救いを、待っている
ラピスはジークの許可を取り、詰所の裏手へと移動した。
出入口は大通りに面しているが、奥行きのある建物の反対側は、馬の運動場へ続いている。
今はすべての馬が厩舎に入っていて、広大な運動場には、いつのまにか降り出した雪があっというまに積もっていた。すでにラピスの膝くらいまで積雪がある。おそらく例年であれば、この程度の積雪はあって当然なのだろう。
「ここで歌うのか?」
わくわく顔のギュンターに、「はい!」とうなずいた。
「歌で竜に相談してみたい」と提案したとき、ジークたちは驚きながらも快諾してくれた。これまでの経験から、魔法と違ってラピスへの負担も少ないと考えたらしい。
ディードとヘンリックと三人で気軽に試してみるつもりだったのだけれど、話を聞いていたほかの騎士たちまで興味津々で集まってきたのは予想外だった。会議が停滞していたから、みんな気分転換をしたいのかもしれない。
ラピスは人が多くても気にならないので、かまわないのだが。
(幼竜やシグナス森林に来てくれた竜は、歌に反応してくれた)
だからと言って、毎回来てくれるものでもないだろうけれど。
でも、何もできずに待ち続けるだけより、ただぼんやりと変化を期待するだけより、今できることをしてみたい。もしもダメでも、やってみたい。
……ジークとディードの二人がかりで、またも着膨れ雪だるまスタイルにされてしまったので、ちょっとばかり苦しいのが難ではあるが……。
ラピスは、深く息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺に届いて、躰の内から身が引き締まる。
ほのかに炭の香りを思わせる、澄んだ大気が心地いい。
唇にひらりと雪片が触れたのを機に、白い息に旋律を乗せた。
この雪雲の向こうに竜がいるなら、届いてほしい。
ラピスは結晶のように丁寧に、想いを込めて音を紡いだ。
――もしもこの歌を気に入ってくれたなら、どうかここへ来てください。
ロックス町の人々を助ける方法を教えてください――
ラピスは、ほかの皆の存在を忘れていた。
想いを竜言語で紡ぐことと、歌う楽しみそのものに集中していたから。
だから睫毛に触れたふんわりした感触を、最初は雪だと思っていた。
けれどそれが、真珠色の煌めきだと気づく。
天に向かって差し出した手のひらに、竜鱗の欠片が、ふわりと乗った。
雪が降り出すときのように音もなく、いつのまにか。
北の空に、古竜が出現していた。
灰色の雲と雪に溶け入るような、白き飛竜が。
これまでのように近距離の大地や空ではなく、遠く連なるレプシウス山脈の上空から、こちらに顔を向けている。
広くひらけた運動場にいなければ、建物に遮られて見逃していたかもしれない。
遠いからこそ、尋常でないその巨きさがわかる。
獣型の躰も翼も雪の純白。氷柱のような角が額から背部にかけてずらりと突き出ている。
雪像が動き出したような形貌の、こちらを見つめる眼だけが、冬の海に似た濃紺だった。降る雪の向こうに目の色まで認識できる、それほどに巨きい。
「古竜さん……」
最初に出現に気づいたのは、やはりラピスだった。こぼれた呟きから周りの皆にも伝わって、ラピスの視線の先を追い、驚愕の声が次々上がる。
と、真珠の煌めきの鱗が、再び風花のように飛んできて、ほろほろとラピスに降り積もる。
静かな優しい歌が聴こえる。ラピスは目を閉じ耳を澄ませる。
降る雪に音があるなら、きっとこんな音。
――古竜は歌う。
どこまでも雪と氷の世界を。
永久のように続いた猛吹雪を。
束の間の日射しを拒む凍土と、氷の海を。
氷床と同化して、古竜は見守り続けていた。
容赦なき酷寒の天地は何も生まぬようでいて、じっくりと地形に影響を与える。水の循環を促し、凍った海の下では小さな命が活動を始めた。
それはやがて、世界のすべてに作用する、氷と海と大気の体系。
いつまでもいつまでも、飽くことなく見つめる古竜に、誰かが尋ねた。
『楽しいか?』
『楽しい。これからもっと変化する。この先必ず、命が増えるよ』
――そこで雪白の古竜の歌は終わった。
