ディードの想い
ものごころついた頃にはディードは、国王である父・アンゼルムが語る大魔法使いクロヴィス・グレゴワールについての逸話を、すべて諳んじることができた。
誰より多くの古竜の歌を解き、彼の竜の書は金文字で溢れている。
繊細な宝石細工のような容姿ながら、気性の激しい先王に臆さず物申す唯一の臣下だった。
反面、その気骨ゆえに、主従のあいだに生じた決定的な亀裂を修復するどころか、一切の未練なく、地位も名誉も国王本人すら置き去りにして、城からも王都からも去ってしまった。
そんな大魔法使いの話。
父アンゼルムは、狩りや剣技よりも、楽器の演奏や竜識学の研究を愛する王で、古から続く「いずれ竜の力は欠ける。その対処法を探せ」という竜の警告を、真剣に考えていた。
また、クロヴィスが訴え続けた『呪法への対策』についても、深刻に受け止めていた。
だがアカデミー派で占められた臣下たちは、対処法を探すための集歌を推奨するどころか、聴き手の養成すら先送りにして、いま自分たちが手にする利権にばかり血眼になっている。
なすすべなく、世界の何処かで『これまでにない災害』が起きたと耳にするたび心を痛める父を、ディードは見てきた。
「いつまでたっても対処法を探せぬゆえに、『創世の竜の書』の内容も欠落が続いている。これでは古竜たちは、この世界で安らかに存在できないよ。竜たちの力が欠ければ、呪法の作用が大きく働き、よりいっそう竜たちを苦しめるのだから。竜たちは気が遠くなるほど長い時間、世界と人とを守り続けてきてくれたのだよ。なのに苦しいときに人は知らんぷりで、それどころか竜を呪う者までいる。こんな悲しいことがあるかい? そんな悲しい想いを竜たちにさせて、平気でいられるかい?」
悲しそうな父につられて、ディードも泣いた。
子供ごころにも、竜たちがあまりに可哀想で。恩知らずな人間が情けなくて。
そして父のそうした考え方は、クロヴィスの教えがあってこそなのだから(直接の関りは殆ど持てず、一方的に覗き見て、見聞しただけとはいえ)、偉大な師たる大魔法使いは絶対に必要な存在なのだと確信したのだ。
けれど王族はすでに彼の信用を失い、それを回復したくとも、どこにいるのかすらわからない。
国の中枢はアカデミー派で占められていて、王であっても、多くの人員を割いてクロヴィスを捜索することはできなかった。議題に乗せても阻まれてしまう。
だから王は、ごく一部の信頼できる者たちに命じ、大魔法使いを捜させた。
圧倒的に人手が足りず、藁の山から針を探すごとくだったけれど。
それでも王は信じていた。
「必要な人なのだから、必要なときには必ず見つかる。竜が導いてくださるよ」
成長した息子たちも捜索に加わった。
王族としての公務や視察の折や、騎士として巡視に出た際に。
その名目のためにこそ、騎士の肩書が必要だったとも言える。
ギュンターとジークは幼い頃から共に学んだ親友同士で、共に王の話に感化された同士でもあるから、積極的に捜索に出ていた。
ディードは昔は躰が弱く、騎士見習いとしてジークに鍛えてもらうまで、すぐに熱を出して寝込むような子供だった。
だから城を出れば第三王子の顔を知る者は少なく、最も自由に動き回ることができた。
けれど杳としてクロヴィス・グレゴワールの行方は知れぬまま、月日は流れて。
さすがに諦めかけた頃、奇跡のように、向こうから、書簡が届いた。
と言っても、王ではなく役所宛てだ。
正式な師弟契約と、保護者として登録するための申請。
求め続けていた、大魔法使いの所在地も書かれていた。
「これぞ竜のお導き!」
皆、歓喜に湧き、喜び勇んだ。
が――気になるのは、人嫌いで知られる彼が、初めて弟子をとったという事実。
その理由について能うかぎりの情報を集めたところ、身の回りの世話をさせる小姓ではないかという噂もあった。年齢的にはあり得ること。
なんにせよ、訪ねてみなければ。
しかし大仰にするのはまずい。
クロヴィスの性格上、絶対に嫌がられると父王が断言した。加えて、いざ実際に会えるとなって、王の懸念が噴出した。
「彼は先王を……そして王族を、忌み嫌うているはず。王族の者というだけで、対面を拒まれるかもしれぬ。それに私が直々に招いたとアカデミー派に知られたなら、クロヴィス卿が王党派に与したと見なされ、政争に巻き込んでしまいかねない。あの人はただ、竜の歌を聴きたいだけなのだ。延いてはそれが民と竜と世界のためになるのだから、邪魔をしては本末転倒」
いつも鷹揚にかまえている父が、まるで初恋相手を誘う少年のように神経質になっていた。だが会わないことには始まらない。
旅慣れているジークと、最も身軽な立場のディードで――乳兄弟のヘンリックが心配して「自分が行く」と言い張ったので、仕方なく剣技で負かして言うことを聞かせるというゴタゴタもあったけれど――ようやく、大魔法使い宅を訪ねた。
しかし何度行っても、見つからない。
結界で隠してあったのだと、あとになって知った。
ラピスが二人を見つけてくれなければ、今でも会えずにいただろう。
クロヴィスの人嫌いは、想像を超えていた。
父の懸念は大げさでもなんでもなかった。
噂に聞く悪辣な人物像とは違うと思ったが、父の話より、ずっと怖い人だとディードは思った。
