乱闘したラピス
竜の加護が働いたのだろうか。
誰に見咎められることもなく、驚くほどあっさりと、ラピスは幼竜を自分の部屋に――屋根裏部屋に、連れ帰ることができた。
そして竜の子はラピスに言われた通り、静かにバスケットに納まったまま過ごしてくれていた。
ときどき様子を見に行くと、幼竜は嬉しそうに「キュッ、キュッ、キュッ」と首をふりふり、リズムをとる。ラピスも一緒に首をふりふり、「静、かに、ね」と言い聞かせると、ちゃんとおとなしくなるのだった。
(この調子なら、無事にひと晩過ごせそう)
小さな胸を撫でおろし。
日が落ちて、継母グウェンに言いつけられていた仕事もすべて終え、足取り軽く自室へ戻ろうとしたところへ。
「なんだこれーっ! ママ、ラピスがこんなもの飼ってる!」
まさか義兄のイーライが、暖炉のないラピスの部屋をさらにしっかりと冷やすべく、窓を開け放しに来るなんて。
……いや、これまでも義兄と義姉はラピスの部屋に押し入り、唯一の灯りであるロウソクを細切れにしてみたり、使用人に集めさせたカメムシを寝台に入れたりしてきたのだから、(そしてそれを「遊んでくれてる」と勘違いしたラピスが、お返しに義兄の部屋にスカンクを放ったために大騒ぎになったりもしたのだから、)予測すべきことではあった。
ただ、人は都合よく考えたいものなのだ。「今日は大丈夫だろう」と。
「マジかよ! これ竜じゃね!? 羽あるし!」
幼竜を抱えて飛び出してきたイーライの肉づきの良い躰に、廊下で体当たりされた。よろけて止めそこなった隙に、イーライは屋敷中に響き渡る声で「すっげー!」とわめく。
竜の子が、「キューッ」と助けを求めるように鳴いた。
「待ってよイーライ!」
すぐに追いついたラピスは義兄の腕を掴んだが、イーライは「うるせえな!」と幼竜を振り回し、続いて出てきた義姉のディアナが、ひょいと竜の子を横取りした。イーライが眦を吊り上げる。
「おいっ! 返せよディアナ!」
「わっ、ほんとだ! これ竜よ、竜の子よ、ママ!」
姉弟で取り合いながら騒ぐので、聞きつけたほかの使用人たちまで集まってくる。
が、ラピスはそれどころではない。竜の子は怪我をしているのだ。
「そんなに乱暴にしないで!」
「うるせえ! お前、こいつをどこで手に入れた? 手柄を独り占めしようとしてたな!」
「そうよ、竜の子なんてどこから盗んできたのよ!」
「盗んでなんかない!」
否定しても二人は、まったく聞く耳を持たない。
「竜を捕まえたら、賞金出るんじゃね!?」
「それより褒美として、王宮に招待されるかもよ!? 王族や貴族や、憧れのアシュクロフト騎士団長様からお声がかかるかも! やだ、新しいドレスを買わなきゃ!」
はしゃぐ二人に揉みくちゃにされている幼竜の、包帯代わりの布に血が染み出している。鳴いているのに、義兄も義姉もおかまいなしだ。
ラピスは夢中で飛びかかった。
「乱暴にしないでと言ってるのに!」
ディアナでもラピスより頭ひとつぶん大きいし、イーライはさらに横幅がある。
だが日々肉体労働に追われたラピスには、小柄で細身ながらも、柔軟な筋力と俊敏さが備わっていたようだ。
体当たりされたイーライは、「うわっ!」と声を上げて引っくり返った。
それに巻き込まれたディアナも、下敷きになって悲鳴を上げる。
すかさずラピスは幼竜を取りあげて走り出そうとしたが――目の前に立ち塞がった継母に気づいて、急停止した。
継母グウェンは冷たい目でラピスを見下ろすと、ひょいと幼竜を取り上げた。
「なんて騒ぎなの。あなたのしわざね、ラピス。こんなもの、いつのまに連れ込んだのよ。わたしに報告しないとはどういう料簡なの?」
ようやく立ち上がったイーライとディアナが、憎々しげにわめいた。
「こいつ、それを隠して飼ってたんだよママ! 自分だけ褒美をもらおうとしてたんだ!」
「そうよ、こっそり王子様やアシュクロフト騎士団長に取り入ろうとしてたんだわっ!」
「その子を返して!」
ラピスが叫んで継母から幼竜を取り返そうとしたので、イーライも「こいつ生意気だぞ!」と飛びかかってきた。
結果的に二人の男子に飛びかかられたグウェンは、青筋を立てて怒鳴る。
「ちょっと、離れなさい! ラピス、親に逆らう気!?」