古竜が見せてくれたのは、雪と氷に閉ざされた世界だった。
命の存在を許さぬ過酷な世界に見えたけれど、『楽しいか』と問いかけてきた誰かも、答えた白き古竜も、穏やかで、心から楽しそうで、幸せそうだった。
なのに。
今ラピスが目にしている雪白の古竜は、打ちひしがれているように見える。
紺青の瞳が雪で潤んで、涙をこらえているみたいだ。
ラピスは、竜に会ってこんなに悲しくなるのは初めてだった。
『どうしてそんなに悲しそうなのですか? どこか痛いのですか?』
もう一度歌うと、粉雪のように返歌が降った。
『救いを。救いを、待っている』
救い、とは。
古竜がそれを求めているのか。あるいはロックス町の人々のことか。
ラピスには前者のように思えた。
『何か困っているの? 僕にできることは、ありますか?』
今度は巨大な目に、優しい微笑の色が浮かんだ。
けれど返された歌は、質問に対する答えとしては曖昧だった。
『雪真珠の鱗、苺鈴草、老亀の甲羅、南方の砂』
歌の意味は、薬の材料と作り方だった。
古竜は続けて、ロックス町に入る術を歌い……
『彼の町は、呪いの支配下にある』
そう警告して、聖魔法と風魔法で町に入り、土魔法を合わせて防御し、火と水の魔法で浄化する方法を、具体的なイメージと共に歌ってくれた。
薬のほうは、今回の疫病に有効ということなのだろう。
それだけ歌うと、雪白の古竜は、花弁が散るように消えてしまった。
なおも古竜の姿を探していたラピスだが、諦めて視線を下げたところで足もとの様子に気づき、「あっ!」と声を上げた。
真珠の煌めきの竜の鱗(の欠片)が、雪の上に降り積もっている。
『雪真珠の鱗』とは、先ほど降ってきたこの鱗のことだろう。辺りに散らばるそれを、雪に覆われる前に回収せねばならない。
「みんな手伝ってくださ~い!」
「これを拾えばいいのか?」
「はい!」
シャキッとしているのはジークだけで、ほかの者は竜酔いしているらしく、古竜が消えた空を見上げてボーッと口をあけていた。
鱗を拾う手を止めたジークが、以前クロヴィスがやっていたように、ギュンターを含む騎士たちの尻や背中を叩いて回った。だいぶ手荒いが、数回叩かれると皆我に返って、急いで鱗を集めてくれた。
広間に戻り、解いた歌の仔細について話すと、ギュンターが「トリプト村の村長がくれた甲羅が、こんなところで役立つとはなぁ」と愉快そうに笑った。ラピスもそう思う。老亀の甲羅をくれた村長に、心から感謝だ。
「それにしてもラピスくんは本当にすごい!」
興奮気味の騎士たちは、未だ頬を上気させている。
「自分、感動しました……! 古竜の大迫力の美しさと、威厳と、そしてラピスくんの歌に!」
「本当に。夢を見ているみたいでしたよ……」
なんとか事態を打開できそうだし、みんなが喜んでくれてラピスも嬉しい。
けれどやっぱり、古竜のひどく悲しそうな眼が忘れられず、胸が苦しくもあった。
「ラピス、もう外套脱いでも大丈夫じゃないかな」
「あっ、そうか」
ぼんやりしていたものだから、ディードに言われるまで雪だるまスタイルのことを忘れていた。単に着膨れしたままだから苦しかったのかもしれない。
「暖炉のそばにいろよ」と言いつつディードが脱がしてくれたのだが、その途端、外套の帽子や内側から、真珠色の鱗がどっさり落ちてきた。
「うわぁ、こんなに入ってた~」
「これ絶対、狙って入れただろ、古竜……」
ヘンリックが呆れたように言うので、「まさかぁ」と笑いながら何げなくポケットを探ると、そこにもぎっしり鱗が詰め込まれていた。手のひらいっぱいの鱗の欠片を見て、思わず「ほへ?」と変な声が出る。
「ほらやっぱり、狙ったんだって! ぼくのには全然入ってないもんね」
ポケットを確認して残念そうに顔をしかめるヘンリックにつられたか、騎士たちも自分のポケットを探っている。なんだか微笑ましい。
ジークが難しい顔で腕を組んだ。
「苺鈴草は、滅多に手に入るものではないな……」
すかさずラピスは鞄から、干した苺鈴草入りの袋を取り出し、ひらいて見せた。
「じゃじゃーん!」