ジークが訪問理由に王の存在を匂わせただけで、家が震えるほどの怒りを見せたし、ディードも短慮な発言をして怒らせてしまった。
「俺は自分の無能を棚に上げて『失礼』だの『敬え』だのと要求しやがる奴は、牛のゲップより役立たない、クズ中のクズだと認識している」
痛烈な叱責を受けて、悔しくはあったけれど、彼の怒りは、祖父である先王に向けられているようにも感じた。
ならば自分は決して、同じ轍を踏んではならない。
――ラピスには、初めて会ったときから、良い印象しかなかった。
あまりに懐っこく話しかけてきて、しかも「地竜に言われて探しに来た」などと言うから面食らってしまったけれど。
疑う気持ちはすぐにかき消えた。
元来、用心深いディードの警戒網を、ラピスは一瞬ですり抜けてしまった。
彼が受け入れてくれたから、クロヴィスも対面してくれたのだ。
大魔法使いとその弟子は、当日のうちに奇跡を――ディードにとってはまぎれもない奇跡を、見せてくれた。
頭上近くを、風雨を引きつれ飛び去った飛竜。
初めて竜を、その質感まで伝わるほど間近に見ることができた。
だが師弟の二人は、その奇跡のような光景を、ごく自然に受けとめていた。
(ああ、だから……)
そのとき、父がクロヴィスに心酔した理由を、真実、理解できた気がした。
大魔法使いは、遠い存在だった竜を、身近に感じさせてくれる。
「竜は確かにこの世界に関わってくれている、守ってくれている」と、実感することができるのだ。
言葉にならぬほど荘厳で強靭で、猛々しくも美しい、守護の象徴。
こんなにも心を支え、強くしてくれる存在が、ほかに在ろうか。
集歌の巡礼に参加するのは弟子のラピスであると知らされたとき、ヘンリックはかなり怒っていた。何を言っても納得しないので、再び剣技で競って負かし、おとなしく城で待っているよう、言い聞かせねばならなかった。
ディードは、かえって嬉しいくらいだったのに。
ラピスは本当に不思議な子だ。
優しい陽だまりの化身みたいな子だ。
暗い王城で権力闘争に明け暮れる人々や、竜を信仰するとは名ばかりで、損得勘定と陰湿な駆け引きが充満する宮廷。そんな世界ばかりを見てきたディードの目には、ラピスはあたたかな光そのものとして映った。
彼といると、笑顔にならずにはいられない。
でも――
自分が王族とわかればクロヴィスは、またどこかへ去ってしまうかもしれない。
そうなれば愛弟子も当然、連れて行ってしまうだろう。
「私心を捨て、力を惜しまず尽くし、卿の信頼を得られるような成果を挙げること。それが叶うまで、身分は伏せておくがよい」
そう父に命じられずともディードは、ラピスに尽くすことを、深く強く心に誓っていた。
身分を隠すことにも、それほど抵抗はなかった。
だって逆にラピスがどんな身分でも、自分は彼を守るから。
(それは言いわけだ)
心のどこかで己を責める声もあったけれど。
でもラピスの前では、ただの騎士見習いでいたかった。
ディードは王太子ではないし、長兄の補佐役たる次兄のような役割もない。けれど王族であることに変わりはないから、自由に動き回れるのも今のうちだろう。
結婚も自分の意思は通らぬと諦めているし、もしかするとほかの国へ婿に出されるのかもしれない。
ならば今だけは思う存分、望むままラピスの旅を見守りたい。
美しい心が美しい存在に愛される光景を。
竜が歌い、ラピスが聴き、ラピスが歌い、竜が聴く。
見ているだけで胸が熱くなる、そんな交流を、一番そばで守る存在でありたかった。
だからこそ、途中、ラピスを信じないヘンリックが言いつけを破って乱入してきたことや、王太子のくせに一緒になって見物に来た長兄には、本気で腹が立った。
乳兄弟といえどラピスを馬鹿にする者を同行させたくなかったし、彼らのせいで身分がバレて、ラピスがいなくなってしまったらどうしてくれるのかと、心底苛立った。
結局、そんな心配は杞憂だったのだが。
☆ ☆ ☆
「ほへ~……」
ディードやギュンターの身分を知ったラピスは、大きな目をさらに真ん丸にしている。
こんな知られ方をする前に、さっさと打ち明けておけばよかったと、ディードは胸に重石を抱いた気分で悔やんでいた。
いや、でも、やっぱり。
ラピスと一緒にいるときは、騎士見習いのディードでいたくて。
けれど。でも。
こうなってはさすがに、優しいラピスも気分を害しただろう。
「ラピス……」
どんな言いわけもできず、名前を呼ぶことしかできなくなってしまった。
するとラピスが首をかしげる。
「どしたのディード、悲しそうだよ?」
「え……?」
「ごめんね。僕、王太子様とか王子様とか、よくわからなくて。せっかく教えてくれたのに、なんと言えば良いのやら」
「えっ?」
思いもよらぬ返答に、今度はディードが目を丸くした。
と、ラピスのうしろで、大魔法使いが盛大に噴き出す。
「だから下手な小細工なんざせず、さっさと打ち明けときゃよかったんだよ」
愉快そうに笑うクロヴィスに、ラピスがきょとんとしている。
首をかしげた小鳥みたいだ。
そんな二人を見ていたら、スーッと、抱え続けた重荷が消えたようで。
大魔法使いにつられて、ディードもちょっと笑ってしまって。
目の奥が熱くなって、なんだか視界がぼやけてきた。




