竜言語の子守歌
(お師匠様が怒ってる……?)
夢とも現ともつかぬ眠りの中、ラピスはクロヴィスの怒声を聞いた気がした。ジークにガミガミ言うときの、本当には怒ってない声。
(会いたいなぁ)
今すぐ会いに行きたい。けれど躰がひどく重くて動けない。
自分が寝台に横になっていることはわかっているが、身じろぎひとつできぬまま、どこまでもズブズブと沈んでいくような感覚がある。
どんどん、どんどん、沈んでいく。
大好きな人たちから遠く離れて、底なしの沼に落ちていく石ころみたいに。
(行きたくないよ。まだみんなと一緒にいたいよ)
寂しくて悲しくて心細くて、クロヴィスやジークたちを呼びたいのに声が出ない。もがくことすらできず、ただ沈んでいく。
「……慣れぬ寒さに加えて、疲労も溜まっていたのでしょう。子供が急に高熱を出すのは、よくあることですから。ゆっくり休ませてあげてください」
風病だろうと、そう言っていたのは医者の声。
部屋に入ってきたとき、朦朧とした意識の中で挨拶したことはおぼえている。
ジークが礼を言い、ギュンターが見送り、ディードとヘンリックが着替えさせてくれた。
時間の感覚がないのだが、先刻、どうにかまぶたを上げたときには、ランタンに照らされたジークが頭を撫でてくれていた。
「まったく熱が下がらない……本当に大丈夫なのか」
「団長と違いますから、そう簡単に下がらないでしょう。明日の朝、また診てもらうよう頼んでありますよ」
ギュンターの声に続き、「俺たちが交代で付き添います。団長は休まれては?」とディードが尋ね、「いや、いい」と低い声が答えて。
悲しそうな青い瞳に、とても申しわけない気持ちになった。
ジークは何も悪くないのに、ラピスが体調を崩したばかりに責任を感じているのだろう。
(でも……)
眠りに引きずり込まれながら、ラピスは思った。
これって本当に風病だろうか。
この三年ほど熱で寝込んだことはないが、前回、風病になったときとは違う気がする。あのときは頭ものども痛くて、咳も止まらなくて、それで……。
――そのとき、いきなり、思考を寸断された。
落下する。
果てのない闇の底へ。
苦しくも痛くもない。
けれど独り。たった独り。闇のほかには何もない。
何も見えず、何も聞こえず、何も触れない。
すがることも掴まることもできず、遠ざかり小さくなっていく明かりを目に映しながら、止まることなく沈んでいく。
(怖い。怖い。怖い。怖い。怖い!!)
心の中で悲鳴を上げたとき、誰かに呼ばれた。
ひとりじゃない。二人ぶんの声。
(ラピス! ラピス! 星から生まれし方たちよ、小さな歌い手をお守りください!)
それはクロヴィスの声。
と同時に、暗幕を払いのけたように、一瞬で光の中に引き上げられた。
そこは、懐かしい場所だった。
カーレウム家の、ラピスの部屋。母がいた頃の子供部屋だ。
すぐそばで、とても懐かしい声がする。
それはとうに思い出せなくなっていた、母の声。
ラピスは今と同じように熱を出して……正真正銘、風病で寝込んでいた。
けれど母は何か、別の病気を心配していた。
「違うわ。大丈夫よ。この子は大丈夫」
ときおりそう呟きながら、付きっきりで看病してくれていた。
熱くて痛くて苦しくて、うなされて起きるたび、優しい笑顔で水を飲ませてくれたり、汗を拭いてくれたりした。
「母様、ちゃんと寝ないとダメ」
そばにいてくれて嬉しいけれど、躰の弱い母が心配で、かさつく声を出すと……「大丈夫よ、母様の元気の源はラピスなんだから」と、星明かりのように笑った。
「だから早く元気になって、ラピスが母様に子守歌を歌ってちょうだいな」
頬を撫でるやわらかな手。
ラピスが寝つくまでいつまででも小さく歌ってくれたのは、不思議な響きの歌。
「母様、それなんのお歌? なんて歌っているの?」
「ラピス大好き! どうしてそんなに可愛いの? っていう子守歌。母様の作詞作曲」
楽しそうに、少女のように笑って、何度も歌ってくれた。
『可愛いこの子をお守りください。愛しいこの子をお守りください。だいじなだいじな宝もの。お守りください。お慈しみください。星から生まれし方たちよ。どうかこの子をお守りください』
(あの歌、竜言語だったんだ……!)
