世界の一大事と、師匠の悪評
「本当に知らないのかい? かなり大々的に通達されてるんだけど」
「うん、知らない」
「そっかー……だよな、こんな山の中にいたら届かないよな」
馬にブラシをかけながら、ディードは納得顔でうなずいている。しかしまた思い出したように、「けど」と、立派な馬に見惚れているラピスへ視線を戻した。
「実際いま、世界中で天災や人災が続発しているんだ。ここらの森はとても健康な状態で美しいけど、謎の枯死で山ごと死に絶えた森もあるんだよ」
「枯死!? 枯れちゃったの? 木の病気!?」
「病気なんだろうけど、原因はわからないんだ」
ラピスは震え上がった。
ラピスにとっての『森』は竜と会える場所で、長いあいだ心の拠りどころだった。
両親のいない家の中では寂しい気持ちばかりが膨らむこともあったけれど、継母にきつい仕事を言いつけられても、それが薪拾いなどの森の仕事なら、むしろ大歓迎だった。
四季折々の森の美しさに癒してもらった。
竜たちと交流して、心を支えてもらった。
母と過ごした優しい想い出の場所であり、師と巡り会えた場所でもある森は、ラピスの中では喜びの象徴。森をはじめとするすべての自然が、心の奥のあたたかな場所とつながっている。
だからそれらが死に絶えていく光景など、想像するだけで悲しくなった。
ディードはラピスが受けた衝撃の大きさを知ってか知らずか話を続ける。
「竜の力が欠けたら、世界が不安定になる。そのときに備えて対処法を探せと、竜たちはずっと警告してくれていた。その対処法というのも、竜の歌の中にあると言われている」
「対処法の歌だね」
「うん。だから世界が壊れてしまう前に、その対処法がわかる竜の歌を探さなきゃならないんだ、絶対に。でも俺自身は魔法使いでも聴き手でもないから……もどかしいよ」
子供は子供同士、ラピスが家の周りを案内したり、ディードが馬の世話をするのを手伝ったりするうちに、二人はすっかり打ち解けた。
ディードは十三歳で、ラピスよりひとつ年上らしい。義兄のイーライと同い年だ。
「そういうわけで先日、アカデミーと大神殿と、そして国王から、国中の魔法使いに向けて『対処法を知るための歌を探せ』と大々的に通達されたんだ。そういう、国が非常事態として特別な歌を探させる令達は、『集歌令』って言う。ついでに言うと、集歌令に応じて各地を周ることは、『集歌の巡礼』って呼ばれてる」
クロヴィスにたくさんのことを教わったので、ラピスも今ならディードの話についていける。けれどジークムントの馬に顔をべろんと舐められながら、ラピスは沈んだ気持ちのまま呟いた。
「それって、一大事だよね……」
「その通り」
「だったら、お師匠様がその『集歌令』を知らないはずない」
「うん。俺たちもそう考えた。だからここに来たんだ」
「え」
ブラッシングの手を止め、ディードは真剣な眼差しをラピスに向けた。
「だって今のままじゃ、どれほど大々的に呼びかけたところで、応じる魔法使いたちの顔ぶれにたいした変わりはないだろう? 今回は莫大な報奨金と爵位の授与なんてのも約束されてるから、王都じゃすでに参加希望者が続出しているけど、殆どがアカデミー所属の魔法使いばかりだ」
「ドラコニア・アカデミー所属! すごい人がいっぱいいそう!」
ラピスはわくわくしながらディードを見たが、「まさか」と彼は首を横に振った。
「言ったろう? 竜の警告はずっと昔からあった。なのに彼らは今まで何をしてた? 今まで探せていなかった歌を、集歌令が出て地位と財が約束されたらいきなり探せるようになるのかい? ……信じて任せる気には、とてもなれないよ」
厳しい言いように、ラピスはちょっと驚いた。
ラピスにとっては今も、ドラコニア・アカデミーが憧れの場所であることに変わりはないから。
けれど王都で騎士見習いをしているディードは、きっとすごくたくさんの人を見て、たくさんの経験をして、その上で出てくる言葉なのだろうとも思った。
ピタッと顔を寄せてくる馬の鼻面を撫でながら、ラピスは話題を戻す。
「えっと、つまりディードと団長さんは、お師匠様ならその歌を探し出せると思ったから、ここに来たってこと?」
「う、うん。そう、なんだけど……」
ラピスはたちまち笑顔になった。
「わあっ! それって大正解だと思う! お師匠様は本当にすごいもの! お師匠様ならきっと、必要な歌を探し出せるよ!」
「ああ……俺も初めて本人に会って、あのド迫力には圧倒された。アシュクロフト団長が本気で怒ったときと同じくらい怖かった……」
「怖い?」
小首をかしげたラピスには気づかなかったようで、ディードは顔を引きつらせて「でも」と続けた。
「あの人、噂以上に手強いわ。いま団長が説得してるだろうけど……団長、普段は無口なのに今日は頑張って喋ってたけど……正直、聞き入れてもらえる気がしない」
「手強い? 噂?」
再度訊き返されたディードが、今度は『しまった』という顔で口をつぐむ。
ラピスはわくわくと身を乗り出した。
