ありがとうの歌
ラピスの最初の『大好き』の記憶は、やっぱり母ルビアだ。
今思えば、自分については多くを語らない人だった。
だから母の両親や生家について、ラピスは何も知らない。
尋ねたことはあるが、すでに亡くなっていると聞かされて、幼かったこともありそれで納得していた。
母は家族や使用人はもちろん、たまの外出で顔を合わせる程度の商店街の人々のことまで驚くほどよく見ていて、何に喜び、何に悲しみ、何をしてあげられるかを、いつも考えていた。相手の長所や美点を見つける名人だった。
そしてなんと言っても、竜と交流する術を教えてくれた最初の師だった。
そして父ジョゼフ。
血のつながりがないことは早々に聞かされていたが、なんの問題もなかった。本当に仲の良い家族だった。
一途に誠実に妻子を愛した彼は、家族を守るため懸命に働いた結果として留守がちでもあったけれど、共に過ごす時間は笑顔と愛の言葉で溢れていた。
そのひたむきさゆえ、妻を喪って以降は人が変わったようになってしまい、ラピスも胸を痛めたけれど。
どんなときも全肯定で愛してくれる家族に恵まれたことは、幸い以外の何ものでもない。その記憶が、その後の孤独な時期のラピスを支えてくれた。
両親を喪って、将来の見えぬまま日々を過ごしていた。
でも、歩き続ければ景色は変わる。
ラピスはクロヴィスと出逢えた。
秋風が森を彩り、気の早い木々は葉を落とす季節。
一番の心の支えは竜で、竜の歌を聴くことが何よりのご褒美だった日々。
星降る夜に、奇跡のように、大魔法使いが現れた。
偉大で愛情深い師との出逢いを経て、ラピスの世界は一気に広がった。
底冷えのする屋根裏部屋から、夢のように心地良いクロヴィスの家へ。苺鈴草が群生する野原へ。山へと誘う広大な森へ。
そして、さらなる竜の導きにより出逢った、ジークとディード。
二人はさらに広い世界へと旅立つきっかけをくれた。
旅に出たからこそ、ギュンターやヘンリックとも出逢えた。
大好きな人がいっぱい増えた。
初めて訪れる街、村、森、湖、山。
初めて体験することだらけ、初めて知ることだらけ。
恐ろしい思いもたくさんしたが、いつだって優しい人たちが助けてくれた。
そしていつだって竜は、人と世界とを守ろうとしてくれていた。
避けられない悲しみも、残酷な現実もあることを、ラピスも知っている。
それでも涙の向こうに見える青空はいつも美しかった。
季節ごと装いを変える森も、はるかに連なる山々も。
陽光に煌めく川や湖も、雨上がりの虹も。
心地よく汗を拭う夏の風も、ほのかに果実の香のする緑陰も。
楽しげに揺れて輝く木漏れ日も、炎のような夕焼けも。
凍りつきそうな雪の世界も、繊細に造形され一瞬で消えていく雪の結晶も。
忠実な馬も、愛嬌いっぱいの犬も、愛らしい猫も、気まぐれな野の動物たちも。
大好きな人たちの笑顔も、声も。
一緒に過ごす時間も。
ゆったりと空を往く飛竜も、不意に現れる地竜も。
『つらいことがいっぱいあっても、やっぱり世界は綺麗だな、美しいなって。そう思わせてくれて、ありがとうございます。大好きな人がいてくれる世界を、本当にありがとうございます。この世界を創ってくれて、心からありがとうございます!』
――尽きず心に浮かぶ『ありがとう』を一気に歌い上げて、ラピスは「ほひ~」と火照った頬を両手であおいだ。
ミロちゃんに乗って空を飛んでいるみたいに心地よく歌えたけれど、竜たちにも伝わっただろうか。
高揚でにこにこと笑みの引かぬまま竜たちを見上げると――
古竜たちは、一声も発しない。
あんなに賑やかだったのに、しいんと静まってラピスを見つめ返している。
沈黙が、きらきらと星の砂のように、鱗が舞い落ちる音だけを連れてきた。
(ありり?)
