竜のいる世界
「だからあ! おれもアカデミーに入学したいんだよ! ケンの奴、『竜の歌を聞いたから入学できる』って自慢してるんだ。『解いて』もないくせに! 竜の歌を聞いただけで合格するなんて、あり得る!? つーか、そう簡単に聞けるわけない! 絶対あいつの父さんが、裏金積んだに決まってるよ! けどそれって、金さえありゃ入れるってことだよね!?」
「それほんと!? だったらあたしも編入させてよ、ママ! あそこの生徒になれたら、高位の貴族や騎士様と、お近づきになるのも夢じゃないわ」
夜も明けぬうちから掃除を命じられていたラピスが、ひと段落したところで談話室に入っていくと、継母グウェンと義姉ディアナ、そして義兄のイーライが、なにやら興奮気味に話し込んでいた。
「そうね、その通りだわ、わたしの可愛い子供たち。高位高官はアカデミー出身者で占められるらしいのに、そんないいかげんな入学基準だなんて……。なんてこと! イケるわ、これは!」
ラピスは抱えていた薪を暖炉脇に積んだ。その流れで、かじかんだ手を炎にかざす。
いつもなら「さぼってないで、早く次の仕事をしなさい!」と追い立てられるのに、継母たちは話に夢中だ。
(ディアナとイーライは、ドラコニア・アカデミーに入るのかな?)
ドラコニア・アカデミーとは、この国の者なら誰でも憧れる学術研究所だ。
名称通り『竜』たちについて学び伝える重要機関で、付属の学院もある。
具体的になにを学ぶのかラピスは知らないが、竜について勉強できると聞くだけでわくわくした。
(いいなぁ)
いつかは自分も入れるだろうか。どんなところだろうか。
想像を膨らませつつ立ち上がる。
森に茸を採りに行くよう、言いつけられてもいるのだ。
「ラピス様、森に行かれるのですか?」
「今日はすごく冷えますからね。あったかくしていってくださいね」
厨房の前を通り過ぎたところで、料理長たちがラピスに気づき、あれやこれやと世話を焼いてくれる。自分のマフラーを巻いてくれたり、温めた石を包んでポケットに入れてくれたり。
「あったかい! ありがとう、みんな」
優しさを向けられると、心までぽかぽかする。
にこにこしていると、「か、可愛い……」と皆の目が潤んだ。
「今日も可愛すぎるわ、ラピス様っ」
「でも本当においたわしい。本来はこのお屋敷の、可愛いご当主であるはずなのに」
「まったくだよ! あちらの方たちは毛皮のついた立派な外套を何着も持ってるってのに、こんなにも愛らしいラピス様を、こんな薄着で寒空の下に追いやるなんて」
料理長の言う『あちらの方』とは、継母と義姉兄のことである。
ラピスはなんとも言いようがなくて困った。
ちなみに彼らがやたらラピスに『可愛い』という形容をくっつけるのは昔からなので、たぶん皆の口癖なのだろうとラピスは捉えている。
「大丈夫だよ。僕、森に行くのが大好きなんだから! いろいろ見つけるのも得意だし、美味しい茸をいっぱい採ってくるからね」
本心からそう言ったのだが、使用人たちはそう受け取らなかったようだ。またも悲しそうに目元を拭い出す。
「なんてけなげな……!」
「可愛いすぎて、誘拐が心配だわ。最近物騒な話が多いし」
「そうそう、東のモアランド領の連続殺人事件のこと、聞いたかい!?」
「ちょっと! およしよ、坊ちゃまの前で」
ちょっとした騒ぎになってしまったが、その間にラピスはそそくさとその場をあとにした。
森に行くのを止められないうちに。
「今日も会えるといいなぁ」
外に出て、空を見上げた。
冷えた風を吹き下ろす曇天に、ところどころ、水たまりのような青空。
石畳の上を、赤や黄色の枯れ葉がカサコソ音をたてて転がる。
軽快に走っていくと、通りに面して並ぶ商店のあちらこちらから声がかかった。
「こんにちは、ラピス! 今日も森に行くのかい?」
「帰りはうちに寄ってって! 美味しいスープであったまってお行き」
「いいや、ぜひうちで! 自慢のパイをご馳走するからっ」
宿屋に酒場に仕立て屋、帽子屋、パン工房に肉屋に鍛冶組合。
みんな母の生前からの付き合いで、いつも優しく心配りをしてくれる。
「ありがとう、またあとでね!」
笑顔で手を振ると、神経質な代筆屋も強面の大工の親方も、みんなそろって相好を崩し見送ってくれた。
ついでに口々に「ああ、可愛い……」と漏らしていたことや、
「けど、手も脚も細くて心配だよ。きっとろくに食わせてもらえてないんだ」
「あんな天の御使いのような子を苛めるなんて、憎たらしいったらありゃしないぜ、あの後妻連中め」
などと噂していたことまでは、知らなかったけれど。
今や継母はカーレウム家の女主人だ。
だから彼女のご機嫌を優先する使用人や、商売人たちも少なくない。
ラピスはそういう人たちからは決まって、無視をされたり馬鹿にされたり、厳しい対応をされるのだけれど。
でも、優しい人たちだって、たくさんいる。
「『ナイフのような言葉は、すぐに捨てなさい。長く持つほど深くお前を傷つける。善き言葉を抱きなさい。大事に持つほどお前を守る』」
いつものように、独り言ちる。
これも以前、あの者たちから教わった言葉だ。
――正確には、歌ってもらった。
商店街を抜け、街はずれから森の入り口へ。
ラピスは昔から、森という奥深く神秘的な場所が大好きだ。
だから継母たちから森での仕事を言いつけられるようになっても、皆が心配してくれるほど苦痛ではなかった。少なくとも精神的には。
「来ないかな……」
森に分け入りながら、葉を落とした梢越しに空を見上げる。
茸も探す。空を見上げる。下を見る、上を見る、繰り返し。
「あっ!」
何十回目か空を仰いだ先、雲の切れ間に、きらりと光るものがあった。
光はみるみる大きくなる。
悠々と灰色の雲を割き、空を渡ってくる。
「こっちに来て、こっちに来て……!」
急いで茸入りのバスケットを枯草の上に置き、夢中で祈った。
その声が、遥か上空に届くはずはないのだが。
悠然と空を往く巨体――竜が、ゆったりと旋回して向きを変えた。
こちらに向かって、近づいてくる。
今日の竜は、鮮やかな黄色だ。
ぎょろりと動いてラピスを捉えた巨大な眼は琥珀色。腹の鱗が虹色に煌めく。
竜は大きく分けて、蛇のように長い胴体の『蛇型』と、四肢と尾が特徴的な『獣型』があるが、いま目にしている竜は蛇型。
巨躯が頭上に達すると、ラピスの視界は竜で埋まった。
馬を十頭並べたよりも遥かに長い胴体なのに、この大きさでもまだ、若い竜の体長だ。古竜はさらに、途方もなく大きい。
ざあっと、風が吹き下ろされてきた。
冷たいが、果実を思わせる甘さを含んだ清々しい風。
木々が踊るように揺れる。
「来てくれて、ありがとう! ねぇ、歌って!」
ラピスは跳びあがって、声を張り上げた。
――でも、これは秘密。
生前の母と、交わした秘密。
この森に来ると、頻繁に竜に遭遇することも。
一心に祈れば、近くまで来てくれることも。
そして、歌ってくれることも。
この世界において最も重要なものとされる、『竜の歌』を。