「もしかして、お師匠様はすごい大魔法使いだっていう噂? なんでもできて、月の精みたいに綺麗でかっこよくて、おまけにすっごく優しいって噂?」
「……それ、どこの人の話?」
眉根を寄せたディードを不思議に思ったラピスがきょとんとしていると、ディードは大きくため息を吐き出し、「ああもう!」と薄茶色の髪を乱暴に掻く。
「俺、こういうの苦手だ~。なんかいろいろ誤魔化すのも、腹の中で嫌なこと考えるのも嫌いだから、はっきり言うけど」
「うん、なあに?」
「なんというか。ラピスのお師匠様は間違いなく大魔法使いではあるけども。同じくらい、悪評もある」
「悪……評?」
ラピスは腕を組んで考え込んだ。
『悪評』という言葉に、自分の知らない別の意味があるのかと。
だってラピスの知る師に、その言葉はまったく当てはまらない。
黙り込んだラピスに何を思ったか、ディードが食いつき気味に両手を振った。
「いや、悪評っていうのはつまり、グレゴワール様と対立した側の言い分だから! そういうもんだろう? 悪口というか、悪評っていうのは。ただ、グレゴワール様はその評価を払拭しないまま王都を去ったから……悪い評価だけが残ったまま、ひとり歩きしてしまったんだよ……たぶん」
また顔を舐めようとしてくる馬に塩をやりながら、ラピスは「うーん」とうなった。
月の精のような師に悪評。
どこをどう見れば悪く言えるのか、ラピスにはまったく理解できない。理解はできないが、想像はできる。
ラピス自身もカーレウム家にいた頃、とても可愛がってくれる人もいれば、悲しくなるような接し方をしてくる人もいた。
他者の感じ方はその人の自由で、強制することはできない。
ラピスだって知らぬうちに、誰かを傷つけているかもしれない。
自分にとっては完全無欠に素晴らしい師匠でも、いろんな受け止め方をする人がいるだろうことはわかる。
悪く言うのはきっと、相手をよく知らないからだ。
そう思ったら、継母と義姉兄たちを思い出した。
竜の子を保護したとき、彼らから盗んできたと決めつけられた。
でもラピスとて、竜に関することはすべて隠していた。だから、誤解されても仕方なかった。
「僕、お師匠様のことを、もっとたくさんの人に知ってもらいたいなぁ……。だって本当に優しい人だから。見ず知らずの僕を引き取って、すごく親切にしてくれて、いろんなことを教えてくれて。竜の歌だって、お師匠様の解き方は奥深くて、気づきがいっぱいなんだ! それを知れば、お師匠様がどんなに澄んだ心の持ち主か、誰でも絶対にわかるのに」
「ち、ちょっと待って」
ディードがあわてた様子で話を遮る。
「確認しそびれてたけど、ラピスは聴き手なんだよね?」
「うん」
「グレゴワール様は、これまで誰ひとりとして弟子をとらなかったんだよ。そんな人から認められるくらい、ラピスはすごい才能の持ち主だってことなんだね!」
なんだかディードの目がきらきらしてきたので、ラピスは困ってしまった。
ラピスは『才能』なんて考えたことはない。人と比べたこともない。
歌を解けるのはとても嬉しいけれど。
もしも解けなかったとしても、竜を見たり、歌を聴いたりして、嬉しくなったり励まされたり、美しいものを見せてくれてありがとうと感謝したり。
そんなふうに感動できるなら、それはきっと、ちゃんと竜の気持ちが通じた証拠なのだと思う。大切なのは、そういうことなんじゃないかと思う。
(でも僕がそう思えるようになったのも、お師匠様のおかげなのかも)
今まではただ、竜の歌を受けとるばかり、求めるばかりだった。
それが寂しい心の支えであり、唯一の心の友だった。
けれどクロヴィスが一緒に聴いたり解いたりしてくれるようになったから、いつのまにか、いろんなことを考える余裕が生まれていたのだ。
「……僕、お師匠様にも参加してもらいたいな。その集歌の巡礼に」
ラピスの自慢のお師匠様が、どんなに素敵な人か。
ひとりでも多くの人に知ってもらえる機会が増えればいいのにと、心から思う。
そのときラピスの脳裏に、脈絡なくポンとひとつの記憶が飛び出してきた。その拍子に「あ」と声が漏れる。
「どうしたの?」
「ずっと何かが気になってたんだけど、思い出したよ! アシュクロフト騎士団長のお名前を聞いたことがあったんだ。前に義姉上が話してた」
「ラピスの姉上が? 団長をなんだって?」
「えっと……憧れてる、とか。確かそういうこと」
「なんだ」
ディードがにやりと笑う。
「団長はあの通り男前だし、出世頭で独身だから、狙ってる女性は多いよ。集歌の巡礼の件でも、すごい数の逆指名が来てるし」
「巡礼に逆指名?」
「ああ。今回の巡礼は常より過酷な旅になりそうだから、参加する聴き手には護衛役が最低ひとり、つけられることになっているんだ。その護衛役を団長にお願いしたいという依頼が引っ切りなしなんだよ。でも」
ディードは親指で家のほうを示した。
「団長は全部断った。グレゴワール様の護衛をしたいと望んでいるから」




