感動の騎士たちと、困惑のラピス
ディードにとって、竜は遠い存在だった。
本当に大好きなのに、姿を拝むことすらできない相手だった。
王都で生まれ育ったから、ドラコニア・アカデミーには馴染みがある。
けれど魔法使いや聴き手が山ほどいるわりに、上空を竜が飛んでいるところなど見たことがない。
ジーク直属の騎士見習いになってからは、彼に同行して地方も回った。
だが竜が好むという山や森、水辺、草原、そして空。どこで見渡そうと竜はいなかった。
ただ一度、小指の大きさほどにしか見えない遠くの空で、瞬く間に雲の中へと消えていくのを見たことならあるが、それこそ『遠い』存在に変わりはない。
だからこそ、数々の古竜の知識を集めたという大魔法使い、クロヴィス・グレゴワール卿のすごさがわかるし(性格は話に聞いていた以上にアレだったが、噂されるような悪人ではないとわかったし)、彼が暮らす家を訪ねたとき、「地竜から話を聞いてきた」という弟子が突然現れたときには、度肝を抜かれた。
正直、「本当だろうか」と疑いそうになった。
しかしそんな気持ちは、ラピスの無垢な性格と、クロヴィス家の上空を屋根スレスレの高さで飛び去って行った飛竜の前に、吹っ飛んだ。
あの力強い巨躯。手触りまで伝わりそうな、生々しい灰白色の腹。
大気を震わせる巨翼のはためきと、腹の底まで響く声。
嵐のような強風が連れて来た雨が、去り行く竜のあとへとつき従っていく光景。
あれほどの感動を味わうことは、きっとこの先二度とない。そう思っていた。
――たった今、ラピスの歌を聴くまでは。
ラピスの小さな躰から、信じられないほど透き通った声が、高らかに空へと舞い上がった。
何を歌っているのか、ディードにはわからない。
それが言語なのかすらわからない。
それはまさに、竜の歌。
あの日頭上を飛んで行く竜が発した声と、同種のもの。
でも竜の声よりずっと優しくて、あたたかくて。
梢で遊ぶ小鳥のさえずりのような、森の香りを含んだ大気そのもののような。
心も、躰も、澄み渡っていく。
……癒される。
あまりにも心地よくて、気づけば、涙が頬を伝っていた。
ほかの騎士たちも同じく、陶然とラピスを見つめている。皆、同じように涙を浮かべて。
ジークは泣いてこそいないものの、大きく目を瞠り、固唾を呑んでラピスを見守っていた。
その歌が、どのくらい続いただろう。
濃厚な蜂蜜をひと瓶食べ尽くしたほどの充溢感があったけれど、あっというまに終わってしまった気もする。
もっともっと聴いていたかったのに、気づけば歌は途切れていて。
そして。
「竜だ……!」
驚愕に満ちた誰かの声を聞く前に、ディードは気づいていた。
クロヴィス宅で竜と遭遇したあのときと同じ気配、翼の音、大気の振動で。
森の木々が騒ぎ出す。波のような揺れが、向こうからこちらへ伝わってくる。
ラピスは憑かれたように、上空の一点を見つめている。
青空の中に、飛竜の美しい若葉色を視認できるようになったとき。
吹き下ろされた強風によろめいた小さな躰を、あわてて駆け寄ったディードとジークが両側から支えた。
けれどラピスは二人に気づいていなかったかもしれない。
その瞳は、竜しか見つめていない。
ラピスを気遣うようにゆったりと頭上を旋回する竜の金色の瞳も、小さな聴き手を見つめ返していた。
竜の歌が森に降る。
若葉色の光が降り注ぐような錯覚に、ディードは震えた。
だがラピスの顔を見下ろせば、なぜかポカンと口をあけている。
その変化に……少し迷ったが、こらえきれず声をかけた。
「ラピス、大丈夫か? 何かわかったのか?」
「うん……」
腑に落ちないという表情ながら、ラピスはこくんとうなずいた。
「今ね、『誰か近くにいませんか、古竜さんはいませんか』って訊いたんだ。『古竜さんの居場所を知りませんか。もしも教えられないのなら、古竜さんを見かけなくなった理由を知りませんか』って」
「そ、そんなこと訊けたのか!?」
「うん。訊けたし、歌に応えて来てくれたのだけど……」
(そんなことができるのか)
竜から知識や情報を教わるだけじゃなくて、人のほうから質問するなんて。
呆然としてジークを見ると、彼の口から驚きに満ちた声が漏れた。
「――歌い手――」
その言葉が気にはなったが、今はラピスの話が先だ。
竜はもう一度大きく旋回すると、来たときと同じように、一帯を風で揺らして去って行った。
しばしその姿を見送っていた騎士たちが、詰めていた息を吐き出し、それはすぐに大歓声へと変わった。
「すげえ……!」
「竜だ! 本物の竜だー! 初めて見ました、初めて!」
「俺もこんな目の前で見たのは初めてだよっ! やべぇ、すげえっ!」
「こんな小さいのに、こんな……さすがは大魔法使いの弟子! すげえよ! ですよね団長!」
興奮状態でラピスに駆け寄ってくる部下たちを、ジークが片手で制する。
ディードもそちらにはかまわず、「何かわかったかい?」と重ねて尋ねた。
水色の瞳がようやくディードを見てくれたが、なんだかひどく戸惑っているように見える。
「古竜のことは何も。……ただ、僕の母様を知ってるって」
「え? ラピスの母上……って、えっと」
ディードも今では、ラピスの複雑な家庭事情について説明を受けていた。
だが訊いていいものか迷うあいだに、ジークが「実の母君のほうか……?」と率直に問う。
ラピスはまた首肯した。
「でも、おかしいんだ」
「何がおかしいの?」
「えっと……母様は、病気で亡くなったんだ」
「うん、そう聞いてるよ。お気の毒だったね……」
「僕、ちゃんと見てたから間違いないんだよ。躰が弱いのに流行り病にかかってしまって、それで亡くなったの。でも今の竜が言うには、えっと」
またもラピスらしくなく、言いあぐねている。
ジークが静かに「ゆっくりで、いい」と頭を撫でて抱き上げ、騒ぎたくてウズウズしている団員たちから少し離れたところで、倒木に座らせた。
少し間を置いたことで落ち着いたのか、ラピスは「あの」と顔を上げた。
「竜はこう言ったんです。『お前の母を知っている。尊い〝歌い手〟だったのに。可哀想に、殺された』って」
「殺され……!?」
言いかけて、とっさにディードは声を低めた。物騒な言葉が、ほかの者に聞こえぬように。
ジークのほうは、眉根を寄せてラピスを見つめている。
「竜が間違うということは、あるのか……?」
「ううん! ないです! ない……はずなんですけど……」
実際に母が病で亡くなるのを看取り、それだけでもつらかったろうに、殺されたなどと聞かされては、ラピスが困惑するのも無理はない。
ディード自身の知識としても、竜が間違った情報を伝えるなんて聞いたことがなかった。考え込みそうになったが、ラピスの話はまだ続いていた。
「竜に言ったんだ。『僕の母様は流行り病で亡くなったんだよ』って。そしたら」
「そしたら?」
「『それは呪い』だって。『穢れに触れた』って」
「の、のろ……っ」
また言葉を呑み込み、ジークと目を合わせる。
大変なことがいっぺんに起こりすぎて、混乱してきた。
なんと声をかけるべきかとぐるぐるしていたら、ラピスがしょんぼりとうなだれ、悲しくなるような声で呟いた。
「……お師匠様ぁ……」