今ならそれがわかる。でも当時はわからないから特に記憶に残らず、そのまま忘れてしまっていた。
その歌が今、ついさっきまで怯えて凍えていた心に、鮮やかに甦った。
綺麗な綺麗な声だった。
優しい優しい歌だった。
ずっとずっと、ずっと聴いていたかった。
今でも、ずっと。
「母様」
ようやく声が出た。溢れ出した涙と共に。
同時に、目を閉じていてすら届く光を感じて、はっきりと覚醒する。
まぶたを上げると、ディードたちが窓を指差しながらあわてふためき、声を上げているところだった。ヘンリックはともかく、ディードのそんな様子は珍しい。
ラピスの枕元に座っているジークも、驚愕の表情でそちらを見ていた。
彼らが何を見て騒いでいるのか、ラピスはそれを、見る前からわかっていた気がする。
いや――聴いていたのだ。
古竜の歌を。
だからこそ――
「古竜さん」
ラピスの呟きに、ジークが弾かれたようにこちらを見た。
「ラピス、起きたのか!」
ディードたちはまだ、ラピスが目をさましたことに気づいていない。無理もない。窓の外に、古竜が出現しているのだから。
正確には、窓から見えるのは、古竜の眼玉のみ。
窓枠よりも大きな水色の瞳で、じっと部屋の中を――ラピスを、見つめている。
輝く水面のような瞳が夜色の室内をほのかに照らして、月光に照らされたステンドグラスを思わせる幻想的な光が、部屋中をふんわりと舞っていた。
ゆらゆら揺れる七色の光の中、ラピスは涙を拭いて寝台を下り、窓辺へ歩み寄った。
ジークが手を貸してくれたけれど、躰はすっかり元通りで、むしろ寝込む前よりすっきりとしていた。足取りも羽が生えたみたいに軽い。
そんなラピスにようやく気づいたディードたちが目を瞠る。が、掛けられる声に答えるより先に――古竜が去ってしまう前に、伝えたいことがあった。
ラピスの考えに気づいたらしきジークが、窓を全開にしてくれた。
反射的に冷気に備えたけれど、ちっとも寒くない。これも古竜の結界内だからなのだろう。
ジークは椅子も持ってきてくれたのでその上に立ち、窓から身を乗り出して、ラピスは歌った。
歌声に合わせて、古竜の瞳の光も揺れる。
ゆらりゆらりと聴き入るように。
凪の波間を揺蕩うように。
『母様の歌を想い出させてくれたのは、あなたですよね? 怖いのも追い払ってくれて、本当にありがとう』
ラピスの歌を聴いた古竜は、なおラピスを見つめてから、おもむろに顔を上げた。
この部屋の窓は宿の敷地の広い庭園に面しているが、古竜が降り立つには狭すぎて、空から首を下げてどうにか覗き込んでいたらしい。
窮屈な場所で懸命に覗いてくれていたのだなと思うと、申しわけないが笑ってしまった。
雪降る夜空を埋め尽くすような、太古の古竜。
星を宿したごとく煌めく水色の眼も笑っている。
濃紺の巨躯が揺らめくと、鱗が金色に瞬いて、こちらもまるで星空そのもの。その星空のような飛竜が、雪が解けるように消えていった。
『もっと広いところで、待っている』
そんな言葉を残して。
――そうして翌朝には、深夜の古竜出現により、街中が大騒ぎになっていた。