イーライに髪を引っ張られたラピスは、義兄の両耳を引っ張り返した。
「いでででっ! この野郎!」
繰り出された拳をヒョイと避けると、イーライの丸い拳骨はグウェンの顎に命中した。継母と、そしてなぜかイーライまで悲鳴を上げる。
その間にラピスは義兄の躰を押しやり、継母の手から幼竜を取り戻そうとした。が、またもディアナに横取りされてしまう。
「これはあたしたちがもらってあげるわ」
義姉がにんまり笑ったそのとき、
「キュイーッ!!!」
凄まじい鳴き声が、屋敷中に響き渡った。
皆が声をあげて耳を塞ぎ、幼竜をつかんでいたディアナも乱暴に放り出す。
床に打ちつけられる寸前にラピスが滑り込んで受けとめると、竜の子は「キュッ」と鳴きやんだ。
……しかし。
「耳が、耳がぁ」
耳を押さえてうずくまっているのは、継母たちばかりではない。
この騒ぎに集まっていた使用人たちも、「なに、今の」「耳鳴りが……」と呻いている。
「これは……えらいことになりました」
思わず呟いたラピスに、イーライが怒鳴ってきた。
「『えらいこと』どころじゃねえぞ! なに冷静にぼやいてんだっ」
冷静だったつもりはまったくないのだが。
これではもう今夜ひと晩すら、幼竜を匿っておけないだろうことは判断できた。
意を決し、竜の子を抱いて走り出す。
「あっ、待てこらっ!」
「待ちなさいラピス!」
止める声を無視して、すれ違う使用人たちに「ごめんね!」と謝りながら階下まで走り抜け、屋敷の外に飛び出した。
透徹した夜気の中、薄着のままひた走る。寒さを感じる余裕もない。
街はすでに眠りに入る頃合いで、日中は賑やかな商店街も静まり返っている。
石畳の路上に、ラピスの足音と息遣いばかりが、やけに大きく響いた。
目的地は森だ。
継母たちに取り上げられる前に、幼竜をそこへ返そうと決めた。
義兄たちは褒美がどうのと言っていたが……まるで物のように竜の子を扱うのを見れば、とても委ねる気にはなれない。
灯りも持たず出てきてしまったけれど、幸い今夜は満月。
澄んだ秋の夜空には遮る雲もなく、昼間のように明るく地上を照らしている。
ずっしりと重い竜の子を抱きひたすら駆けたので、森に着いた頃には汗ばんでいるほどだった。
「ここで一緒に、きみを守ってくれる竜を待とう」
いくら月明かりがあって慣れた場所でも、さすがに夜の森の中へ分け入っていくのは恐ろしかった。
とりあえず、森の入り口辺りにある切り株に腰を下ろす。
息を整えているあいだはよかったが、汗をかいたことで早々に躰が冷えて、じきにカタカタと震え出した。両腕で幼竜を抱えているが、竜の体温はあまり高くないようで、保温には至らない。
「毛布を持ってくればよかったねぇ」
心細げに見上げてくる赤い瞳に話しかけると、もの言いたげに見つめ返してきた。
その口が小さくひらいて、歌い出す。
「ん? ……誰か、来るって?」
そう歌っている。成竜が来るのだろうか。
ラピスは期待を込めて夜空を見上げた。
しかし、ふと、手に違和感をおぼえる。
視線を下ろすと、幼竜を抱いた手の中に、一冊の本があった。
「……ほへっ?」
驚きのあまり変な声が出た。
本など持ってこなかった。なのになぜいきなり、手の中に本があるのか。
「な、なんで? なに、この本?」
呆然としたあと、混乱がやって来た。
夜中の森にいることもあり、ゾゾゾッと全身が粟立つ。
思わず「おばけ本!?」と叫ぶと、背後から
「あほか。それはお前の『竜の書』だ」
いきなりかけられた声に、「わあっ!」と大声が出た。
竜の子をぎゅっと抱きしめて振り返ると――そこには、長い外套を着た、長身の人物が立っていた。
得体の知れない相手の出現に、昼間聞いた「連続殺人」の話が脳裏をかすめる。
逃げなければ。
そう思うのに、なぜか躰が動かない。
すると相手のほうが、大木の下からこちらへ踏み出してきた。
月光を浴びて、その顔が青白く浮かび上がる。
月を映したような銀髪。
赤光を湛える切れ長の目の、片方は黒い眼帯に覆われている。
けれど――
「……月の精ですか?」
「はあ?」
困惑した声が返ってきた。
ラピスがそんな勘違いをしてしまうくらい、端整な容姿の青年だった。