの上ない。とはいえ、皆が興奮しすぎなのが心配でもあった。
「病み上がりなのですから、まだ安静にしていてください~」
「そうよみんな、まだ安静にしてなさい! いい気になって寒い中動き回って、ぶり返したらどうするの!」
町長も一緒に注意してくれたが、「わかってるよ町長」「これが終わったら休むから」と笑って、雪かきの手を止めない。
疫病と吹雪に閉じ込められ、心身共に追いつめられた窮状からようやく解放されたのだから、興奮するなと言うほうが無理なのかもしれない。
その騒々しいほど賑やかに変貌した町に、ジークが飛ばした伝書鳩の知らせを受けたディードたちも駆けつけてきた。
「「ラピスぅ! 無事でよかったあぁぁ!」」
涙目の二人に抱きつかれ、着膨れ三人組はボフンボフンともつれあって雪の上を転がった。雪まみれになって大笑いする。
それを見ていた町の人たちも声を上げて笑い、回復したプレヒトらも騎士仲間と抱き合って喜んでいる。町長も涙目で「ああ、本当に夢のよう」と繰り返す。
「ラピスくんも皆さんも、お疲れでしょう。心ばかりですが、お食事を用意しましょうね」
「そういえば、安心したら腹減ったな」とヘンリックが真っ先に反応したけれど、ラピスにはまだやるべきことがあった。