戸惑って、隣に立つクロヴィスを見上げると。
彼もまた、言葉もなくラピスを見下ろしている。
その紅玉の瞳から、ぽつんとひとつ雫が落ちた。
あ、と思ったときには泉みたいに涙が溢れ出し、なめらかな頬をぽろぽろ転がっていく。
「お、お師匠様っ!?」
クロヴィスがこんなに泣くのを見たのは初めてだ。
ラピスは混乱した。
「どどどどうしたのですか。ごめんなさい、僕の歌、泣いちゃうくらいひどかったですかっ!?」
あわてて鞄を探ってハンカチを取り出そうすると、「そんなわけないだろう」と小さな声で止められた。
けれどその瞳からは、涙が溢れ続けていて。
「でも……」
おろおろしていると、急に閃光が走った。
すべてが白い光の中につつまれて、咄嗟に閉じたまぶたを上げると、またも流星が空を行き交っていた。
今度は金の星ばかりではなく、色とりどりの星たちが空を走っていく。
息を呑んで仰いだ空いっぱいに、古竜たちの賛美の歌が、割れんばかりに響き渡った。
堰を切ったように激しく、美しく。
大神殿の鐘が次々鳴り響くように。
荘厳で煌びやかな歌が、空の果てまで抜けていいく。
『ラピス。偉大なる小さな歌い手。ありがとう……本当に、ありがとう』
古竜たちの深い感動が、ラピスの躰を震わせる。
『近頃は、長く生き過ぎたと思うこともあったけれど』
『こんなに嬉しい歌を聴かせてもらえる日がこようとは』
歌声が時折、震えているようだった。
そこまで喜んでもらえるとは思っていなかったので、ラピスは驚きと歓喜のあまり言葉を失う。が、不意にクロヴィスに抱き上げられて、「わわっ」と声を上げた。
「俺もだよ、ラピんこ。こんなに感動したことはない。ありがとう。……お前に出逢えてよかった。本当に……よかった」
「お師匠様ぁ……」
最高の賛辞に胸がいっぱいになる。
綺麗な笑顔と涙に思わず見惚れつつ、もたもたと手で師の涙を拭っていたら、いつのまにか横に来ていたジークが、クロヴィスの頬にハンカチを押し当てた。
途端、「いらねーよ!」と睨みつけられた騎士団長だが、クロヴィスの両手がラピスで塞がっているのをいいことに聞き流してラピスを見る。
「俺も、感動した。竜言語はわからないが、それでも……感動した」
すると、やはりいつのまにかすぐそばにいたディードとヘンリックも、鼻をすすり頬を紅潮させながら、何度もうなずいた。
「ほんとにすごかった。すごかったよ、ラピス……!」
「うん。ぼくも感動した。なんかわからないけど……震えたっ!」
いつも飄々としているギュンターまで、「父上たちにも聴かせてあげたかったな」と瞳を潤ませている。
ラピスのほうこそ感動していると、星空色の古竜が話しかけてきた。
『ごらん、愛し子よ』
言われて目を向ければ、古竜たちの視線が、竜王に注がれている。
いつのまにか、竜王の躰が光り輝いていた。
七色の流星がその身に降り注ぎ、そのたび竜王の躰がドクンドクンと音をたてて拍動する。
未だ目を醒ましてはいないけれど、もう、暗色ではない。何色ともつかず輝いて、どんどん大きくなっていく。
『ああ、王も喜んでいる!』
『力が満ちてくる』
『歌い手たちよ、どうか我らの王に、もっと歌ってはくれまいか』
『喜んで!』
それからラピスはクロヴィスと共に、尽きぬほど歌った。
師弟の想い出だけでなく、仲間たちのことも。
ジークの焚火の手際の良さや馬術の見事さ、ディードとヘンリックの論争や、いつのまにか皆の潤滑剤となってくれるギュンターについてなど。
明るい歌ばかりだから、少年三人組はまた踊り出し、ギュンターも参加した。
彼は驚くほどリード上手で、最初は反抗していたディードも、いつのまにやら一緒にワルツを踊っている。
クロヴィスは、ラピスと踊る以外は歌に集中していたけれど……
「踊っていただけますか」
ジークに手を差し出され、思いっきり顔をしかめた。さらにその手をバシッと叩くも、ジークはめげずに叩かれた手でクロヴィスを捕まえ、強引に踊りの輪の中へと連れ出してしまった。
歌を中断できないクロヴィスが、思わず竜言語で
『コノヤローッ!』
と怒鳴ったので、ラピスも古竜たちも大笑いした。
クロヴィスは自棄になったように踊り出したが、実に華麗なステップだ。長身の二人のダンスはものすごく見栄えがして、外套の裾が翻るのも格好いい。
ラピス以外は皆、社交界でのマナーとしてダンスを叩き込まれているらしい。ラピスもこの旅が終わったらダンスを習おうと、ギュンターにくるくる回されて笑い声を上げながら思った。
そうして、きらきらと星降る中で、人も竜も一緒に歌って、笑って。
どれほどそうしていただろう。
不意に、ドン! と轟音が大気を打ち――
世界が変転した。




